第28話 マリー=バレリアンヌは、嘘を告白する(7)
授業後、俺は取るものも取り敢えず図書館へ向かった。
スー・ジンは聡明な人だ。人の書いた嘆願書を、周囲に喧伝するような破廉恥な真似はしないだろう。
だが、問題はそういうことじゃない。
誰かさんが書いた嘆願書は、本来アナスタシア以外が見るべきでないものだ。
その処分を任されておきながら、こんな不始末を起したとあっては、その誰かさんに合わせる顔がない。
極秘情報の紛失、漏洩など、エージェントとして決して許されない。
慌てて駆け込んだ図書館で、スー・ジンの姿を確認すると、すぐさま駆け寄った。
「スー・ジンさん、先日お渡した……あの例の物のことですけど……」
息を切らしながら、いきなり話しかけてきた俺に、彼女はまず、人差し指を口に近づける。
「ここは図書館ですよ、鞘楯君。慎みなさい」
その言葉は、俺に冷静さを取り戻させた。一度、大きく息を吐いて、背筋を伸ばす。それから、もう一度彼女を見つめた。
彼女は、そんな俺の姿をクスリと笑う。そして──
「ああ、これのことでしょう? 安心しなさい。誰にも見せてはいません」
そう言って、あの嘆願書を、俺の前に差し出した。
「ありがとうございます──」 お礼と同時に、手を伸ばす。
しかし、それは指に触れる直前で、また遠く離れた。
その逃げた先を、視線が追う。その軌跡は綺麗な円弧を描いて、スー・ジンの口元で止まった。
そして、彼女はもう一度クスリと笑った。
「ふふ……。可愛いな君は。只で返すのは、惜しくなってしまったよ」
スー・ジンとは、これで三度、この場で少し会話しただけだ。それなのに、そんなことを言われて、俺は蛇に睨まれた蛙のように固まった。
先ほどと同じはずの口元は、どこか妖艶で、恐ろしくすらあった──。
「そうだね、何をしてもらおう──」 トントン、と嘆願書を口元に当てる。
俺は何も言っていないのに、スー・ジンは勝手に話を進めた。
いや、確かに今の状況で、俺に拒否権は無い。彼女は、それすら見越した上で、弄んでいるようだった。
「ああ、そうだ。いいことを思いついた」 嘆願書の動きが止まる。
それが、”いいこと”であると確信したように、彼女の笑みは深くなる。俺にはそれが、途轍もなく不吉なことに思えてしかたなかった。
「君はこの、嘆願書の返事を書きなさい」 ……。なんだって?
つまり、それは……どういうことだ。分からない。いや、分かりたくない。
誰かも分からないラブレターの差出人に宛てて、その誰かも分からない相手を想像して返事を書け、と。
──あんた、何を言っているのか分かっているのか?
「ああ、安心しなさい。もちろん、誰にも見せたりはしません」
露骨に顔を歪ませる俺を見て、条件を後付けする。それは間違いなく、この条件を無理なく飲ませるための、彼女の交渉術だった。
「差出人も宛名も書かなくていい。これの代わりに、私が大事に保管しよう」
そして再び、トントン、と嘆願書を口元に当てた。
そんなことは問題じゃない。やりたくはない、こんなこと。だが、嫌だとは言えない。
「──今、ここで。ですか?」 せめて、俺は時間稼ぎをしたかった。
「ええ。こういったものは一時の情熱を込めてこそ、よ。ここは図書館。時間も、場所も、筆記用具もある。何も困らないでしょう」
しかし、それも空しく、完全に逃げ道は塞がれていた。
俺は大きく息を吐いた。精神を落ち着かせる必要があった。
とんでもないことになった。いっそ、気付かないままでいられたら、どんなによかったか……。
いや、でも──そうだ、元々は俺の不始末。
嘆願書の差出人からすれば、俺がやったことは、このぐらいの罰があって当然なのかもしれない。
──ひょっとして、スー・ジンはそこまで考えていたのか。
彼女の目を見た。だが、薄く微笑んだその瞳から、思考を読み取ることはできなかった。俺は彼女のことをよく知らない。ただ本当に、弄ばれているだけなのかもしれない。
でも──そうだ。不始末の責任は取るべきだ。
「──筆記用具、貸してもらえますか?」 俺は覚悟を決めた。
この緊急任務は、極めて難度の高いものとなった。
そもそもが、ラブレターを書いた経験がない。それなのに、誰かも分からない相手を想像して書くなど、無謀な挑戦と言えた。
文字は進まず、ただ、ただ、時間だけが浪費されていった。
まず、出だしをどうしていいか分からない。知らない相手に向けて、有りもしない感情をぶつけるのが、こんなに難しいものだったとは、知らなかった。
これまで得た知識、俺のエージェントとしての能力さえも、まるで役に立たない。
RoTIAの授業など、所詮は答えが用意された範囲での議論に過ぎなかった。
そうだ──忘れるところだった。
これは、受けたラブレターへの返事。相手にどう応えるのかを、まず定めなければならない。
ここで迷っても仕方ない。あれだけの熱量を込めた相手への返事だ。それを上手く躱し切るには、極めて高度な技術がいる。受け入れる返事の方が書きやすいだろう。
そうなると、ただ相手の気持ちに応えるのではなく、こちらが主導権を握るように、本心を隠しつつ相手を焦らし、それでいて、少しずつその情熱を掬っていくような──そんな返事が理想だ。
方針は定まった。しかしそれでも、完成には時間を要した──
書き上げた時、もうとっくに日は落ちていた。図書館にも人はいなくなっていた。その中にただ一人、スー・ジンだけが残っていた。
少し、申し訳ない気持ちになった。彼女は、俺にこんなことをさせた張本人であるはずなのに……。
「遅くなりました。どうぞ」 疲れ果て、掠れた声で書いたものを差し出した。
「ありがとう。ここまでしてくれるとは思わなかった。これは家宝にしよう」
スー・ジンは、中身を見ることなく、嘆願書と交換した。
俺はただ、書き直しを言われなくて、心底ホッとしていた。
それを受け取ると、トボトボと疲労困憊の体を引きずるように図書館の出口に向かう。
その背後から── ”お嬢ちゃんが欲しがるわけだ”
ぽつりと、そんな声が聞こえた気がした。でももう、何も考える気にはなれなかった。
それから、寄宿舎に戻って一人になった時、俺は見慣れた天井を見上げることしかできなかった。
不思議だった──。その理由を考える余力もなかった。ただ、一筋。どうしてか、涙が流れた。




