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女王陛下の夫選び  作者: 宗像 凪


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第18話:完璧な偽善者の退場

 沈黙が、大広間を支配していた。


 クリストフの翡翠色の瞳が、私を見つめている。穏やかな笑顔のまま。数百の視線が彼に集中し、蝋燭の炎が壁の紋章を揺らす中で、彼だけが静かに微笑んでいた。

 その仮面の完璧さが、今は恐ろしかった。


「クリストフ殿。あなたの口から、真実を話してください」


 私の言葉が、高い天井に吸い込まれていく。

 クリストフは、しばらく動かなかった。

 微笑んだまま。翡翠色の瞳は穏やかで、いつもの温かな光を湛えている。


 やがて、ゆっくりと口を開いた。


「陛下。どのような真実を、お望みですか」


 声は平静だった。まるで茶会で話題を振られたかのような、軽やかな口調。


「全てです。シュヴァルツェン家とクレールモンの密約のこと。穀物寄贈のこと。毒殺未遂のこと。そして──私のお兄様たちの死のこと」


 クリストフの笑顔が、ほんの一瞬だけ歪んだ。目が笑っているのに口角が下がるという、不自然な表情。一瞬で元に戻ったが、会場の最前列にいた者たちは見ただろう。


「……そうですか」


 クリストフは静かに目を閉じた。

 そして、開いた時には、もう笑っていなかった。

 いや、笑おうとして失敗していた。仮面を被り直そうとして、うまくいかなくなっていた。


「あなたの優しさは、全部嘘だったの?」


 聞いた。

 聞かなければならなかった。

 答えを知っていても。


 クリストフは、一拍の沈黙の後、口を開いた。


「……ええ。全部」


 会場に、息を呑む音が広がった。


「我がシュヴァルツェン家は先々代の当主の放蕩のせいで、借金まみれでしてね。末の姫君でも、降嫁すれば持参金がつきます。それだけで十分な理由でした。まさか上の兄君方が全員亡くなられて王位まで転がり込むとは、私も想定外でしたが──好都合でした」


 声は穏やかだった。告白しているのに、まるで他人事のように。自分自身を遠くから眺めているような口調。


「穀物の寄贈は、クレールモンとの契約の一部です。買い占めも、寄贈も、すべて計画通り。民の感謝を得て、陛下の信頼を固め、王配の座を確実にする。シナリオ通りの展開でした」


 あの日、私はパンの値段が下がったと喜んだ。母親が子どもにパンを渡せるようになったと、素直に嬉しかった。けれど恐れていた通り、パンを奪ったのも同じ人間だったのだ。


「デビュタントの夜は?」


 声が震えそうになった。けれど、震えなかった。


「あの夜もです。私の兄エーリッヒに言い含められていました。『末の姫を手懐けておけ。いずれ使い道がある』と。社交が苦手な姫君には、優しく手を引いてやれば簡単に懐く──その通りでした」


 大広間の空気が、凍りついた。

 デビュタントの夜。震える私に差し出された手。「大丈夫ですよ、アイリス様」という声。あの夜、世界が変わったと思った初恋。

 すべてが、彼の兄の指示だった。


「嘘……」


 その場に声が響いた。私の声ではない。


「クリストフ様、嘘ですわよね……?」


 ベアトリクスだった。

 会場の端から、青ざめた顔で前に出てきている。碧い瞳が大きく見開かれ、唇が震えていた。赤みがかった金髪が乱れている。いつもの完璧な装いが、崩れ始めていた。


「クリストフ様。お答えになって。嘘だと言ってください。あなたは、私に──」


 クリストフは、ベアトリクスを一瞥すらしなかった。


「ああ、ベアトリクス嬢は何も知りません。女性は口が軽いですからね。最初から何もさせない、何も話さないのが一番です」


 クリストフの声が、静かに響いた。ベアトリクスを見ずに。


「リンデンベルク家の融資を繋ぎ止めるためには、彼女の好意を維持する必要がありました。それだけのこと」


 ベアトリクスの膝が、折れた。

 大理石の床に崩れ落ちる赤みがかった金髪。碧い瞳から、涙が溢れた。声にならない声が漏れた。


 この女もまた駒だった。父親と二人で仕掛けた工作の全てが、クリストフの掌の上だった。私のドレスに飲み物をこぼし、侍女を使って偽情報を流し、令嬢たちを操って集団無視を演出し──その全てが、クリストフにとっては「融資を繋ぎ止めるための駒」の自発的な働きに過ぎなかった。

 策士を気取っていた父娘が、より大きな策の道具だったのだ。


 けれど、ベアトリクスに同情はできなかった。

 この女は、自分が駒にされている間に、私を傷つけることに全力を注いでいたのだから。


 私は一瞬だけ目を閉じた。

 開いた時には、もう泣いていなかった。最初から泣いていない。泣く気もない。


「……ありがとう、クリストフ殿。おかげで、迷わずに済みます」


 声は静かだった。怒りでも悲しみでもない。もっと冷たくて、もっと硬い何か。女王の声だ。


「シュヴァルツェン大公家の当主エーリッヒ・フォン・シュヴァルツェンと、クリストフ・フォン・シュヴァルツェンを捕らえよ。罪状を確定次第、終身投獄とする」


 衛兵が動いた。クリストフの両脇に立つ。


 クリストフは取り乱さなかった。最後まで取り乱さなかった。衛兵に挟まれながら、私に向かって一礼した。穏やかな、いつもの翡翠色の仮面で。


「陛下。一つだけ事実を申し上げます」


 足を止めた。


「庭園のベンチで、泣いているあなたに差し出したハンカチ。あれだけは本物でした」


 一拍。


「……いえ、あれすらも演技だったのか──正直、私にももうわかりません」


 嘘と本当の境界すら、自分で区別できなくなった男。

 仮面を被り続けた結果、仮面の下の素顔が消えてしまった男。


 微笑みを浮かべたまま、クリストフは衛兵に導かれて大広間を出ていく。

 その背中に、私は声をかけた。


「クリストフ殿。これをお返しします」


 袖の中から、白いハンカチを取り出した。花のような匂いのするリネンのハンカチ。半年間ずっと持っていた。何度も返そうと思い、そのたびにぐずぐずと言い訳して手元に置き続けていた。

