第19話:身を挺して
クリストフの断罪から、三日が経った。
執務室の椅子に座り、書類を広げた。目の前には予算案、領地再編成案、外交書簡の山。日常は待ってくれない。女王は泣き終わった翌日にも書類にサインしなければならない。
けれど、頭の中は動かなかった。
頭の中では、デビュタントの夜の記憶がいつまでも繰り返されていた。「大丈夫ですよ、アイリス様」というクリストフの声。庭園でハンカチを差し出してくれた翡翠の瞳。あの優しさの全てが嘘で、彼の兄の指示で、最初から最後まで計算だったのだと、頭ではわかっているのに、心がまだ追いつかない。
扉が開いた。
レオンハルトだった。いつもの時間に、いつもの書類を抱えて。
「陛下、この予算案の承認が遅れています」
書類を机の上に淡々と並べていく。三日前の選定の儀のことなど何もなかったかのような、いつも通りの事務的な所作だった。
「シュヴァルツェン家の処分に伴う領地の再編成案です。ご決裁を」
書類の表紙に印刷された「シュヴァルツェン」の文字が目に入った瞬間、手が止まった。クリストフの家の名前であり、私の兄たちを殺した家の名前だ。
「陛下、こちらの書類も──」
「やめて」
小さな声だった。
「陛下?」
「やめて!」
書類を払いのけた。机の上の紙が宙を舞い、床に散らばる。勢いよく立ち上がると、椅子が後ろに倒れて鈍い音を立てた。
レオンハルトが、驚いた顔をした。この男が驚いた顔をするのを見るのは、初めてかもしれない。
「あなたには何もわからないでしょう!」
声が裏返った。
「最初から疑っていたんでしょう? クリストフのことを。シュヴァルツェン家のことを。全部知っていたんでしょう? なら、どうしてもっと早く教えてくれなかったの!」
レオンハルトは答えなかった。
「証拠が揃うまで? 証拠が大事? それまで私はずっと、家族を殺した人間の手を取って笑っていたのよ! あの男と踊って、あの男のハンカチを大事に持って、あの男の笑顔を見るたびに心が温かくなって──全部嘘だったのに! 全部嘘だったのに、私だけが知らなかった!」
涙が零れた。選定の儀では流さなかった涙が、今になって溢れ出した。
レオンハルトは、黙って立っていた。
鋼色の瞳が、わずかに揺れていた。それだけだった。
「出て行って」
声が震えていた。
「明日から、私の執務室に入ることを禁じます」
レオンハルトは一礼して、出ていった。
一人になった執務室で、床に散らばった書類を見つめた。
八つ当たりだとわかっている。レオンハルトに罪はない。証拠が揃うまで動かなかったのは正しい判断だ。それは頭ではわかっている。
けれど、頭でわかっていることと、心が納得することは、別だ。
◇
出入り禁止にしたはずだった。
それなのに、翌朝も書類は届いた。副官が運んできたものだが、書類の選別と整理は明らかにレオンハルトの手によるものだった。分類の仕方、付箋の位置、優先度の注記。あの男以外にこんな几帳面な整理をする人間はいない。
しかも、書類の量がいつもより少なかった。朝一で山のように積まれるはずの決裁書類が三分の二ほどに減り、優先度の低いものが外されている。出入り禁止にされてなお、私の負担を減らそうとしているらしい。
机の上には、ハーブティーも置かれていた。まだ温かく、つい先ほど淹れられたばかりだ。今日の香りは穏やかで甘く、心を鎮める薬草のようだった。誰が淹れたのか、副官に聞いてみたが、「朝来たらもう置いてありました」としか答えない。
一口飲んだ。甘くて、苦くて、温かかった。
◇
出入り禁止は、三日続いた。
その間もハーブティーは毎朝机の上に現れ、書類の量は微妙に調整され続けた。ハーブティーの淹れ主が誰なのかずっと気になっていたが、今はそれを考える余裕もなかった。
