第21話:最後の外交戦
翌朝、御前会議の間に重臣たちが集められた。
議場の長卓には、宰相ヴェーバー公爵を筆頭に、貴族院の重鎮たち、軍務顧問、財務長官の顔が並んでいる。ブルクハルト侯爵もいた。あの日、「末の姫に何ができる」と言い放ち、フェリクスを国王に擁立しようと策謀を巡らせた男が、厳しい顔で末席に座っている。
レオンハルト、ディートリヒ、ルシアンは議場の右手に控えていた。王位継承権を返上したフェリクスには、御前会議への参加資格がなくなった。
私は玉座ではなく、長卓の上座に座った。今日は儀礼的な会議ではない。戦略を練る場だ。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます。ご存じの通り、クレールモン公国の第一公子アルベルトの名で、七日以内の最後通牒が届きました」
議場にざわめきが走った。昨夜の急報を知らない者もいたらしい。
「これに応じなければ、事実上の開戦です」
「陛下、まずは軍備の確認を──」
「いいえ。軍備の話は後です」
声を遮った。議場が静まった。
「まず確認すべきは、この最後通牒の性質です」
レオンハルトに目で合図を送ると、彼はクレールモンからの書簡の写しと、五代前のシュヴァルツェン大公の婚姻についての概略を重臣たちに配った。
「先ほど申し上げた通り、書簡の署名はクレールモン公の名ではなく、第一公子アルベルトの名義です」
「それは──公の裁可を得ていない可能性がある、ということですか」
宰相が眉を上げた。
「はい。そして、この点が最も重要です」
私は立ち上がった。
「昨夜、ルシアン殿と確認したことがあります。クレールモン公国では過去にも急進派が公の裁可なく暴走した前例がありました。その時、公自身が急進派を粛清して事態を収めています。つまり、クレールモンの統治機構は、公が望まない戦争は起こせない仕組みになっている。今回の最後通牒も、第一公子アルベルトと急進派の独走である可能性が極めて高い」
議場に動揺が走った。
「外交だけで解決できるのですか?」
「万が一、公がすでに急進派に取り込まれていたら?」
「軍備を整えぬまま、外交に時間を費やすのは危険では──」
反対意見が飛び交う。無理もない。最後通牒を突きつけられた状況で、「戦わずに済む」と言われても、信じきれないのは当然だ。
その時、一人の男が立ち上がった。
ブルクハルト侯爵だった。
議場が静まった。この男が発言する時、場の空気は常に変わる。保守派の重鎮であり、反女王派の中心と目される人物。この男が何を言うのか、全員が身構えた。
「私が口を挟む資格があるかどうかは、陛下ご自身がお決めになることだ」
低く、重い声だった。
「だが、一つだけ言わせていただきたい」
老侯爵の灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見た。
「私はかつて、末の姫に何ができると申しました。あれは私の不明でした」
議場が凍った。
ブルクハルト侯爵。即位の日に、私の目の前で「末の姫に何ができる」と嘲った男。その裏でフェリクスに接触し、擁立工作を仕掛けた男。
その男が、衆目の中でかつての発言を撤回している。
「通商条約の罠を見破り、物価高騰に自ら市場を歩いて対処し、反女王派の策を法で退けられた。今また、開戦の危機に戦わずして勝つ道を示されている。これだけのことができる王を、小娘と呼んだ私が愚かだったのです」
一礼して座った。
長い沈黙の後、宰相が静かに手を叩いた。一つ、二つ。それが広がり、議場に拍手が起こった。最も厳しかった批判者が味方に回ったことで、御前会議の空気が決定的に変わった。
「陛下の戦略をお聞かせください」
宰相が促した。
私は頷き、三段構えの作戦を説明した。
「まず第一に、ルシアン殿に先行して帰国していただきます」
ルシアンに目を向けた。彼は静かに頷いた。
「ルシアン殿には帰国後、急進派の内部情報と第一公子の弱点を書簡で知らせていただきます。どの貴族が急進派に与し、どの貴族が穏健派に留まっているか。公の現在の立場と意向。急進派の軍事力の実態。それらがあれば、こちらの外交書簡の文面を的確に調整できます」
