32話 帰還
「朝に説教はキツかったな……」
宿屋の営業が終わり、清掃や1日の業務がひと段落ついたのはもう朝食を食べるにしては遅い頃だった。
アンジェラは他にやりたい業務があると残ったが、自身はそこまで出来るほど体力は残っていない。さっさと上がらせてもらった。
二階とは違いまだ改装が完全に終わっていない三階に上がり廊下の角を曲がった瞬間、ユーマは足を止めた。見覚えのある髪がふわりとたなびく。
向こうも足音に気づいたのか、ちょうど開けられていた扉を押さえたままこちらを見やる。
「……お」
「……あ」
互いに一瞬だけ目を合わせ、そのまま同時に視線を逸らした。
マリーは露出の少ない黒い外套を羽織っていたが、その上からでも仕事終わりなのは分かった。濃い化粧の奥に、隠しきれない疲労が滲んでいる。
ユーマもまた、徹夜明けに散々動き回ったせいで大量の汗をかいていた。
相互の状況を察し数秒沈黙してから、マリーが小さく息を吐く。
「お風呂が先みたいだね」
「お互いにな」
それだけ言って、二人は並んで浴場へ向かった。
⸻
湯気が白く立ち込める。
浴槽の縁に腕を乗せながら、マリーは深く息を吐いた。
「……っふう」
肩まで沈めた瞬間、ようやく全身の力が抜けていく。
「んあ〜!やっぱ生き返る〜」
「随分疲れてんな」
背後でユーマが湯を汲む音がする。マリーは浴槽に使ったまま、髪をユーマに預け、ケアをさせているのだ。先に風呂から上がったユーマはラフな寝巻きを見に纏い、毛先の泡を湯で流していく。
「そりゃあね。私は接客メインだから、喋るだけでも体力使うのよ」
「へぇ」
興味があるのかないのか分からない返事。
しかし慣れているのかマリーは半目で風呂を堪能しながらふと振り返る。
「最近夜いないけど。何してるの?」
「あー……仕事」
「仕事?」
首を傾げた拍子に髪が滑りユーマの指から一束離れてしまった。その髪をもう一度手の中に収めヘアケアをしながら、ユーマは話を続ける。
「ここでな。ホテル始めた」
「……は?」
さすがに予想外だったらしい。
マリーが目を丸くする。
そんな彼女の反応を気にする素振りも見せず、その後ろでユーマは棚から小瓶を取り出していた。
「動くなよ」
「ん」
青年は慣れた様子で彼女の背後に座る。マリーの長い銀髪を掬い、透明な液体を馴染ませていった。
「何これ」
「新しく作ったやつ。髪の保湿用」
「良い匂い。結構好みかも」
指が髪を梳く。
熱を持った頭皮をゆっくりと解され、マリーは気持ちよさそうに目を閉じた。
「ホテルの方は儲かってるの?」
「バチバチ赤字」
「あははは!おにーさん、人相悪いからねえ」
「実際そう思われてるのか知らんが客来ねぇ」
「んふふ」
マリーが喉で笑う。
ユーマは髪へ湯を流しながら続けた。
「しかも今日、ようやく来た客の下着姿見ちまってな。あやうくアンジェ────同僚に殺されるとこだった」
「あー!女の子の下着見るなんて!最低!」
「不可抗力だっての。寝坊してたから起こしに行ったら、たまたま」
「ふぅん」
本気で怒る様子はない。
ユーマは少しだけ視線を彼女へ向ける。そして間を置き心中にあった質問を相手へぶつけた。
「……お前は怒んねぇよな」
「何が?」
「俺がお前の裸とか下着見ても、だ。最初からそんな態度だったから、てっきりここの文化なのかって思ったぜ」
湯気の向こうで、マリーの睫毛がゆっくりと開く。
沈黙。
静かに湯が揺れる音だけが響いた。やがてマリーは、くすりと笑う。
「まぁ、私は職業柄人に裸を見られるのには慣れっこだから。それに────」
濡れた髪が肩を滑り落ちた。ユーマが顔を上げると、唇の触れそうな距離の彼女の眩い瞳がこちらを見下ろしている。
「貴方が私のワンちゃんだから」
妖艶に、口元が歪む。細い指が喉仏に触れられ、小さく飲み込んだ動きをなぞられる。
目を細め、ユーマの頬を軽く撫でると人の良さそうな笑みを浮かべこう続けた。
「対等に見てないの」
まるで冗談みたいな声音だった。だが、その瞳は甘美でありながら同時に底が見えない。湯気の中で微笑む彼女の姿は神話上のサキュバスという名の悪魔にも等しかった。柔らかな肌に湯が弾かれ、倒錯的な絵が浴室の中で完成した。
しかし、ユーマは数秒黙り込み。
「……そっか」
「うん。そうよ」
特に驚きもせず頷き、最後に髪を流した。
滴る銀髪は艶を帯び、湯気の中で鈍く光っている。マリーは毛先を指で弄り、満足そうに目を細めた。
「……うんうん!今日も私完璧」
「そりゃどうも」
湯から上がり、マリーは壁に掛けられていたバスローブを羽織った。その異様な程に柔らかな生地もまた、ユーマのポイントで作られたものだった。
「これ反則だよねぇ♡」
「快適さ重視だからな」
「もう。私がおにーさんに堕落したら責任とってよね!」
そう言いながらも、脱ぐ気はなさそうだった。二人はそのまま寝室へ移る。
部屋へ入った瞬間、マリーは小さく笑った。
「相変わらず綺麗」
ベッドは完璧に整えられていた。皺一つないシーツ。均等に膨らんだ枕。微かな香油の匂い。
生活感が薄いほど、完璧だった。
マリーは満足そうに腰掛け、そのまま後ろへ倒れ込む。
まだまだ進化する寝具や浴室に驚きを隠しながらマリーは片手を伸ばす。
「おいで」
犬を呼ぶ様な命令にも男はゆっくりと従う。
ユーマは少しだけ間を置いてから、静かにベッドへ入った。
隣に横になる。
柔らかな沈み込み。
微かな体温。
だが、互いに触れ合うことはない。世間的に言うなら、都合の良い関係に等しいのだろう。
マリーは目を閉じたまま呟く。
「……ねぇ、ワンちゃん」
「ん?」
「だっこ」
その声だけ、妙に幼かった。
ユーマは天井を見上げたまま、
「ん」
とだけ答え、彼女の小さな体を抱き込んだ。マリーはそれ以上何も言わず、小さく笑った。
夜と朝の境界みたいな静けさの中で、二人はそのまま眠りへ沈んでいった。