夜になると、窓の外の衛兵の数が以前より増えていることに気づいた。シュヴァルツェン家の残党を警戒してのことだろうか。誰の指示なのかはわからなかったが、少しだけ安心した。
◇
四日目の夜。
眠れなかった。考えることが多すぎて、頭の中が渦を巻いていた。
私室を出て、王宮の廊下を歩いた。夜気に触れれば少しは頭が冷えるかもしれない。
窓から射し込む月明かりが大理石の床を銀色に染め、王宮はしんと静まり返っていた。衛兵の巡回の時間からは外れている。
ふいに、自分のものではない足音が、背後から聞こえた。
振り返った瞬間、柱の陰から黒い服を纏った男が飛び出してきた。月光に短剣の刃が光った。
体が凍りついた。毒殺未遂の夜とは違う。あの時はテーブルの向こう側だったが、今度は刃が目の前にある。動かなければならないのに、足が石になったように動かない。
短剣が、私に向かって振り下ろされた。
その刃が届く寸前──
誰かが、私と刺客の間に割り込んだ。肉を裂く鈍い音が響き、飛び散った血が月明かりに赤く光った。
レオンハルトだった。
出入り禁止にしたのに。追い出したのに。ひどい言葉を浴びせたのに、この男はずっと私のそばにいたのだ。
レオンハルトの肩から血が噴き出した。深い傷だ。短剣が肩を斬り裂いている。それでもレオンハルトは倒れなかった。片手で刺客の腕を掴み、壁に叩きつけた。
「衛兵!」
レオンハルトの声が廊下に響いた。血まみれの声。
私は動けなかった。レオンハルトの背中から血が流れている。床に赤い染みが広がっていく。
「泣くな」
レオンハルトが振り返った。血を流しながら、鋼色の瞳で私を射抜いた。
「あなたは女王だ」
その言葉で、正気が戻った。
女王だ。そう、私は女王だ。ここで崩れている場合ではない。
「衛兵を! 廊下の西棟に刺客! 全門を封鎖して逃走経路を断て!」
声が響いた。私の声だ。震えていない。
駆けつけた衛兵が刺客を取り押さえた。だがその直後、別方向から第二の影が迫っていた。
その影を切り裂くように剣が閃いた。月光に蜜色の髪が透ける。ルシアンだった。
第二の刺客に対し、ルシアンは一太刀で相手の武器を弾き、二太刀目で足を薙ぎ、三太刀目の峰打ちで意識を断った。外交官の仮面の下に隠されていた、武人の腕前だった。
二人の男が、背中合わせで私の前に立っていた。血を流す宰相の息子と、自国の刺客を自らの手で斬ったクレールモンの公子。
ルシアンが肩越しに私を見た。
「不格好な姿を見せましたね、陛下。ですが、あなたを守れるのは、私たちだけだと知っていただきたい」
レオンハルトが血を拭いながら、隣のルシアンに低く言った。
「……礼を言う」
ルシアンは苦笑した。
「レオンハルト殿に感謝されるとは。世も末のようだ」
◇
衛兵が刺客を連行し、廊下に静寂が戻った後、ルシアンは一人で柱に背を預けていた。
血のついた剣を、丁寧に布で拭いている。自国の、クレールモンの刺客を、自らの手で斬った。もう後戻りはできない。
「……ああ、これが答えか」
呟きは、誰にも聞こえなかった。
最初は利用するつもりだった女王のために、祖国を裏切った。外交官としては最低の選択だ。だが一人の男としては、おそらく人生で最も誠実な選択だった。
剣を鞘に納めて、ルシアンは月明かりの廊下を去っていった。
◇
レオンハルトは医務室に運ばれた。
肩の傷は深かったが、命に別状はないと医師は言った。治療が行われている間、私は医務室の外の廊下で待った。壁に背をつけて、床に座り込んで。女王らしくない格好だが、咎める者はいなかった。
治療が終わった後、レオンハルトの部屋で経過を見ることになった。医師が去り、侍女が去り、部屋に二人きりになった。
レオンハルトは寝台に横たわっている。左肩には包帯が厚く巻かれている。顔色は悪いが、鋼色の瞳はいつも通り冷静に見えた。
「陛下、私のことは構わず、お休みください」