「了解しました。自国の機密をお渡しすることになりますが」
ルシアンが苦笑した。
「もはや、何を今更ですね。お引き受けします」
「第二に、ディートリヒ殿」
ディートリヒが腕組みを解いた。
「クレールモンとの国境に精鋭の部隊を展開してください。実戦ではなく、示威です。戦争をするつもりはないが、舐められるつもりもない──その姿勢を見せることで、交渉における私たちの立場が強くなります」
「防衛態勢の展開なら、三日で整います」
ディートリヒは即座に答えた。この男は軍事に関する判断が異常に速い。
「そして第三に、私自身がクレールモン公に直接書簡を送ります」
議場がざわめいた。
「最後通牒の経緯を具体的に記し、こう問いかけます。『この最後通牒は、クレールモン公の御意思によるものでしょうか』と。急進派が公の裁可なく動いていることは、クレールモン公にとっても権威の問題です。自身の臣下が勝手に他国に宣戦布告の予告をしている──それを放置すれば、公の統治能力が疑われる。クレールモン公には、急進派を抑え込む動機がある」
「つまりクレールモン公の面子を利用して、内側から急進派を潰す、と」
レオンハルトが言い換えた。
「その通りです。そしてこの書簡の文面は、レオンハルト殿と法的整合性を詰めた上で完成させます。急進派が主張するであろう外交的保護権の根拠──五代前のシュヴァルツェン大公の婚姻による小領地の帰属問題──についても、歴史的経緯と慣例法の両面から反論を添えます。こちらの主張が法的に盤石であることを示せれば、クレールモン公が急進派の言い分を退ける後押しになる」
議場が静まった。全員が、私の顔を見ている。
「繰り返しますが、戦争はしません。七日以内に、外交で決着をつけます」
◇
御前会議の後、事態は急速に動いた。
ルシアンは翌日の朝、王宮を発った。
出発の前、庭園で短い別れの言葉を交わした。彼の蜂蜜色の髪が朝の光に透けて、琥珀色にきらめいている。その下にある同じ色の瞳は穏やかだったが、覚悟が滲んでいた。
「陛下。お元気で」
「あなたも無事で。必ず」
「ええ。外交官は、死んでは仕事になりませんからね」
最後にいつもの皮肉げな笑みを見せて、ルシアンは馬車に乗り込んだ。
その背中を見送りながら、胸の奥がかすかに痛んだ。かつて敵だった男が、今は命を懸けて味方になろうとしている。
ディートリヒは同日の午後にはクレールモンとの国境へ向けて出発した。精鋭の私兵と共に。
「戦闘はないと信じていますが、万が一の場合は──」
「ディートリヒ殿。万が一はありません」
「……そう断言できる女王を持てたのは、我々の幸運ですな」
短い敬礼の後、ディートリヒは去った。
そしてレオンハルトと私は、クレールモン公への書簡の起草に取りかかった。
◇
三日間、レオンハルトと二人で書簡の文面を練り続けた。
書簡の骨子は明快だった。
最後通牒はクレールモン公の裁可を経ていないこと。外交的保護権の主張は、五代前の婚姻による小領地の帰属問題を根拠としているが、歴代のシュヴァルツェン大公がクレールモン公に臣下の礼を取った記録は存在せず、慣例法上も当該領地はすでにヴァイスブルクの主権下にあること。そしてシュヴァルツェン家の罪状──密約、毒物の密輸、穀物と薬品の買い占め、王位継承者の暗殺──はすべてヴァイスブルク国内法に基づく正当な司法処分であること。
最後に、一文を添えた。
「ヴァイスブルク王国は、クレールモン公国との友好を心より望んでおります。しかし、一部の臣下の独断により両国の関係が損なわれることがあってはなりません。この最後通牒がクレールモン公の御意思によるものでないことを確認できれば、私たちは喜んで対話の場を設ける用意があります」
レオンハルトが文面を読み返し、赤い墨で修正を入れた。法的な表現の精度を高め、クレールモン公の面子を傷つけない範囲で急進派の非を明示する──その匙加減は、この男にしかできない仕事だった。
「これなら、クレールモン公に急進派を抑え込む口実を与えられます。公は面子を保ったまま、息子の暴走を止める大義名分を得る」
「ありがとう、レオンハルト殿」
彼は無表情のまま頷いた。けれど、いつもよりわずかに肩の力が抜けているように見えた。
