第2話 鞘楯誠は、エージェントである(2)
俺の正体を知ったリリー・コンスタンスは、抹殺する。
これはもう、確定事項だ。何があろうと、この最重要任務が覆ることはない。
しかし相手は、俺を追試にまで追い込んだ策士。彼女の知略に無策のまま挑めば、殺されるのは──俺。
ああ、認めよう、リリー・コンスタンス。お前は、俺がエージェントとして初めて出会った、強敵だ。
その強敵に敬意を表し、もう容赦はしない。お前を仕留めるために、こちらも全力でやらせてもらう。
そう、だからこそ──勝利のための戦略を。
そのためにまず、リリー・コンスタンス。お前のデータを徹底的に集めてやる。
性格、趣味、成績、家族構成、交友関係、休日の過ごし方、食嗜好、癖……そのすべてを。勝利のために。
お前の碧眼の仮面を剥ぎ取り、その美しい金髪の下に隠した理性を暴いてやる。本心を覆う虚勢など、一つも残させない。
決して怪しまれることなく、普段の授業にごく自然に溶け込ませて、彼女を──丸裸に。
ああ──俺ならできる。俺に、二度の敗北は無い。
そして迎えた今朝の授業は──文学【自由議論での作品の探求】、か。
俺は神に感謝した。文学の解釈には、人間性が滲む。どれだけ隠そうとしても、必ずな。
これほど、人の内面を覗くのに都合の良い科目は他にない。
「──鞘楯君。ここ、どう? 空いてるよ」
空いた席を指さし、俺に声をかけて来たのは、栗毛のアンチューサ・ロッカ。
今、彼女に用は無い。だが、俺は二つ返事で了解した。 「ああ、よろしく」
何故なら──そのテーブルの向かい側には、リリー・コンスタンス。お前がいたからだ……。
「それじゃあ、人数も集まったことだし、議論を始めましょう。リリー、冒頭を朗読してくれる?」
ああ丁度いい、『世話焼きロッカ』。彼女が議論を回してくれれば、その間に俺は諜報に専念できる。
ロッカの指示に従い、リリーは本を開き読み始めた。俺も、耳だけは彼女の声に傾ける。
──ローテンブルク・オプ・デア・タウバー国際高等学院(通称:RoTIA)──
この学院の授業は、日本にいた頃とは大きく違う。
自由な精神や個性を尊重する方針によって、どの教科でも知識の詰め込みなどしない。それどころか、教科書もなく、ペーパーテストすらない。
俺も、最初は驚いたものだ。その、甘さに──。
だが、授業を受け始めてすぐに、この認識の間違いに気付かされた。
「──ありがとう、リリー。とっても綺麗な朗読だったわ」
澄んだ川のせせらぎのような声は、耳に入るだけで心地いい。だがそれも、すぐにお前自身の鎮魂歌へと変わるだろう。
「さて、それじゃあ。議論の土台として、この作品のどこに焦点を当てるべきかしら。みんなはどう思う?」
──これだ。この刻を待っていた。
この学院が生徒に求めているのは、正解を出す知識ではなく、本質の理解。
課されるのは、問題への論理的思考。議論することで試される、客観的表現力。
つまりは、まともに議論もできないような、内面の成長が未熟な者に、居場所は──無い。
即座に手を挙げる。
「物語はまだ、ほんの序盤。でも僕たちは、主人公の結末を知っている。だとするなら──その逆」
皆の視線が俺に集まる。そうだ、それでいい。それが、俺の無実の証明になる。
「主人公のハンスが、なぜ最後にああいう人間になったのか。その視点で見ることで、この作品は面白くならないかな?」
俺は、本当の意図を巧妙に隠しつつ、この議論の主導権を握る。
「そうね。私もその視点は面白いと思う。皆さん、異論はないかしら?」 ロッカは視線を配る。
彼女は無自覚な共犯者だ。こちらから仕事を依頼したわけでもないのに、よく働いてくれる。
「──。では、ハンスの家族構成や環境を、深堀してみましょう」
さあ、準備は整った──あとは君に、舞台に上がって頂くだけだよ、リリー・コンスタンス。
「ねえ。リリーあなたはどう思う?」 いい子だロッカ。君は、本当に優秀な助手だよ。
俺の意図は、完全に掻き消された。この流れから殺意を読み取ることなど、不可能だ。
「ハンスは神童と言われ、周囲から期待を背負わされる。でも、家庭では、母親はすでに亡くなっていて、兄弟もいない」
「唯一の肉親である父親は、彼の才能を誇りとし、彼自身からは目を逸らしていく──そうよね?」
