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第5話 鞘楯誠は、エージェントである(5)

 今朝は、久しぶりに気持ちよく目が覚めた。昨日は、本当に最悪の日だったのに。


 このたった二日の間に味わった屈辱──。

 俺が抱えた何もかもは、何も解決しちゃいない。ただ、先送りにしただけ。できることなら、あんな暴力シーンへの出演は、もう二度とごめんだ。


 だが、俺はエージェントとしてこの学院にいる。ああ、やってやるさ。奴らに対抗してみせる。


 この二日で、俺の未達成任務(ミッション)は山積みになった。

 俺の正体に気付いたリリー・コンスタンスの抹殺(エリミネイト)

 任務を妨害したアンチューサ・ロッカへの報復(リベンジ)

 そして、生徒会との決着(ケリ)


 どれもこれも、一筋縄ではいきそうもない。だが──。俺は、いたって前向きだった。 

 勝算があるわけじゃない。一つ一つの計画は、まだこれから考えなくちゃならない。


 最悪の日を乗り越えて、俺はエージェントとして生きることへの迷いを捨てた。

 正体を見抜かれようが、邪魔されようが、暴力に屈しようが、だ。


 ──だがその前に、俺にはまず、学院生としての日常がある。


 今日の授業は、数学科。テーマは──【消失した天体の軌道予測】。

 ああ、俺の得意な数値解析の応用と、天文物理。この授業は、貰ったな。


 教師は、この問題の詳細を伝える。

 要約すると、”ある天体のごく限られた観測データから、半年後の座標を割り出せ”という内容。

 一通りの説明が終わると、質疑応答と考えをまとめる時間が与えられ、そのあとは、自分の考えを話し合うグループディスカッションが始まる。


 開始と同時に、視線を感じた。08時の方向からの視線。その席にいるのは、そう──アンチューサ・ロッカ。

 この手の問題は彼女は不得手で、俺は得意。それを知っている彼女は、俺に手招きまでして来た。

 そして、ロッカと同じテーブルには、またリリー・コンスタンス。


 一応は、女性からのお誘いだ。無視したりはできない。

 俺はほんの軽く会釈をする。そしてその上で──逃げ出した。

 ああ、逃げるさ。今は、まだ。策の用意もなく、リリーとロッカが虎視眈々と待ち構える巣穴に入るほど、俺は愚かじゃない。


「なあ、カイン。お前のグループに入れてくれないか?」

 ちょうど、目を逸らした先にいたクラスメイトに声をかけた。

「あん? 俺はいいが……あっちはいいのか?」 親指で向こうを指して、わざわざ俺に確認をとる。


「ああ、いいさ」 俺は軽く口角を上げ応える。

「なんなら、俺の代わりに向こうに入るか?」 さらに、冗談半分で付け加えた。


「マジで? じゃ、俺行ってくるわ」 その冗談を真に受けて、彼は巣穴へと向かって行った。

 罪悪感より、その行動力に驚く。なんとも、軟派な奴だ。──まあ、入れ替わりの方が話は簡単か……。


 ──「まずは、星が描く楕円軌道の推定をしてみよう。ケプラーの法則を使って──」

 俺は、あの二人のいないグループで、穏やかに議論をすすめていた。


 初めの頃は戸惑ったこの学院の授業スタイルも、一年もすれば慣れてくる。むしろ今では、俺にはこの方が合っている気さえする。

 この学院の生徒は皆、勤勉で優秀だ。それぞれに得意分野を持ち、学科ごとに得意な奴が議論をリードする。

 何も、俺が突出して成績がいいわけじゃない。中には、何でもできる特別な才能を持った奴もいるんだろうが、俺は、そんな「特別なもの」になりたいとは思わない。


 ──俺はただ、真実を解明する能力を磨ければそれでいい。そう、エージェントとして。


 こちらで理性的に議論を続ける中で、不意に、カインのグループから大きな笑いが起こった。

 このクラスじゃ、特段珍しいことでもない。冗談で皆を笑わせる、あいつの喋りの旨さはよく知ってる。しかし、この難度の高い議題でも笑いが取れるとは、凄いな。


 だから、感心はしたものの、特に気にしたわけじゃない。自然とその音に反応して、俺は隣のグループに目を向けた。

 カインがどんな話で笑いを取ったのかまでは聞き取れないが、皆楽しそうに笑ってる。

 まあそうか、そこにロッカも加わったコンビなら、そりゃ会話も楽しく弾むだろうさ。


 しかし──リリー・コンスタンス。意外だったよ……。君でも、そんな風に笑うことがあるんだな。


 それだけだ。すぐに、グループ内での議論に戻った。

「──それに、観測データに出てくる誤差も考慮しよう。最小二乗法を使えば、楕円軌道の精度を上げられるはずだ」

 方針を決めて、後は皆で分担して計算する。

 間違ってはいないと思うが、まあいいさ。その時は、トイレの床に押し倒すでもなんでも、みんなの好きにしてくれ。


”ゴーーン…… ゴーーン…… ゴーーン……”

 授業の終わりを告げる鐘が鳴る。久しぶりに有意義な授業だった。


 配られた、その日の数学科の評価は──【A+】。

 総評は、『題意から方針を定める理解度。限られた時間を精度向上に割り当てる戦略性。いずれも優』。


 俺は、ようやく正当な評価を得た。

 あの二人に関わらないだけで、ここまですんなり行くとはな。


 ああ、いずれあの二人には報復を果たす。だが──今日は、先約が入っている。

 俺はまず、生徒会との決着を付けなければいけない。


 マルガレーテ──。お前の言う「この世の真実」を、俺のこの目で確かめてやる。


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