第23話:スパルタ教育の続き
レオンハルトの肩の傷が完全に癒えるまで、二週間かかった。
その間、王宮は急速に日常を取り戻していった。クレールモンとの新たな通商条約の草案が進み、シュヴァルツェン領の再編成も軌道に乗り始めている。フェリクスは辺境に帰り、ディートリヒは領地と王宮を行き来する生活に戻り、ルシアンの手紙は引き出しの中で静かに眠っている。
レオンハルトだけが、変わらなかった。
以前と同じ時刻に執務室に現れ、以前と同じ量の書類を並べ、以前と同じ無表情で案件を読み上げる。肩の包帯が取れた日も、特に何も言わなかった。
けれど、私の目に映るレオンハルトは、もう半年前のあの男ではない。
書類を精査する横顔を見ると、十二歳のレオンハルトが提案書を書いている姿が重なる。ハーブティーが机に置かれていると、毎日私を観察して薬草を選んでいたのだと思い出す。厳しい声で指摘される度に、あの厳しさは私を強くするためだったのだと、今はわかる。
氷の悪魔、と呼んでいた日々が、嘘みたいに遠い。
◇
異変は、小さなところから始まった。
レオンハルトが、私から目を逸らすようになったのだ。
以前は書類を手渡す時、必ず私の目を真っ直ぐに見ていた。鋼色の瞳で射抜くように。けれど最近、書類を渡す瞬間にわずかに視線が外れる。指が触れそうになると、さりげなく離れる。
報告の声も、ほんの少し硬い。以前は事務的だった。今は、事務的であろうと努力している。その差に気づいた自分にも驚いた。
ある日の夕刻、一日の執務が終わった後、レオンハルトが席を立った。
「陛下。お話があります」
いつもと同じ無表情。けれど、声の底に微かな緊張が混じっていた。
「何でしょう、レオンハルト殿」
「私は──宰相補佐官の職を退かせていただきたく存じます」
一瞬、何を言われたか理解できなかった。
「……辞任?」
「はい。シュヴァルツェン家の脅威は排除されました。クレールモンとの関係も安定しています。宮廷の空気も陛下を支持する方向に定まった。私が陛下のお傍にいる理由は、もはやございません」
レオンハルトの声は穏やかだった。穏やかすぎた。いつものような冷徹な合理性ではなく、何かを無理に押し殺しているような静けさ。
「陛下はこの半年で、一人で立てる女王になられました。通商条約の罠を見破り、物価高騰を収め、反女王派を法で退け、クレールモンの最後通牒を外交で切り返された。もう私の補佐は不要です」
「不要だと、あなたが決めることではないでしょう」
「陛下──」
「どうして?」
声が尖った。自分でも驚くほど鋭い声だった。
「どうしてあなたはいつもそうなの。全部一人で決めて、全部一人で背負って、全部一人で片付けようとする。七年間、私のために法整備を進言して、毎日ハーブティーを淹れて、書類の量を調整して、命がけで刺客から庇って──全部やり終えたら、一人で去ろうとする」
レオンハルトは黙っていた。
「あなたの辞任理由は、全部嘘でしょう」
「嘘ではありません」
「嘘よ。本当の理由を言いなさい」
沈黙が落ちた。窓から夕日が差し込んでいる。レオンハルトの灰青色の髪に、橙色の光が混じっている。
長い間があった。
やがて、レオンハルトが低い声で言った。
「……私は、以前のように陛下に接することができなくなっています」
「どういう意味?」
「宰相補佐官として、私は陛下に対して常に公正であるべきです。感情を排し、数字と法律だけで判断を補佐するのが私の職務です。しかし」
レオンハルトが、初めて私の目を見た。鋼色の瞳が揺れていた。
「──私はもう、陛下を公正に見ることができません。書類を渡す時に手が震える。報告をしている時に声が上ずる。陛下の顔を見ると、胸が苦しくなる。……これでは、宰相補佐官は務まりません」
声が、かすかに震えていた。あの氷の男が。数字と法律しか口にしなかった男が。
