第16話 アンチューサ・ロッカは、嘘をつかない(1)
一年六ヶ月と九日。俺が、諜報員としてこの学院に潜入中した日数。
何の問題もなく、任務を熟していた日数。
だが──問題は、それからの五日間。俺は、新たに生じた任務を、何一つ達成できないでいる。
リリー、ロッカ、マリー。そして、マルガレーテとアナスタシア。あとさらに、スー・ジン……。
彼女たちによって、任務は昼ドラの相関図のように複雑に絡み合い、一つずつ順番に片付ければいいという問題ではなくなっている。
俺がエージェントであることは、知られる訳にはいかない。知った者は、抹殺しなければならない。
このルールは絶対だ。だが、不甲斐ないことだが、妨害工作が想定される以上、慎重に動かざる負えない。
巧妙な手に翻弄され、身動きが取れなくなる。あまつさえ、物理的な力で踏みつけられ、命を危険に晒す。
──この足の痛みに掛け、そんな失態はもう二度としない。
リリー・コンスタンス──俺の最重要任務。
あの生徒会との出来事について、できることならリリーから直接話を聞いてみたかったが、それは今は叶わない。
何故なら、昨日の政経科の授業以来、一切、一言も口を来てもらえないからだ。
仕方ない。会話が成立しない相手とは、交渉はできない。だから、この線は諦めざる負えなかった。
俺は、授業の合間を縫って、生徒会の調査に尽力した。だが、そこでも奇妙な事に出くわした。
生徒会長マルガレーテ・ナハトシャッテン。副会長アナスタシア・イスクレノヴァ。この二人は実在する。それは疑いようのないことだ。記録から、正当な選挙によって当選した生徒会役員であることは確認している。
なのに──学院内でその姿を確認することがまったくできなかった。
上級生のどのクラスを探しても、二人はどこにもいなかった。
授業に出ていない──それはあり得ない。そんな素行不良な人間が、生徒会に選ばれるわけがない。一体どういうことだ。あの二人は何なんだ……。
……ダメだ。いくら考えたって、疑問は堂々巡りになり何も解決しない。
だが、だからこそ、この疑念を晴らすことができれば、停滞する俺の任務遂行の突破口になるはずだ。
そのためにはもう一度、俺はマルガレーテと対峙しなければならない。
だが、どうする? 何処にいるか分からない彼女をどう探す?
マリーは……望み薄だろうな。彼女は俺とリリーを討ち果たしたいのだ。俺一人では相手にしてもらえないだろう。
ならばあの礼拝堂──それもどうだろう。敵に晒した拠点に戻ってくるほど、馬鹿じゃあるまい……。
いい考えがまったく浮かばない。手掛かりはあるのに届かない、もどかしさに胸をくすぐられる。
ふと、あのときマルガレーテに撫でられた頬をさする。
──マルガレーテが本当に、『この世の真実』を知っているとしたら……。俺は──
「──ねぇ。聞いてる? 鞘楯君」 考え事の最中に、横から声を掛けられた。
「……ああ、もちろん、聞いてたさ」 俺は反射的に返事をした。
「あっそ。じゃ、伝えたからね。今日の午後、生徒会室に──」 ──。……なんだと?
意表を突かれた最後の言葉に取り乱し、慌ててそのクラスメイトの顔を見た。
これまで会話を交わした覚えもないような女子生徒。まさか、この娘までもが生徒会側の人間なのか──?
