第22話:それぞれの道
クレールモンの危機が去り、王宮に平穏が戻った。
あの七日間の緊張が嘘のように、廊下には陽光が差し込み、侍女たちの足音も穏やかになっている。ブルクハルト侯爵が私への支持を表明して以来、宮廷の空気は以前とは明らかに変わっていた。もはや「末の姫」と陰で囁く者はいない。
けれど、一つの問いがまだ残っている。
王配を、選ばなければならない。
◇
ディートリヒが面会を求めてきたのは、その翌日のことだった。
執務室に通すと、いつものように腕を組まず、背筋を伸ばして立った。赤銅色の髪が窓からの光に映えている。日に焼けた肌と、焦茶色の瞳。貴族らしくない、けれど誰よりも信頼できる男。
「陛下。お時間をいただきたいことがあります」
「どうぞ」
ディートリヒは一拍、間を置いた。この男が言葉を選ぶのは珍しい。
「陛下は、私を選ばないのですね」
問いかけではなかった。確認だった。この男は、とうにわかっている。
だから、私も正面から答えた。
「ディートリヒ殿。あなたは最も信頼できる政治家です」
「……政治家、ですか」
「だからこそ、王配ではなく、対等な盟友として隣にいてほしいのです」
ディートリヒは一瞬だけ目を伏せた。ほんの一瞬。その瞳の奥で何かが凝縮されるのを、私は見た。けれどそれを口にする男ではない。ディートリヒは言葉にしない感情を、言葉にしないまま胸にしまうことができる人間だ。
顔を上げた時には、彼はもういつもの表情に戻っていた。
「……それは口説き文句としてはかなり反則ですよ、陛下」
思わず笑ってしまった。
「口説いたつもりはありません」
「ええ、承知しています。だからこそ反則なのです」
ディートリヒの口元に、苦笑めいた微笑みが浮かんだ。それは初めて見る表情だった。政治家でも武人でもない、一人の男の顔。
「一つ、ご報告すべきことがあります」
「何でしょう」
「外交危機の間、私は密かに私兵にもう一つの任務を与えていました」
「……もう一つの任務?」
「陛下の護衛です」
驚いた。ディートリヒの私兵は国境に展開していたはずだ。
「国境に向かった部隊とは別に、少数の精鋭を王宮周辺に配置していました。レオンハルト殿が負傷している以上、万が一に備えて。……私の勝手な判断で兵を動かしました。申し訳ありません」
信頼していたけれど、言わなかった。そういう男がレオンハルトの他にもいた。
「ディートリヒ殿」
「はい」
「ありがとう。これからも、盟友として──」
「もちろん。政治的盟友ほど、便利で退屈な関係はありませんからね」
退屈、と言いながら笑っていた。口は悪いが、その笑みは温かかった。
ディートリヒは一礼して去った。背筋は真っ直ぐだった。戦場でも議場でも、この男の背中は曲がらない。
去り際に、彼は振り返らずに言った。
「陛下。あの男──レオンハルト殿は無骨で融通が利きませんが、あれほど陛下に対して誠実な人間を、私は他に知りません。どうか、大事になさってください」
扉が閉まった。
一人で少しだけ泣いた。ディートリヒの前では泣けなかったから。
◇
午後、薬草園に向かった。
王宮の東棟の裏手にある小さな庭園。フェリクスが王宮に滞在している間、この場所を自分の居場所にしていた。宮廷の華やかさとは無縁の、土と緑と陽光の場所。
フェリクスはいつものように、膝をついて薬草の手入れをしていた。亜麻色の髪が風に揺れている。陽に焼けた指先が、丁寧に苗を支えている。私が近づくと、穏やかな水色の瞳が顔を上げた。
「あ、アイリス」
「アイリス陛下、でしょう?」
「……あ、ごめん。アイリス陛下」
全然悪びれていない。この人は昔からこうだ。
