第20話:真実の幼馴染
『女王の命令』に従い、レオンハルトは確かに三日間、部屋から出ることはなかった。
しかしその間、私は何度もあの部屋を訪れる羽目となった。療養初日からレオンハルトは「執務に支障が出ます、書類をお持ちください」と催促してきたのだ。周囲からは女王自ら書類を臣下に持っていくものではないと軽く諫められたが、私は押し切った。
(私を庇って怪我したのよ。様子が気になるのは、人として当然じゃない)
包帯の巻かれた肩を庇いながら、片手で書類を捌いていくレオンハルトを見ていると、この男の日常がいかに仕事で埋め尽くされているかがよくわかる。部屋には娯楽品の類が一切ない。読書すら、すべてが実務に関連する書籍だ。
あの小さな木の箱だけが、この男の私的な感情が存在する唯一の証だった。
そして四日目の朝、レオンハルトは執務室に復帰した。左肩に包帯を巻いたまま、いつもと同じ時刻に、いつもと同じ量の書類を抱えて。
「陛下、不在の間に滞っていた案件が七件あります」
あまりの平然さに笑いが漏れた。
「……怪我人がそんなに働いていいの?」
「刺されたのは肩です。頭は無事です」
レオンハルトなりの冗談なのか、本気なのか、判別がつかない。おそらく本気だろう。
◇
その日の午後、宰相ヴェーバー公爵から面会の申し入れがあった。
宰相自ら足を運んでくるのは珍しい。通常は私が宰相室を訪ねるか、御前会議の場で顔を合わせるかだ。しかも「内密に」と添えられていた。
執務室にレオンハルトがいることを確認すると、宰相は少し困ったような顔をした。
「……息子もいるのですか」
「レオンハルト殿には席を外していただきますか?」
宰相は少し考えて、首を横に振った。
「いえ。むしろ、聞いていたほうがよいでしょう。今日お話しすることは、あの子に関わることですから」
レオンハルトの表情が、かすかに強張った。
「陛下。本日は、息子──レオンハルトのことについて、お話しさせていただきたく参りました」
宰相は椅子に腰を下ろし、杖を膝の横に立てかけた。老いた指が杖の頭を撫でている。
「陛下は、レオンハルトがいつから陛下のことを考えていたか、ご存じですか」
「……いつから、ですか」
「十二歳の時です」
宰相の目が、遠くを見た。
「ある日、あの子が私の書斎に来ましてな。『父上、女王の即位を法的に補強する条文を整備すべきです』と」
十二歳。私がまだ末の姫で、兄たちが健在で、王位などまったく縁のなかった頃の話だ。
「何のことかと問うたのです。すると、あの子はこう答えました。『アイリス様が王位に就く日が来るかもしれない。その時、法的な根拠が弱ければ反対派に潰される。今のうちに備えておくべきです』と」
十二歳の少年が、末の姫の即位を想定して法整備を進言した。
その意味を、私はすぐには理解できなかった。
「当時は私も戸惑いました。末の姫殿下が王位に就く可能性など、普通は考えません。しかしあの子は大真面目でした。王位継承法の条文を丸暗記し、過去の判例を調べ上げ、穴を一つ一つ潰す提案書まで書いてきた。十二歳の子どもの字で」
宰相は苦笑した。
「それから、あの子の人生は変わりました。いえ、あの子が自ら変えたのです」
法整備の進言。人脈の構築。厳しい教育。
「陛下がご即位された時、ブルクハルト侯爵のような保守派貴族の反発にもかかわらず、これといった反対論が出なかったのは、法制度上の隙がなかったからです。あれは──十二歳のレオンハルトが、七年かけて整えた地盤の上に成り立っていました」
声が出なかった。
「あの子の人生のすべてが、陛下のために費やされてきたと言っても過言ではありません」
宰相の声が震えた。父親としての誇りと、父親としての痛みが、同時に滲んでいた。
「息子がなぜあれほど厳しく陛下に接するのか。なぜ感情を見せないのか。あの子は、自分が感情を見せれば、陛下の判断を曇らせると考えているのです。だから、仮面を被る。数字と法律だけで語る。陛下が正しい判断を下せるように」