「どういうこと?」 何も考えず、その女子生徒に問い返す。
その俺の言葉に、彼女は露骨に顔をしかめた。 「ほらもう、聞いてなかったんでしょ」
「はぁー、あのね。生徒会長様からあなたに呼び出しがあったの。私はただの伝書鳩。今日の午後、生徒会室に、って。それだけ。──それじゃね」
そう言って、彼女は去って行った。その口ぶりから、本当にただ伝言を頼まれただけなのか。いや、今は彼女を疑ってもしょうがない。
それよりも──マルガレーテからの呼び出し。これをどう考えるべきか、だ。
まさに、渡りに船。願ってもない申し出だ。だが、あまりにもタイミングが良すぎる。
注意を払っていたつもりだが、生徒会を探っていたことがバレたのか……。礼拝堂にあんな大仕掛けを作る奴らだ。学院のどこに監視カメラが設置されていてもおかしくない。
だが、それならなぜ、俺と接触を図ろうとするんだ。調査がすべて空振りに終わっていることも、知られているはずだ。
……ダメだ。いくら考えたって……。
今の俺は、行動するしかない。たとえ、罠だと分かっていても、だ。
──その日の授業が終わると、俺は人の流れが消えたのを見計らってから、生徒会室に向かった。
ここに来るのも三度目、いや四度目か。いる筈なのに、存在しない生徒会。──さて、今回はこの向こうは、どんなことになっているのか。
扉を開いた時、俺は恐れより、ほのかにそんな期待を寄せていた。
見た目は前回と変わらない、プロテスタントの礼拝堂。リリーが戦った痕跡が綺麗に消された生徒会室だ。
しかし、ただ一つ。前回とは違う点がある。
「──遅かったじゃないか。誠」 マルガレーテが一人で、中央の長椅子に座っていた。
扉を開けた俺は、その言葉に応えるより、まずアナスタシアを探した。
彼女に気を引いておいて、陰から俺を襲うつもりか。と疑った。
「こっちにおいでよ。今日は僕一人だよ」 彼女は祭壇に体を向けたまま、声をかける。
俺の顔も見ないのに、その心の内を見透かしているようだった。警戒しつつ、言われるままに、彼女に近寄る。
「座りなよ。ほら、ここに」 マルガレーテは隣の席を軽く叩いた。
だが、俺はそれに逆らって、向かいの長椅子に座った。その行為に、彼女は軽く息を吐く。
「はぁ……。ま、いいや。少しめんどくさいけど、君の気が済むならそれでいいよ」
マルガレーテは、決してこちらを見ない。ずっと、祭壇の十字架を見つめている。
「君とは、ずっとおしゃべりしたかったんだ。でも、僕も忙しくて、ナーシャの目も盗んで……となるとね。チャンスはそんなにないんだよ」
何を言っている。チャンス?
「男女の秘め事に、保護者の同伴があっては駄目だろう? こういったことは、二人っきりでないとね」
何を、言っている──?
「──僕もね、悩んだんだ。随分と。君に伝えるべきかどうか……。でもやっぱりほら、こういうことは、ハッキリさせておくべきだと思うんだ」
マルガレーテは俺を見ない。その素振りは、言いにくいことを伝える乙女のようだった。
「RoTIAは、自由な精神や個性を尊重する学院だ。だから生徒の行動に制約はほとんどない。誰と何をしようと、どんな関係になろうと自由だよ。でもね、自由には必ず責任が伴うんだ」
長い前置き。だから何なんだ、何を言たい──。
「責任の一旦は僕たちにもある。あの場にいたからね。だからね、僕から君に伝えるのは、止めようとも思ったんだ。僕が我慢すればいいってね……」 マルガレーテは、そう言ったあと俯いた。
──ああ。だから、それは何なんだ。
「けど……我慢。できなかった……」 そして、顔を上げた時、初めて俺を見た。
そのまま俺の方に近づいてくる。呆然とする俺の右手を掴むと、無理矢理握り込んできた。
俺の顔をさすった、あの温かい感触が再現される。だが、それだけ。マルガレーテが何をしたいのか分からなかった。
しばらくすると、彼女は名残惜しそうに手を離した。そして、俺の手の内には、一枚の紙きれが残された。
その紙には、こんなことが書かれていた。請求書、ステンドグラス修理代、見積額──。
「覚えてる? あのカフェのドアは、僕がちゃんと立て替えたよね。だから、やっぱりこれは、僕が我慢するんじゃなくて、君が払うべきだと思うんだよ」
言いたいことはそれだけか──!!
そう言いたいのを、ぐっと堪えた。これは自由の裏にある責任。マルガレーテの請求が、極めて正当なものだったからだ。
俺は、その請求書を破り捨てることもできず、身体を震わせた。
「──といっても、学院生の身分で、この金額を負担するのは酷だよね」
請求書を凝視して俯く俺を、小さなマルガレーテは見下ろしてそう告げる。
「だから、僕から一つ提案があるんだけど──」
ああ、それがお前が俺を呼び出した理由か──
完全に仕組まれていた。だが、そうと分かっていても、請求書に刻まれた金額が、俺から選択肢を奪っていた。




