第三十六話
玉座の間にて、黎深が婚約の白紙を求めた夜。
「淑芳よ、第二王子殿下との婚姻は白紙となることに決まった。」
「え……」
馬家の一室には、当主である徳祐と淑芳、そして淑芳の兄である恵雅の姿が有った。
「……父上、此度の婚約の白紙は余りにも失礼ではありませんか。
あのような衆目の面前で、褒美に婚約の白紙などと言われては、淑芳に瑕疵が有るかのように邪推する者もいるでしょう!」
「……恵雅」
年頃の娘が婚約を破棄される。
妹が不憫だと怒る恵雅を、徳祐は諌める。
「第二王子のお考えは分からぬ。
だが……婚約が白紙になったことで、淑芳に要らぬ邪推をする者は少ない。
どちらかと言えば、既に第二王子の良からぬ噂が増えておる」
そう、婚約が白紙に戻ってまだ一日も経っていないというのに、黎深に纏わる噂が増えたのだ。
「噂……宮廷の暇人共は、口だけは忙しいということですね」
淑芳と似通った清廉な雰囲気を纏い、真面目な長男坊といった恵雅が、眉を顰めて吐き捨てる。
「そうだな……」
徳祐は、宮廷にまことしやかに流れる噂を思い浮かべる。
「……北の離宮に女を囲っている。
武力の援助が望めない馬家との婚姻を邪魔だと思っている。」
「野心家な第二王子らしい噂ですね。」
可愛い妹に不利に働かない噂が飛び交う分には、何の問題もない。
恵雅にとって大切なのは馬家であり、淑芳だ。
「(…………私との、縁談は邪魔だったのね……)」
冷酷で、野心家な第二王子にとって、淑芳は価値がなかった。
側に近寄るだけでも恐ろしい相手との婚約の白紙は、淑芳にとって喜ばしいはずなのだ。
「(……どうして、かしら……?
怖い第二王子殿下との婚姻が白紙になることは……喜ぶべきなのに……)」
喜ぶべきなのに……何かが淑芳の心に引っ掛かるのだ。
「淑芳、気に病む必要はないよ。
お前に瑕疵は全くない。
すぐに父上と私で、淑芳を大切にしてくれる素敵な相手を見付けて見せる。」
清廉で、心優しい美姫と噂の淑芳との縁談を求める男たちは多い。
なかには、既存の婚約を破棄してでも是非にという声だって有るのだ。
……最も、既存の婚約を簡単に破棄するような輩共はお呼びではない。
「……恵雅、淑芳……」
だが……何かを考え込んでいた徳祐が、重々しく口を開いた。
「……私はな、第二王子の考えは分からぬ。
分からぬ、が……以前、淑芳には言った第二王子に関する噂の真偽が疑わしいという話。
私は、あれから事実について調べてみたのだ。」
第二王子に纏わる数々の恐ろしい噂。
「噂の出処、流れ始めた時期、状況など……時間は掛かったが……」
「父上?」「お父様?」
一度、言葉を切って深いため息を付いた徳祐に、恵雅と淑芳は首を傾げてしまう。
「……噂は噂でしか、無かったのだ。
噂が流れる切っ掛けは有れど、全ては悪意により過大な背びれ尾びれを付けられていた。」
「そうでしょうか?
火のないところに煙は立たないと申します。
後ろ暗いところがあるからこそ、噂を否定しないのでは?」
怪訝な表情を浮かべる恵雅に、徳祐は首を横に振る。
「……幼い頃より、第二王子は王太子殿下と比べられ続けた。
まるで、王太子殿下を引き立てるための道化のように。」
それは、幼い子供の愛されたいという欲求を打ち砕くには十分だっただろう。
「何をしても、何もしなくても……常に後ろ指を指され続ける。
王太子殿下に比べて冷たい雰囲気、他者を拒絶する言動。
恐ろしい、恐ろしい……と思い続ければ、夕闇に揺れる柳の枝が幽霊に見えることも有る。
…………それと、同じなのだ。」
人の思い込みとは、恐ろしい。
恐ろしいと思えば、他者と同じような仕草をしたにも関わらず、第二王子だけが恐ろしく見えてしまう。
「……ですが……」
「実際に、宮廷において刺客や咎人以外に第二王子が手を下した者は居ただろうか?
目の前を通り過ぎる第二王子に怯えたくせに、通り過ぎた途端に罵る輩共に折檻を与えたことは?」
「…………」
恵雅も、宮廷内における黎深の姿を思い起こす。
徳祐に反論しようと記憶を掘り起こすが、噂を肯定するような記憶は一つも無かった。
「…………私は……」
淑芳もまた婚約者として黎深と過ごした数年を思い起こす。
「……私は……第二王子殿下のことを、何も……知りません……。
それどころか……まともに、言葉を交わした覚えも……」
いつも何時だって、あの不機嫌そうな赤みがかった黒い瞳に映っただけで身を竦ませていた淑芳。
そんな淑芳からさっさと視線を逸らし、必要最低限の役目を終えれば父親か、兄の元へと押しやられた。
「……淑芳が己に対して怯えていることを、第二王子は知っていた。
陛下の命令だからと婚約を受け入れてはいたが、我らもまた喜んでいないことなど理解されていただろう。
だが……婚約中の第二王子は、異性関係の噂を立てることだけはしなかった。
そして、宴などで淑芳を付き添わせる場合は、最低限の義務だけを求め、速やかに我らの元へと送って下さった」
「……本当に、噂通りの冷酷な男ならば……宴などで淑芳を放置していても可笑しくはなかったということですか?」
「そうだ。
本当に第二王子が冷酷無比な噂通りの方ならば、わざわざ家族のもとに婚約者を送ったりはしまい。」
室内に沈黙が落ちる。
「(……確かに……宴などの人が多い場所で、一人で放置されたことは有りません……。
いつも、必ず……不機嫌そうでは有りましたが、父か兄の元へと送って下さった……)」
思い起こせば、思い起こすほどに。
淑芳は、黎深から直接傷付けられたことも、酷い言葉を投げ付けられた記憶も無かった。
「……お父様……」
「何だ」
「婚約を白紙に戻ることは、理解を致します。
ですが……最後に、第二王子殿下と言葉を交わしてみとう御座います」
……真意を知りたい。
淑芳は、純粋にそう思った。
「……真意、か。
陛下より、どんな願いでも構わないと言われ、王位でも、領地でも無く、お前との婚約を白紙に戻すことを願い出た"真意"。
……確かに、私も知りたいと思っている。」
淑芳の願いに、徳祐もまた頷くのだった。
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