書簡は四日目に発送された。
◇
残りの三日間は、待つしかなかった。
待つ時間は長かった。執務をこなしながら、ルシアンからの書簡を待ち、クレールモン公からの返書を待ち、ディートリヒからの報告を待った。
五日目の夕刻には、ルシアンから最初の書簡が届いた。
「急進派の基盤は想定より強固ではありません。兄の周囲にいる貴族の大半は、利権で繋がっているだけです。公が本気で動けば、三日で瓦解します。父は──クレールモン公は、兄の暴走に心を痛めていました。陛下からの書簡が届けば、公は動くと確信しています」
六日目の朝、クレールモン公からの返書が届いた。
短い書簡だった。
「ヴァイスブルク女王陛下。最後通牒は余の意に拠るものにあらず。急進派の処分は余自ら行う。両国の友好を損なわぬよう善処する所存である」
レオンハルトが書簡を読み上げた時、執務室の空気が変わった。
(──勝った)
七日目を待たずに、クレールモン公自身が急進派の粛清に動いた。ルシアンの兄アルベルトは「クレールモン公への反逆」の嫌疑をかけられて失脚し、急進派の貴族たちは次々と処分された。
開戦は、回避された。
◇
知らせが届いた王宮で、緊急の報告会が開かれた。重臣たちの表情は一様に安堵に染まっている。
ディートリヒが東部国境から戻ってきた。精鋭部隊は干戈を交えることなく帰還した。
「戦わずして勝つ」
ディートリヒが低く呟いた。報告会の場で、腕を組んだまま。
「陛下は、私の知るどの政治家よりも恐ろしい方だ」
それが賛辞であることは、ディートリヒの口元の微かな笑みでわかった。
私は微笑んだ。
「条約や法律だけでは国は守れません。必要なのは、正しい人を、正しい場所に、正しい時に動かすこと」
議場の貴族たちを見渡した。かつて私を疑い、反発し、それでも最後には力を貸してくれた人々。ブルクハルト侯爵は末席で静かに頷いていた。
「それは、私を支える方々が教えてくれたことです」
レオンハルトの方を見なかった。見なくても、あの男の表情が変わらないことはわかっている。けれど、耳の先だけは赤くなっているだろう。
◇
危機が去った数日後、ルシアンから一通の書簡が届いた。
公式の外交文書ではなかった。封蠟にはクレールモン公室の紋章ではなく、ルシアン個人の印章が押されている。
執務室で一人、封を切った。
「陛下へ。
兄は失脚し、公国は穏健派の下で安定に向かいます。私が功を認められるかは微妙なところですが──生きてはいます。ご安心を。
一つだけ、告白を許してください。
最初、私はあなたを利用するつもりでした。弱い女王を操り、クレールモンに有利な条約を結ばせ、手柄を持ち帰る。それが私の任務でした。
しかし、あなたは私のすべての計算を狂わせた。
初めての茶会で、クレールモンの詩を口ずさまれたことを、ご記憶でしょうか。あれは、私の亡くなった母の作品なのです。当時のクレールモンでは装飾写本が流行していたため、父が母を喜ばせようといくつか制作させたようです。その一冊がヴァイスブルクの王宮に収められ、しかも陛下が詩の一つを諳んじられたと聞き、父も大層驚いておりました。
茶会であなたが母の詩を口ずさんだあの日から。外交の場で私を正面から打ち負かしたあの日から。毒を盛られても退かず、王冠を投げ出さなかったあの日から。気づけば、あなたのことばかり考えていました。
これは外交文書ではなく、一人の男の手紙です。
あなたを愛しています。
ですが、あなたの隣にふさわしい男が誰かは、とうにわかっています。あの不器用で融通の利かない、ハーブティーばかり淹れている男のことです。
どうか幸せに。いつか、対等な友人として再会できることを願っています。
ルシアン・ド・クレールモン」
手紙を読み終えて、窓の外を見た。
目が熱くなった。涙が零れた。
悲しいのではない。温かいのだ。
「……ずるい人。最後に本気を見せるなんて」
手紙を丁寧に折り畳み、引き出しにしまった。捨てることはない。この手紙は、半年間の中で受け取った、最も誠実な言葉の一つだから。
窓の外では、夕日が王宮の庭園を金色に染めていた。
次に会う時は、外交官としてではなく、友人として。そう願った。




