第30話 マリー=バレリアンヌは、嘘を告白する(9)
街灯が灯る夜道を歩いて、俺は約束した聖ヤコブ教会に向かった。
誰よりも高潔で、気高いマリーのことだ、まだ教会に残っているはずはない。俺の裏切りを、彼女は絶対に許さないだろう。
だがそれでも、俺は教会に行かなければならなかった。いないと分かっていても、己の罪を懺悔し、赦しを乞うために。
教会の入り口から、主祭壇へと入る。すると、すぐに分かった。
幾つも並ぶ身廊の最前列に、背後からでもわかる白金の美しい長髪が置かれていた。
俺の次の一歩は、時間を要した。
どんな言葉を掛けるか、どんな顔で接するか、そんな些末な事は消え失せ、このマリー=バレリアンヌとどう向き合うべきかだけを考えていた。
俺は覚悟を決め、彼女の元に歩いた。
ゆっくりと、一歩ずつ、気配を殺して。彼女は微動だにしなかった。
俺に気付いているのか、いないのか、それすらも掴ませない。気圧されていたのは俺の方だった。マリーに近づくほどに、俺の一歩は重くなった。
俺はようやく彼女の隣まで辿り着くと、その横に座った。
「マリー……」 それは、俺が声を発した直後だった。
「私は、鞘楯誠という人を誤解していました」 体は動かず、目も向けず、ただ口だけがその言葉を放った。
「もっと誠実で、優しい方だとばかり……」 それだけで、秘めた心の内を伝えるのには十分だった。
決闘を申し込まれて、受けてみれば、この仕打ち。激情を彼女が抑え込んでいるのは明らかだ。
「ええ、ずっと残酷で、容赦のない人──」
その言葉と同時に、マリーは俺に顔を向けた。彼女の琥珀の瞳は、今にも燃えだしそうなほど熱く輝いていた。
絶対的な支配者の眼光。俺は直感した。──ああ、この身は、この煉獄に焼かれることになるだろう。
それは構わない。俺はそれだけのことを君にした。
でも、ごめんねマリー……。君には懺悔もしない、赦しも乞わない。俺は、君が言うように、残酷な人間なんだ。
「……マリー。俺がこの教会を選んだ理由、分かるかい──?」
「ええ。この時間、私はずっと、あなたのことを考えていましたから」
──そうか。なら、話は早い。
「一つだけ答えてくれ。約束を果たす前に。君が秘密にしている真実を──」
君の信心深さは、よく知っている。マリー、君はこの神の御前では、嘘はつけない。
「……。いつから、真実を隠しているとご存じでしたの」
「君と、あの礼拝堂でお祈りしたときから」
落ち着きを取り戻した彼女の声音は、すべてを理解した証だった。
たとえこの身が業火に包まれようと、ただその為だけに、この勝負に挑んでいる俺の覚悟さえ。
「────」 マリーは何も言わず立ち上がった。そして、ゆっくりと俺から離れ歩き始めた。
俺はただ、その後を追った。しばらくして彼女が立ち止まったのは、主祭壇の西側にあるもう一つの祭壇の前だった。
ティルマン・リーメンシュナイダー作『聖血祭壇』 ──
聖遺物であるキリストの「聖血」が、水晶に納められた木彫りの祭壇。洗練されたレリーフは、見る者の目を奪う。
だが、これが彼の最高傑作と讃えられる理由は、その見事な彫刻技術だけではない。
マリーは祭壇の前に立つと、俺の方に振り向いた。
「鞘楯誠、あなたにだけ、真実を教えて差し上げます」
「私の名前は、マリー=バレリアンヌではありません──」
「私の本名は、マリアンヌ・ラ・トゥール・ド・コンデです」
その瞳は、真っすぐに俺を射抜いた。
その告白は、俺にはあまりにも重すぎた。
──想像を超えた真実。それは、彼女の野心そのものだった。
彼女の本名が示す意味に、俺は言葉を失っていた。
ローテンブルクは、1631年にティリー将軍率いるカトリック軍に降伏した。その支配から解放したのは、ゲオルク・ヌッシュじゃない。1645年にプロテスタント陣営として進軍してきたフランス軍だ。
その軍を率いたのが、フランス軍の双璧、大コンデ公と、テュレンヌ子爵(アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ)──。
しかし、当時隆盛を極めた二大貴族の血筋は、どちらの家も断絶し、現代にはもう残っていない。
そのはずだ──だが、彼女の本名は、その歴史を否定している。
「マリー……。いや、マリアンヌ。君は、その名で何を成すつもりだい?」
その二つの名を継ぐ意味の重さに、動揺を隠せない俺からの問いは、彼女をクスリと笑わせた。
「これまでどおり、マリーと呼んでください。今は未だ、それだけ」
マリーは俺の顔に手を伸ばすと、人差し指を立て、唇に当てた。
言葉を封じるその指は、子供らしい仕草とは裏腹の、明らかな示威行為だった。
──誤解していたのは、俺の方だった。
君は、誰かを王にしたいのではない。この告白は、自らが王座に座る資格があると言う宣言。
生徒会の仲間だなんて、見当違いも甚だしかった。君は、それすらも駒として利用する、ただ一人の大英雄。
しかし、こんなことが公になれば、彼女はたちまちあらゆる方面から命を狙われるだろう。
絶対に誰にも聞かれてはいけない、誰にも口にしてはいけない真実──。
マリーが背にする『聖血祭壇』の中央には、キリストでなく、裏切り者のユダが配置されている。
「最後の晩餐」を描いた数ある作品の中でも異端の構図は、裏切りを知りながらも受け入れるキリストの無条件の愛と慈悲を描いていると言われる。
だが、俺の解釈は違う。これは、「赦し」ではない。裏切り者をそれと知りながら生かす「罰」だ。
──わかったよ。マリアンヌ。いや……マリー。
君の名が持つ歴史の真実という十字架は、俺が背負うには重すぎる。
君はそこまで分かっていて、俺に告白したんだ。なんて、残酷で、容赦のない女──。
彼女の指が、唇から離れる。
「鞘楯誠──。私はあなたとの秘密も欲しい」 だが、まだ琥珀の瞳は、俺を見つめる。
「信じてました、絶対に来るって。そして、あなたは現れた」
「だから、これはその褒美です──」 今度は自分の唇を、俺の頬に近づけた。
ほんの一瞬触れて、マリーはそのまま通り過ぎるように去って行く。
俺は、その背を見送ることもできず、ただ立ち尽くしていた。
背負わされた十字架は、それほどに重く、俺の動きを縛り付けていた。




