第五十七話
「(……あたたか、い……)」
ゆらゆらとぬるま湯に浸かっているように暖かい。
「(……ふわ、ふわ……する……)」
春の日向で微睡んでいるような心地良さに、安心感を覚える。
「(……ぼく……なにを、していたんだっけ……?)」
まるで胎児のように体を丸くする。
「ふふ……なんと、可愛らしいのでしょう……!」
「……う……?」
聞き慣れない女の声に、微睡んでいた黎深の意識が浮上する。
「……きれ、い……」
目を開けた黎深の視界には、まるで月の光のような銀色の髪がキラキラと輝いて見えた。
「まあ!
ありがとう、頑是なき妾の雛。」
「……ひな?」
見たこともない美貌の女が黎深に優しく微笑む。
「……あの、ぼくは黎深です。
ひな、という名前では有りません……」
「ええ、そうですわね。
妾と黒曜の可愛い雛の黎深。」
「……えっと……ぼく、は……」
「ふふ……妾は、白龍。
可愛いそなたの母ですよ。」
「……はは……?」
パチパチと目を瞬かせる黎深は、周囲を見渡す。
「……ここは……?」
白を貴重とした内装に、美しい色とりどりの花々が飾られた室内。
薄い布で覆われた天蓋付きの広々とした寝台の上に、十歳にも満たない子供の姿の黎深。
「はは……母?
あの、人違いかな、と……。
ぼくの母は…………あ、れ……?」
記憶を遡ろうとするが、まるで砂が零れ落ちていくように、黎深の記憶は形を失っている。
「……ぼく……父と母が居て……あ、にと弟たちも……ほか、にも……」
ぼんやりと霞がかっていく記憶。
甘い香りが強くなり、思い出さなくて良いのだと黎深の心を包みこんでいく。
「……ぼく……」
「そなたは、妾と黒曜の哀れな程に可愛い、可愛い雛です。
忘れてしまったことなど、気にする必要はないのですよ。」
細くて美しい指先が黎深の頭を優しく撫でる。
その感触にうっとりと目を閉じそうになってしまう。
「さあ……母の胸の中で、あともう少しだけお眠りなさい。
……次に目覚めた時は、もう何も怖いことは有りませんよ。」
慈愛に満ちた微笑みを浮かべた白龍が、更に幼くなった黎深の体を抱き締める。
「……はい……はは、うえ……」
慈愛のこもった優しい声と甘い香りに包まれて、黎深は瞳から光を失い、その瞼が閉じていく。
「(……あたたかい……ぼく……もう、すこしだけ…………)」
ツキリと痛む。
「(………………ぼ、く……)」
嫌だ、と心の奥がざわめく。
「…………黎深」
ざわめいた黎深の心すらも甘い香りに包まれて、無かったことにされそうになる。
「……や、だ……ねむり、たくない……」
「……どうしてですか?
このまま眠ってしまえば、もう悲しい思いに苛まれ、死に怯えることも無くなるのですよ」
「……ぼ、く……」
閉じそうになる瞼に、黎深は必死で抗う。
「……っ……」
心の奥底に、浮かんでは消えそうになる誰かの、大切な人達の笑顔を必死で掻き集める。
「……わすれたく、ない……!」
黎深の柔らかな頬をポロポロと零れ落ちる熱い涙。
「……可愛い雛、黎深……そなたは……」
「……ぼく、は……ひな、じゃない……!」
「…………」
白龍は、目を見開く。
そして……困ったように微笑んだ。
「ふふ……やはり、そなたは忘れぬことを選ぶのですね」
「……ふぇ?」
黎深を取り巻いていた甘い香りが薄れていく。
「哀れなほどに可愛い、可愛い人の子よ。
苦しみ傷付き、涙を流してもなお、人の縁に手を伸ばすのですね。」
「……ははうえ……?」
「っ……んもうっ!
なんて可愛らしいのかしらっっ!」
「んぷっ?!」
涙で濡れた猫目で、白龍を見上げた黎深の幼い顔。
感極まったように叫んだ白龍が、豊満な胸部に黎深の頭を抱え込んだ。
「黒曜が気に入るのも分かりますわっ!
不器用過ぎて目が離せない上に、素直で可愛らしいなんて!
一粒で二度おいしいと言うやつでは有りませんかっ!!」
「んっ、んぅぅぅぅっっ!!」
「やっぱり人間の世になど帰したくありませんわっ!
でもでもっ!
人の子の心を無視する訳には参りませんから、我慢しますけれども!
人としての生を終えた暁には、必ずや妾と黒曜の雛として生まれ変わってほしいのですわっっ!!!」
「んーっっ!!」
胸元に押さえ込まれてジタバタと足掻く黎深を、更に強く抱き締めて頬ずりする白龍。
「……………あら?」
ジタバタと藻掻く黎深をそのままに、白龍が顔を上げる。
「……思ったよりも、遅かったですわね」
「ん゛ぅぅぅぅ……」
ドドドッッ……と、低い地響きがどんどん近付いてくる。
「…………っ……!」
遠かった音が更に近付き、何やら大声も聞こえてくる。
「……っ……黎深ぅぅぅぅっっ!!」
「黎深兄上っ!ご無事ですかぁぁぁぁぁっっ!!」
「ちょっ?!
お二人とも勘弁してくださいぃぃぃぃぃぃっっ!!!」
「あー……まあ、こうなっちまうよなぁ……」
激しい複数の足音。
近付いたと思えば、速度を緩めることなく先頭に立った二人の人物が躊躇うことなく部屋の扉を蹴り破るのだった。
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