第1話 鞘楯誠は、エージェントである(1)
俺(鞘楯誠)は今、諜報員としてこの学院に潜入中だ。
もう、かれこれ二年になる。──いや、嘘をついた。本当は……二年じゃなくて、一年六ヶ月と九日。
その俺の任務は、たった今、書き変わった。リリー・コンスタンス──お前の、抹殺に。
──「鞘楯君。あなたはこの問題、どう解く?」
隣に座ったリリーが、俺に意見を聞いて来た。
それは、史学科のグループディスカッションでのことだった。
議題は、そう──【三十年戦争時、この地を包囲したティリー将軍への対処法】。
教師がランダムに振り分けたグループに、俺とリリーが同じグループに入ったのは、当然、偶然だった。
テーブルを囲み、順番に意見を述べる中で、隣に座ったリリーが、俺の意見を聞いて来た。
そして、わざと遅らせて、耳元で囁くように付け足した。 「──エージェントとして」
一瞬、息が止まった。耳を疑った。
だが、俺は平静を装って、彼女の目を見た。その蒼い瞳は、獲物を見据える蛇のように冷たかった。
このディスカッションの目的は、多角的な能力を測る極めて高度なものだ。
史学科で習ったこの地の歴史を踏まえた上で、さらに独自の考察を重ねた、知識と想像力。
それを議論に上げることで試される客観的な根拠と、コミュニケーション能力。
そして、さらに俺には、この女への洞察が求められた。
──なぜ、この女は俺がエージェントだと知っている。
俺は、裏の思考など微塵もみせず、回答に徹した。
「──六万人の大軍に囲まれたら、たとえ007でも、逃げ出すのは不可能でしょう」
ああ、1631年のカトリック軍によるローテンブルク包囲も、レトロ映画も履修済みだ。俺に隙は無い。
「彼が13パイントのワインを飲み干せれば、任務完了ですが……」
ゲオルク・ヌッシュの伝説に、冗談を挟んで、綺麗に打ち返してやるよ。
「彼にそんな大酒のみの設定、ありましたっけ?」
──さあ、どうだ。リリー・コンスタンス、お前は、どう返す?
「……意外と、面白いことを言うのね」
問いには答えず、彼女は目を逸らし、ブロンドの長い髪をかき上げた。
まさか、それだけ? 俺に探りを入れておいて? 舐めてるのか──
だが、彼女はすぐに顔をこちらに向けた。
「私は、こう考えているの」 先程とは真逆の、温かな瑠璃色の瞳に、殺気が削がれる。
「──1631年、ローテンブルクを包囲したカトリック軍のティリー将軍は、市長のゲオルク・ヌッシュへ、処刑と引き換えに、13パイントのワインを一気に飲むことを要求した。そうよね?」
俺は、黙って頷いた。
「──でも、どうして13パイントだったのかしら?」 その瞳を、真っ直ぐ俺に向ける。
「それは、用意された選帝侯の杯が、その大きさだったから。違いますか?」
考えうる中で、極めて無難な回答を送る。
「そうかしら──」 だが、彼女は納得していないようだった。
「カトリックにとってワインとは神聖なもの。そのワインに『13』という数字を使った意味──」
「あなたは、どう解く?」 再び、俺の意見を聞いて来た。
背筋に、冷たいものが流れる。
俺は、他者の発言に耳を傾けるふりをして、目を背けた。彼女の目を見ていられなかった。
リリー・コンスタンスは、こう言っている。──お前は、13使徒のユダだ。と。
──迂闊だった。
たかが史学科のグループディスカッション──何の変哲もない普段の授業だと、油断した。
逃げ場のない授業中という閉鎖空間を存分に利用した、罠。不用意な解答をすれば、処刑されるのは──俺。
これは、俺に仕掛けられた神明裁判。
「────」 数瞬の思考。
リリー・コンスタンス。まったくの監視対象外だったが……その美しい碧眼からは、逃れる術はない、か。
この仕組まれた裁判から、無罪を勝ち取ることは不可能──すでに必至であると理解するのに、時間は掛からなかった。
「つまり……地獄の門を開いた、と」
俺は覚悟を決めた。エージェントの最後とは、これほど呆気ないものなのか……。
「流石ね、鞘楯君──」 その俺に、リリーは笑顔を向けた。
「あなたなら、分かってくれると思っていたわ」
その今まで見たこともない笑顔は、慈愛に満ちた聖母のようだった。
「ゲオルク・ヌッシュが13パイントのワインを飲み干した時、カトリック軍は、ユダの復活──地獄の門が開くのを恐れ逃げ出した」
「とってもお洒落な解釈だと思わない──?」
俺は唇を噛んだ。この期に及んで……見事だよ。リリー・コンスタンス。
冥途の土産に、俺に花を持たせようとでもいうのか。それとも、正体を晒したエージェントの運命を哀れんでいるのか。
ゲオルク・ヌッシュの伝説は作り話だ。
当時の13パイントは、現代換算ならワインボトルを何本も空にする量。とても一気に飲み切れる量じゃない。
こんな話、本当は誰も信じちゃいない。こんなものが広まったのは、大人が酒を飲むための口実にしたかったからだ。
それを、君は──俺を仕留めるために、これほどの……
”ゴーーン…… ゴーーン…… ゴーーン……”
鐘が鳴る。授業の終わりを告げる鐘が。
マルクト広場の仕掛け時計も、丁度動き出した頃。すべてがピタリと、彼女の手の中、か。
ああ、こんな終わり方が、俺には相応しいのかもしれない……
そして配られた、その日の史学科の評価は──【D+】。
総評は、『想像力は飛びぬけているが、おふざけが過ぎる。幼稚な妄想は聞くに堪えない』だった……。
俺は思わず、評価表を力の限り握りつぶした。
──有り得ない。俺が落第?
エージェントである俺が……これでは、任務に支障が出る。
まさか──あの女……。これが真の目的だったのか……。
いや、それならば、彼女も落第のはず……馬鹿な、そこまで承知だったというのか。
──リリー・コンスタンス……俺は、お前を絶対に、許さない。




