第17話:選定の儀
半年の期限が来た。
王配選定の儀。
大広間には、数百の蝋燭が灯されていた。壁面の紋章が炎に揺れ、居並ぶ貴族たちの宝石が鈍い光を放っている。外国使節、重臣、宮廷に関わるすべての人間がこの場に集められていた。
五人の王配候補が、壇の前に並んでいる。
レオンハルト・フォン・ヴェーバー。鋼色の瞳は真っ直ぐに前を見ている。いつもの無表情。いつもの完璧な姿勢。けれど、その目の奥にある光を、今の私は知っている。
ルシアン・ド・クレールモン。銀灰色の髪が燭台の光に透けている。琥珀色の瞳は穏やかだが、どこか覚悟を決めた色を帯びていた。
ディートリヒ・フォン・グリューネヴァルト侯爵。軍服ではなく正装に身を包んだ彼は、腕を組むこともなく静かに立っている。
フェリクス・フォン・エーデルシュタイン。王族の礼服を纏い、穏やかな水色の瞳で私を見ている。今日だけは、薬草園の住人ではなく王家の血族の顔をしている。
そして──クリストフ・フォン・シュヴァルツェン。深い栗色の髪を整え、白い礼服に身を包んだ彼は、穏やかな微笑みを浮かべていた。翡翠色の瞳が、私に向けられている。いつもの笑顔だった。壇上の女王が自分の名前を呼ぶ。その瞬間を、待ち焦がれているかのように。会場の誰もが、今夜の主役が彼であると確信していた。
会場の端では、ベアトリクスが扇の陰から碧い目を輝かせている。勝利を確信した顔だ。
私は玉座から立ち上がった。
菫色のドレスが石の床を擦る音が、静寂の中で響いた。
壇上に、歩み出た。
数百の視線が、私を射抜いている。半年前、この場に立っていたら震えて声も出せなかっただろう。戴冠式の日、重すぎる王冠を被った瞬間の恐怖を今でも覚えている。
けれど今は、震えていない。
ゆっくりと、息を吸った。
「私は、王配として──」
会場が水を打ったように静まった。全員が次の名前を待っている。
「クリストフ・フォン・シュヴァルツェン殿を」
その名を口にした瞬間、クリストフの表情が動いた。
安堵。穏やかな、翡翠色の安堵。あの夜と同じ笑顔だ。デビュタントの舞踏会で、震える私に手を差し伸べてくれた時と同じ、優しげな笑顔。
会場の端で、ベアトリクスが勝ち誇った。「ほら、やはりクリストフ様が──」。その声が隣の令嬢にだけ聞こえるように囁かれた。
半年前の私なら、きっとその笑顔に溺れていた。
けれど今は。
「──と申し上げる前に、皆様にお伝えすべきことがあります」
クリストフの笑顔が、凍った。
会場が、静まり返った。
翡翠色の瞳の奥で、何かが揺れた。一瞬だけ。すぐに笑顔が戻った。完璧な仮面だ。けれど、その一瞬を、私は見逃さなかった。
(もう見逃さない。あなたのその笑顔の裏を、私はもう知っているから)
「グリューネヴァルト侯爵」
呼びかけると、ディートリヒが前に進み出た。手にした革の鞄から、書類の束を取り出す。
「ここに、ディートリヒ・フォン・グリューネヴァルト侯爵の情報網と、レオンハルト・フォン・ヴェーバーの調査によって収集された証拠があります」
会場がざわめいた。証拠。選定の儀で、証拠とは何だ。
「まず、密約の証拠です」
ディートリヒが書類を読み上げた。ホルツマン商会を経由した資金の流れ。クレールモン公国からシュヴァルツェン家への大量の資金流入。その帳簿の写し。商会の取引記録と、シュヴァルツェン家の支出明細との照合結果。
貴族たちの間にざわめきが広がる。
「次に、穀物寄贈の実態です」
あのメモの切れ端が提示された。ホルツマン商会の帳簿と同じ高級紙。同一人物の筆跡。そして「期限」の日付──穀物寄贈の三日前。
「シュヴァルツェン家が寄贈した十万ブッシェルの小麦は、自家の備蓄ではありませんでした。クレールモンの資金で買い占めた小麦を、自家の蓄えと偽って寄贈したものです」
会場が騒然となった。あの穀物寄贈が──あの称賛されたノブレス・オブリージュの体現が──自作自演だったとは。
ベアトリクスの顔から、血の気が引き始めた。
「続いて、毒殺未遂事件との関連です」
ディートリヒの声が低く、重くなった。
「陛下の毒殺未遂に使用された毒物の入手経路を追跡した結果、シュヴァルツェン家の領地を経由する密輸ルートが特定されました。なお、侍女を買収したグラーフ男爵については、シュヴァルツェン家の使用人から毒物と報酬を受け取ったことを示す帳簿の写しが、ホルツマン商会の記録から発見されております」
会場が凍った。毒殺未遂。あの夜のことは、宮廷の誰もが知っている。フェリクスが命がけで解毒した夜。あの毒が、シュヴァルツェン家の密輸ルートから。
「そして、最後に」
私は自分の声で続けた。ディートリヒに全てを任せるわけにはいかない。これは私が言わなければならない。
「私の兄、ハインリヒとフリードリヒの馬車事故についてです」
大広間が、音を失った。
「再調査により、事故現場から発見されていたカフスボタンに、シュヴァルツェン家の徽章が刻まれていることが判明しました。また、事故当日、現場付近でシュヴァルツェン家の使用人が目撃されていた証言も得られました」
貴族たちの顔色が変わった。王位継承者の死。それが事故ではなく、仕組まれたものだった可能性。
「シュヴァルツェン大公家は──」
声が震えそうになった。
けれど、震えなかった。
「──わが国の王位継承者たちの死に、関与していました」
大広間に、嵐のようなざわめきが広がった。貴族たちが立ち上がり、互いに顔を見合わせ、壇上を見つめている。
クリストフは、微笑んでいた。
まだ微笑んでいた。
翡翠色の仮面を被ったまま、穏やかに立っている。その落ち着きが、逆に不気味だった。
私はクリストフに向き直った。
デビュタントの夜の記憶が蘇る。震える私に差し出された手。「大丈夫ですよ、アイリス様」という声。翡翠色の瞳に映った、あの夜の私。
あの手は、兄たちの命を奪った手と繋がっていたのか。
あの笑顔は、最初からすべてが計算だったのか。
目が熱くなった。けれど、泣かなかった。
ここで泣いたら、兄たちに申し訳が立たない。
「クリストフ殿」
静かに呼びかけた。
「あなたの口から、真実を話してください」
大広間が、完全な沈黙に包まれた。
蝋燭の炎が揺れる音すら聞こえそうな、張り詰めた静寂。
クリストフの翡翠色の瞳が、私を見ている。
あの穏やかな笑顔のまま。
その笑顔を見つめ返しながら、私は思った。
半年前、あの笑顔が私の全てだった。
今、あの笑顔を壊さなければならない。
これが、女王として下す最初の、そして最も残酷な決断だ。