レオンハルトを見た。
彼は窓の外を見ていた。父親の言葉を聞きながら、表情を変えずに窓の外を見ている。けれど、その耳の先まで朱が差していることに、私は気づいた。
「宰相」
「はい」
「ありがとうございます。教えてくださって」
宰相は深く頭を下げた。
「……本来であれば、あの子自身の口から申し上げるべきことです。ですが、あの子はご存じの通り、不器用な人間ですので」
レオンハルトが小さく咳払いをした。
◇
宰相が退出した後、私は執務室の椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
すべてが繋がった。
ハーブティー。あれの淹れ主はレオンハルトだった。私の体調を毎日観察し、その日の状態に合わせて薬草を選んでいた。
体調が悪い日に減る書類。レオンハルトが密かに優先度を調整し、私の負担を減らしていた。
クリストフへの不審の示唆。「シュヴァルツェン家の現状をご存じですか」。あの一言は、証拠が揃う前に私に警戒心を持たせるための、ぎりぎりの助言だった。
毒殺未遂の独自捜査。表向きはグラーフ男爵の単独犯として処理されたが、レオンハルトは独自に毒の入手経路を追い、シュヴァルツェン家との繋がりを突き止めた。
そしてすべての「厳しさ」。あの容赦のないスパルタ教育は、私を強くするためだった。女王として一人で立てるように。誰にも潰されないように。
すべてが、レオンハルトだった。
あの無表情の裏に、七年分の想いが詰まっていた。
立ち上がろうとした、その時だった。
◇
扉が激しく叩かれた。
「陛下! 緊急です!」
ディートリヒが飛び込んできた。息を切らしている。この男が息を切らすのは初めて見る。
「クレールモン公国から最後通牒が届きました」
レオンハルトが書簡を受け取り、目を通した。その表情が、みるみる険しくなった。
「……読み上げます。『ヴァイスブルク王国は、クレールモン公国臣民であるシュヴァルツェン家の当主および次男を不当に拘束し、両国間の通商に重大な損害を与えた。本件は国際法上の外交的保護権の侵害に該当する。七日以内に両名を釈放し、損害の賠償および通商条約の再締結を求める。これに応じない場合、クレールモン公国は自国民と権益を守るためのあらゆる手段を行使する権利を留保する』」
外交的保護権。自国民が外国で不当な扱いを受けた場合に、国家が介入する権利だ。シュヴァルツェン家がクレールモンとの取引関係にあったことを利用し、「クレールモンの利益を代理する臣民」という建付けで保護権を主張している。
「詭弁が過ぎる。シュヴァルツェン家を『クレールモン公国臣民』などと」
ディートリヒが苦々しく吐き捨てた。
シュヴァルツェン家が、ヴァイスブルク王国の由緒ある貴族なのは自明の理だ。その家が犯した罪はヴァイスブルク国内の問題であり、クレールモンの保護権が及ぶ筋合いはない。
けれど私は、シュヴァルツェン家のことを調べている際に図書室で読んだ、大公家の歴史の記載が引っかかった。
「……五、六代前のシュヴァルツェン大公が、シュヴァルツェン領と接するクレールモンの女性領主と婚姻しています。小さな領地だけれど、帰属が曖昧なままシュヴァルツェン領に取り込まれているのではないかしら」
その小領地を今もクレールモン公国の一部とするならば、シュヴァルツェン家は問題の領地の領主という立場においては、クレールモン公国の臣民と主張できなくもない。
「しかし陛下。歴代のシュヴァルツェン大公がクレールモン公に臣下の礼をとっているなど、聞いたことがありません。もはや件の領地にクレールモンの君主権は及んでいない、と解釈すべきでは」
ディートリヒの言が正しい。クレールモン公国の主張は単なるこじつけであり、詭弁を弄しているに過ぎない。
だが、詭弁であろうと、最後通牒は最後通牒だ。