「だから、退きます。陛下に判断を曇らせるような人間が傍にいるべきではない」
レオンハルトは再び目を逸らした。窓の外を見ている。いつもの逃げ方だ。この男は感情を見せそうになると、必ず窓の外を見る。
私は椅子から立ち上がった。
執務室を横切り、レオンハルトの正面に立った。
背が高い男だ。見上げなければ目が合わない。けれど、今は見上げなければならない。
「レオンハルト」
名前を呼んだ。敬称なしで。
「何でしょうか、陛下」
「私の王配になりなさい」
時が、止まった。
レオンハルトの完璧な無表情が──初めて、完全に崩壊した。
鋼色の瞳が見開かれた。口が半開きになった。凍りついたように動かなくなった。七年間にわたって積み上げてきた仮面が、たった一言で砕け散った。
「……は?」
「聞こえなかった?」
「い、いえ、聞こえました。聞こえましたが──」
「辞任は却下。代わりに、昇進よ。宰相補佐官から王配へ。職務内容は同じ。一生、私にスパルタ教育を続けてちょうだい。あなた以外に、それを任せられる人はいないから」
レオンハルトが一歩後退した。壁にぶつかった。逃げ場がなくなった。
「陛下、私は──」
「公正に見られないんでしょう? 書類を渡す時に手が震えるんでしょう? 報告している時に声が上ずるんでしょう? 私の顔を見ると胸が苦しいんでしょう?」
一歩ずつ詰め寄った。
「それは全部、あなたが私を大事に思っている証拠でしょう。なんでそれが辞任の理由になるの」
「しかし」
「しかしも何もないわ。あなたの理屈で言えば、私も同じよ。あなたの報告を聞いている時に内容が頭に入ってこないことがある。あなたがハーブティーを淹れてくれているとわかった日から、あの味が前より甘く感じる。あなたが庇ってくれた夜から、あなたの肩の傷が気になって書類が手につかない日がある」
レオンハルトの目が、大きく見開かれた。
「お互い様でしょう。なら、二人とも辞めるか、二人とも続けるか。どちらかしかないわ」
沈黙。
「……命令ですか」
声が、震えていた。
「命令よ。女王の命令です」
また長い沈黙があった。夕日が執務室を橙色に染めている。書類が積まれた机。インクの匂い。窓の外では、鳥が鳴いている。
「……では、従うしかありません」
レオンハルトの声は、ほとんど囁きだった。
その顔に浮かんでいたのは、名前のつけられない表情だった。泣いているわけではない。笑っているわけでもない。けれど、あの鋼色の瞳が温かく光っているのを、私は初めて見た。
不器用で、ぎこちなくて、顔の筋肉がうまく動いていない。
けれど、本物の笑顔だった。
「ただし」
レオンハルトの声に、いつもの硬さが戻った。ほんの少しだけ。
「スパルタ教育は、さらに厳しくなりますが」
「……望むところよ」
笑った。二人で笑った。上手に笑えたかどうかはわからない。けれど、あの執務室に響いた笑い声は、半年間で一番温かい音だった。
◇
レオンハルトが扉に手をかけた。
去り際に、振り返った。
「陛下」
「何?」
「……あのハンカチ。返す気はありません」
「知ってる。あげたものだから」
レオンハルトの耳が赤くなった。七年間の仮面が砕けた痕が、まだそこに残っていた。それだけ確認して、私は満足した。
扉が閉まり、一人になった執務室で、窓の外の夕焼けを見た。
半年前、戴冠式の日にこの執務室で泣いていた自分を思い出す。王冠が重くて、何もわからなくて、逃げ出したくて仕方なかった。あの日の私に教えてあげたい。
大丈夫よ。半年後には、あなたはちゃんと笑えるようになるから。
しかも、世界で一番不器用な男を、自分から口説いているわよ。
机の上にハーブティーがあった。今日の香りは、甘かった。祝福のような、花の香り。
一口飲んだ。
泣きながら笑った。甘くて、温かくて、少し苦い。いつものハーブティーの味だった。