「黙りなさい」
部屋を見回した。レオンハルトの部屋は簡素だった。最低限の家具と、大量の書籍。本棚には法律書、経済書、歴史書が隙間なく並んでいる。書斎と寝室を兼ねたような、飾り気のない部屋。
書棚の奥に、一つだけ異質なものがあった。
小さな木の箱。装飾はなく、使い込まれて色が変わっている。本棚の最上段の、一番奥。隠すように置かれているが、埃は積もっていない。頻繁に手に取られている証拠だ。
好奇心に負けた。レオンハルトが「陛下、それは──」と言いかけるのを無視して、箱を手に取った。
蓋を開けた。
中には三つのものが入っていた。
一つ目は、不格好な刺繍のハンカチだ。「レオンハルトへ」と歪んだ文字で縫い取られていて、左右非対称で、糸が何度もほどけた跡がある。二つ目は、拙い文字の手紙。「レオンハルトさま いつもありがとう アイリスより」と書かれた便箋は、端が少し破れていた。三つ目は、名前も知らない野の花の押し花で、茶色く変色しているが丁寧に紙に挟まれて保存されていた。
全部、私のものだった。
幼い頃に作って、「失敗作だ」と思って捨てたもの。レオンハルトに見せたら「左右対称になっていない」と批判されて、悔しくて泣いたハンカチ。
捨てたはずだった。批判されて、もういらないと思ったはずだった。
なのに、全部ここにある。丁寧に、大切に保管されている。
「……なぜ、こんなものを」
声が震えた。
レオンハルトは天井を見ていた。こちらを見ようとしない。
「捨てる理由がなかっただけです」
その声が、初めて震えていた。いつも完璧に感情を隠し、数字と法律しか口にしないこの男の声が、今はっきりと揺れている。
「嘘つき」
私は箱を胸に抱いた。
「捨てる理由がないだけの人が、こんなに丁寧にしまっておくわけないでしょう」
レオンハルトは答えなかった。
「ハーブティー。あれ、あなたでしょう」
なおも天井を見つめているレオンハルトの目が揺れた。
毒殺未遂事件があってなお、誰が持ち込んだかも不明な飲食物が私の手に渡ることなど、ありえない。
(そもそも、誰にも見咎められずに女王の執務室と私室に出入りできる人間なんて、いないわ)
答えは単純だ。ハーブティーの淹れ主は、執務室と私室、その両方の警備兵と使用人から信用され、かつ主人への口止めまで可能な人物だということ。
「どうして知っていたの。私の状態を。疲れている日も、泣いた日も、眠れなかった日も──毎回、薬草が変わっていた。どうしてわかるの」
長い沈黙があった。
やがて、レオンハルトが小さく呟いた。
「……観察していれば、わかります」
「観察って……毎日?」
沈黙。
「……毎日です」
涙が溢れた。
止まらなかった。怒りでも悲しみでもない涙が、次から次へと頬を伝っていく。
「あなたは本当に……不器用な人ね」
レオンハルトが、ようやくこちらを見た。鋼色の瞳が、月明かりに濡れている。泣いてはいない。泣いてはいないが、その瞳は今までで一番、人間らしかった。
「……それと、ごめんなさい。出て行ってなんて、あんなひどいこと言って」
「陛下のお怒りは、当然のものです」
「当然じゃないわよ。八つ当たりだと、わかってるの」
レオンハルトが、ほんの少しだけ口の端を持ち上げた。笑顔とは呼べない。けれど、あの無表情とは確かに違う何か。
「では、明日から執務室に入ってもよろしいですか」
「駄目です。三日間、療養に必要な場合を除いてこの部屋から出ることを禁じます。女王の命令です」
「……やはりお怒りではありませんか」
恨みがましい呟きを無視して、私はその場に座り込んだ。
レオンハルトの部屋は静かだった。インクと紙の匂いがする。あの上着と同じ匂い。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
言葉はいらなかった。