 衛兵がクリストフの手に渡した。クリストフはそれを見下ろし、ほんの一瞬──本当に一瞬だけ、笑顔が消えた。


 何かを言いかけたように唇が動いた。けれど言葉にはならなかった。

 ハンカチを握ったまま、クリストフは大広間を出ていった。最後まで背筋は真っ直ぐだった。


 こうして私の初恋は終わった。もう、あの人の残り香を手元に置いておく理由はない。


    ◇


 静寂を破ったのは、最前列のどこかから漏れた老臣の声だった。


「……よくぞ」


 その一言を皮切りに、広間にざわめきが広がった。驚愕、動揺、そしてどこか安堵にも似た空気。「まさか大公家が」「女王陛下は、全てご存知だったのか」「あの小娘と侮っていたのは、我々の方か」。

 ブルクハルト侯爵が席から立ち上がり、白髪交じりの頭を深く垂れたのを、私は見た。

 半年前、「末の姫に何ができる」と嘲笑った男が。


 やがてざわめきは引いて、大広間に再び静寂が戻った。


 ベアトリクスはまだ床に座り込んでいた。衛兵たちは彼女も捕えようとしたが、私は軽く手を上げて止めさせた。ベアトリクス本人は──女王に対して無礼ではあっただろうが──少なくとも、この場で拘束されるような罪は犯していない。私は侍女を呼ぶよう合図を送った。


 駆け寄ってきた侍女たちに対し、ベアトリクスは手を振り払った。


「嘘よ……全部嘘よ……あの方は、私のことを……」


 その声は、もう誰にも届いていなかった。

 半年間、私に浴びせ続けた嘲笑と嫌味の全てが、今この瞬間に彼女自身に返ってきていた。「まぐれだ」「小娘だ」「分不相応だ」。その言葉の一つ一つが、今度は自分の足元を崩す音になっている。


 ベアトリクスは侍女に支えられて大広間を出ていった。


 翌日、リンデンベルク伯爵家にシュヴァルツェン家への融資に関する監査命令を出した。


 結果は即座に出た。融資の原資の一部にクレールモンからの不正資金が混じっていた。伯爵が知らなかったはずはない。あの男は娘と共に宮廷工作を仕掛けながら、その裏で不正な金の流れに加担していたのだ。


 リンデンベルク伯爵は御前に召し出された。いつもは抜け目ない、狡猾そうな光を浮かべている灰色の瞳が、今は怯えた色を隠しきれていない。


「リンデンベルク伯爵。シュヴァルツェン家への融資の原資にクレールモンからの不正資金が含まれていた件について、弁明はありますか」


 伯爵は口を開きかけ、閉じ、また開いた。


「陛下、私は融資の原資までは──」

「ホルツマン商会を経由した資金の流れは、すでに調査で明らかになっています。貴家の帳簿の日付と金額が、クレールモンからの送金記録と一致しています。ご存知なかった、とは仰らないでしょうね」


 伯爵の灰色の瞳から、最後の虚勢が消えた。


 爵位一等降格の上、弟に爵位を譲り隠居。娘を駒として冷淡に使い、女王を侮り、金勘定で全てを動かそうとした男の末路としては、相応のものだった。


 そしてベアトリクス本人には宮廷への出入り禁止が申し渡された。彼女自身の罪を問うものではない。ただ、王兄殺害の共犯者と金銭で繋がっていた家の者を、王宮に置くわけにはいかないという判断だ。


 社交界から消えたベアトリクスがどこで何をしているのか、私は知らない。どこぞの修道院の修道女となった、裕福な商人の妾になった、さらには王都の高級娼館で客をとっているだのといった、無責任な噂が飛び交ったが──やがて、宮廷の人々の記憶から消え去っていった。


    ◇


 選定の儀は、中断された。

 王配の発表は改めて行うと宣言し、私は玉座に戻った。


 大広間から人が去っていく。貴族たちが、使節たちが、官僚たちが、それぞれの表情を浮かべて出ていく。衝撃と困惑と、そしてどこか安堵にも似た空気が混ざっている。


 最後まで残ったのは、四人だった。


 レオンハルトが、壇の前に立っている。いつもの無表情。けれど、その鋼色の瞳は、私だけを見ていた。

 ルシアンが、壁際に静かに佇んでいる。琥珀色の瞳に、何かを決めた光がある。

 ディートリヒが、証拠の書類を革の鞄に戻している。仕事を終えた男の、静かな充足感。

 フェリクスが、穏やかな水色の瞳で私を見ている。何も言わない。ただ、そこにいる。


 四人に見守られて、私は玉座に座っていた。

 一人で。


 涙は、流さなかった。私室に戻るまでは。

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