「とはいえ、単なる言いがかりと断じることは難しくなります。現実として、クレールモンは『相応の措置』、つまり宣戦布告を予告しています」
レオンハルトの声が低く響いた。
「この最後通牒は、クレールモン公の裁可を得ているのですか」
「確認できません。書簡の署名はクレールモン公の名ではなく、第一公子アルベルト──ルシアン殿の兄の名義です」
ルシアンの兄。あの通商条約を仕掛けてきた主戦派の中心人物。そして、刺客を送り込んできた男。
ディートリヒが顎を引いた。
「急進派の独走である可能性が高い。しかし、第一公子の名で送られた以上、無視すれば向こうの口実になります」
「七日以内……」
七日しかない。開戦を避けるために、七日で手を打たなければならない。
◇
最後通牒の知らせは、宮廷中に広まるのに半日もかからなかった。
その夜、ルシアンが執務室を訪れた。
いつもの余裕ある微笑みは、消えていた。琥珀色の瞳が真剣な光を帯びている。先日の襲撃で自国の刺客を斬ったあの夜以来、ルシアンの中で何かが変わっていることは、はっきりと見て取れた。
「陛下。あの最後通牒を出したのは、私の兄です」
「知っています」
「兄は……国内の主戦派を煽り、父のクレールモン公の裁可なしに動いています。このまま放置すれば、本当に戦争になりかねない。兄の野心は、もはやシュヴァルツェン家との密約の範囲を超えています」
ルシアンは一歩前に出た。
「陛下、私は帰国します。兄を止めます」
「ルシアン殿。あなたが帰れば、あなた自身が危険ではありませんか。先日の刺客も、あなたの兄の派閥が送ったものでしょう」
「ええ。兄にとって、私はすでに裏切り者です。命の保証はありません」
ルシアンが初めて、本当に初めて、飾りのない顔で私を見た。外交官の仮面も、貴公子の微笑みもない。一人の男としての覚悟が、琥珀色の瞳に宿っていた。
「外交官は、命を懸けて平和を守るものです。……今度こそ、建前ではなく」
あの通商条約の夜、彼は同じような言い回しをしていた。あの時は建前だった。けれど、今は違う。声の響き方が違う。
私は立ち上がった。
「待ってください、ルシアン殿」
ルシアンが足を止めた。
「あなた一人に行かせるつもりはありません。私には、もう少し別の手があります」
ルシアンの目が見開かれた。
「クレールモン公国の歴史を読んでいて、気づいたことがあるのです。主戦派が暴走した前例が三代前にもありました。あの時、公自身が主戦派を粛清して収めている。つまり」
「──クレールモンの統治機構は、公が望まない戦争を起こせない仕組みになっている。大国と隣り合う小国の、生存戦略です」
ルシアンが、私の言葉を引き取った。琥珀色の瞳に、驚きと、何か熱いものが宿っていた。
「陛下。あなたは……いつの間にそこまで」
「御前会議を招集します。明日の朝、クレールモンの使節を全員、集めてください」
ルシアンは数秒間、私を見つめていた。やがて、口の端がわずかに持ち上がった。あの皮肉げな笑みではない。もっと素朴な、もっと人間らしい微笑みだった。
「……承知しました、陛下」
一礼して、ルシアンは去った。
◇
一人になった執務室で、窓の外の夜空を見上げた。
宰相の言葉がまだ胸の中で響いている。十二歳のレオンハルトが書いた提案書。七年かけて整えた法的基盤。毎日の観察と、ハーブティーと、書類の量と、すべての厳しさ。
答えは、とうに出ているのかもしれない。
けれど今は、それを口にする前に、やるべきことがある。
クレールモンの最後通牒。七日の期限。
女王として、まず国を守らなければならない。
机の上にハーブティーがあった。いつ置かれたのかわからない。今夜の香りは、強くて苦い薬草の香りだった。戦いの前に、気を引き締めるための処方。
どうやら今夜の淹れ主は、私を鼓舞しているらしい。
一口飲んで、書類に向き直った。
七日分の戦略を、今夜のうちに組み立てなければならない。