薬草園の端にある石のベンチに並んで座った。午後の陽が柔らかい。風が薬草の香りを運んでくる。ラベンダーとカモミールと、名前の知らない草の匂い。
しばらく無言だった。フェリクスとの時間は、いつもこうだ。何も言わなくても居心地がいい。けれど今日は、言わなければならないことがある。
「フェリクスお兄様」
「うん」
「あなたの居場所は、ここではないでしょう?」
フェリクスは驚かなかった。水色の瞳が、少しだけ細くなった。
「……うん。わかってる」
風が吹いた。薬草の葉が揺れた。
「ねえ、アイリス。一つだけ、聞いてくれる?」
「何でも」
「僕が薬草を好きだったのは、最初はただの趣味だったんだ」
フェリクスは手の中で小さな葉を転がしていた。
「花を育てるのが楽しくて、効能を調べるのが面白くて。子どもの遊びの延長だった」
穏やかな声だった。けれど、どこかに棘がある。
「でも──君の兄君一家が病に倒れた時、僕は何もできなかった」
心臓が、締められた。
「ルートヴィヒ殿に流行り病の兆候が出た時、僕は自分の薬学の知識で何かできるんじゃないかって思った。でも、あの病に効く薬を、僕は知らなかった。文献を探しても見つからなかった。宮廷医にも手に負えなかった。……僕がルートヴィヒ殿から貰った薬草園の隅で遊んでいる間に、ルートヴィヒ殿は亡くなった」
フェリクスの声が、静かに震えていた。
「あの時から、趣味じゃ駄目だと思った。本気で極めなきゃって。次こそは、誰かを救える薬師にならなきゃって。だから辺境に籠もって研究に没頭した」
知らなかった。
フェリクスが辺境で薬草研究に打ち込んでいたのは、穏やかな性格のせいだと思っていた。宮廷が嫌で、自然が好きで、のんびり暮らしたいだけなのだと。
けれどその裏には、兄一家を救えなかった悔いがあった。あの穏やかな微笑みの奥に、ずっと痛みを抱えていたのだ。
「フェリクスお兄様……」
「だから毒殺未遂の夜は──役に立てて、嬉しかった」
フェリクスが微笑んだ。あの夜、崖を登って薬草を採ってきてくれた。傷だらけで戻ってきて、「間に合って、よかった」と崩れ落ちた。あれは、兄たちの時に間に合わなかった悔いを、ようやく乗り越えた瞬間だったのだ。
「ありがとう、フェリクスお兄様。あなたがいなかったら、私は──」
「ううん。お礼を言うのは僕の方だよ」
フェリクスが懐から小さな袋を取り出した。中に、薬草の種が入っている。
「これ、持っていて」
「何の薬草?」
「バレリアン。心を落ち着ける効能がある。眠れない夜に煎じて飲んで」
小さな種の袋を受け取った。フェリクスの手は温かかった。
「僕がいなくても、この薬草が守ってくれるから」
涙を堪えた。堪えきれなかった。
「……フェリクスお兄様」
「うん?」
「ちゃんと、幸せにならなきゃ駄目よ。約束して」
フェリクスは少し困ったように笑った。
「それは君も、でしょ」
薬草園に午後の光が差している。ラベンダーの紫とカモミールの白が風に揺れている。この穏やかな時間が、終わろうとしている。
フェリクスは明日、辺境の領地に帰る。薬師として。王配候補ではなく、一人の薬師として。
「たまには手紙を書いてね」
「書くよ。薬草の育て方しか書けないけど」
「それでいい」
並んで座ったまま、しばらく薬草園を眺めていた。
これが、五人の候補者のうち四人との別れだ。ルシアンは手紙で。ディートリヒは盟友として。フェリクスは家族として。クリストフは──おそらく、もう二度と会うことはない。
残ったのは、一人。
あの不器用で、無愛想で、ハーブティーばかり淹れている男。
答えは、もう出ている。