ああそうだよ、リリー。まさに、昨日の再現だ。
昨日、俺はここで、ぬるい手を打ったがために、君に敗北した。だがもう、その手は繰り返さない。
今度は、俺がお前を暴いてやる──
「流石ですね、リリーさん。物語の序盤でハンスが置かれた状況をよく理解してる」
誰より早く、彼女の問いかけに応える。誰にも邪魔はさせない。
「その彼の問題を──あなたは、どう解きますか?」 さあ、見せてもらおう、その碧眼の奥にあるものを。
「────」 数瞬の沈黙。
ああ、好きなだけ考えてくれ。その沈黙が長ければ長いほど、次にその口から紡がれる言葉は、お前の本質をより鮮明に表してくれる。
いつまでも、俺は待つさ──お前を仕留めるためならば……。
「ちょっと、鞘楯君。それは酷いんじゃない?」 突然、その間に割って入る者がいる。
エメラルドグリーンの瞳を細くし、不機嫌な態度で俺を見据えるのは、ロッカだった。
意外なところからの邪魔立て。──なんだ? どうしたロッカ。何が酷いと言うんだ。
「僕が、何か悪いことを言いましたか?」 彼女の意図が読めず、後手に回らざる負えない。
その俺の問い返しにすら、彼女は呆れた態度を崩さない。
「あなた、リリーのことを何も知らないのね」 ああ、そうだよ。だから今、こうして──
まさか……お前が、俺の計画を見抜いたとでも言うのか。
「いい? リリーのお父様はとても厳格で、一人娘の彼女に一族の名誉を預けているわ」
結構な事じゃないか。この学院に子息を預ける親の考えなど、どこも似たようなものだろ。
「そして、お母様は亡くなられている……」 ……なんだと。
「ハンスと同じ環境にいるリリーに、その質問はデリカシーに欠けるのではなくて?」
そうだったのか……。ああ、そうだな。
いくら抹殺のターゲットだとしても、相手への敬意を失えば、それは野獣も同じ。エージェントの流儀に反する行為だ。
弁明のしようがない。ここは素直に、非を認めよう。そしてロッカ──君は、本当に優秀な助手だったようだ。
「ロッカ……」 だが、俺の謝罪よりも早く、リリーが口を開いた。
彼女の冷たい瞳は俺ではなく、ロッカに向けられている。
「勝手に、私の母親を殺さないでいただけるかしら?」
時が──止まる。息を、忘れる。
俺の一年六ヶ月と九日、と一日にわたるエージェントとしての活動の記憶が、走馬灯のように押し寄せる。
そして生まれた俺の心の空白を埋めたのは、たった一つの純粋な感情だった。
アンチューサ・ロッカァッーー!!
俺は、その叫びを唇を噛んで押し殺した。
想像だにしていなかった伏兵から放たれた一矢は、俺の心臓に到達するほんの僅かなところで踏みとどまる。
だが、そのあまりの痛みに、俺は、自分の左手で、右手の震えを抑えるので精一杯だった。
「あら、ごめんなさい。別の誰かと間違えてしまったみたい。てへ♪」
最後に付け足された挑発に、右手の震えは激しさを増す。
「嘘を吹聴するのは止めてください」 そんな俺に比べ、リリーは至って冷静だった。
「怒らないでよ、リリー」 だが、ロッカには別のものが見えていた。
「だって、鞘楯君の瞳が、あんまりにも真っすぐあなたを見つめいたから──」
顔はリリーに向けたまま、俺には流し目を送る。 「ちょっと、からかってあげただけじゃない」
「ッ──!」 屈辱──。
お前は、そこまで知りながら、邪魔をしたのか。ロッカ! ふざけるなよ……。
俺とリリーの一騎打ちを、何の権限があって……。
”ゴーーン…… ゴーーン…… ゴーーン……”
鐘が鳴る。授業の終わりを告げる鐘が。まだ、何の結論に至っていないというのに。
こんな終わり方は許されない。俺はまだ、何もしていない。
配られた、その日の文学科の評価は──【C-】。
総評は、『視点は素晴らしい。だが、結論に至るまでの論理性は著しく乏しい』だった……。
ああ、分かっていたよ。言われるまでもなく。
目の前の敵に気を取られ、横合いから割り込んだたった一人の遊撃兵に、見事にやられた。
戦場なら当たり前に起きる事。それを想定しなかった、俺の落ち度──。
アンチューサ・ロッカ──お前のエメラルドグリーンの瞳には、一体何が見えていたというのだ。




