【外伝】若き作家の取引
外伝なので読まなくても本編に支障はありません。
ん?みたいな表現がありますがそのような描写はありませんので公開範囲は全年齢とさせていただきます。
永美がまだ、文壇というものを遠い灯台のように眺めていた頃の話である。
二十歳をいくつか越えただけの彼は、己の才能を疑っていなかった。ただ、世間がそれを見つける目については信用していなかった。
だから、鹿ノ原という男から手紙が来たとき、永美は少しだけ笑った。
鹿ノ原は、美術商とも出版界の黒幕とも、ただの金持ちとも噂される男だった。
若い詩人や画家を幾人も世に出し、そのうち何人かを潰したとも言われていた。
手紙には、こうあった。
――君の文章は、まだ世間に出る前の傷口のようで美しい。
気色の悪い褒め言葉だったが、正確だった。
鹿ノ原の屋敷は、街の端にあった。
黒い門、濡れた石畳、冬でも枯れない常緑樹。
応接間には洋酒と革張りの椅子の匂いが沈んでいた。
「君を雑誌に載せることはできる」
鹿ノ原は暖炉の前で言った。
「編集者を紹介しよう。賞の選考に顔が利く男もいる。君には、若い作家として飾られる才能がある」
「飾り物になる趣味はありません」
「だろうね。だから面白い」
永美は膝の上で手袋を外した。指先がひどく冷えていた。屋敷に来る前から寒気はあったが、緊張のせいだと思っていた。
「対価は?」
「話が早い」
「芸術に金が要ることくらい、私にも分かります」
「金だけで済むなら、私は君を呼ばない」
沈黙が落ちた。
鹿ノ原はグラスを置き、ゆっくりと近づいてきた。
「君は、自分の存在が『場の温度を変える側』だとを解っているね」
「ええ……解っております」
否定する方が無様だった。
「では、それも才能の一部だ」
「私の文章を買いに来たのでは?」
「文章だけで人は動かない。人は、作者という幻にも金を払う」
鹿ノ原の手が、永美の肩に触れた。重くはなかった。
むしろ、羽根のように軽かった。その軽さが、かえって不快だった。
「君に、ひと晩、ここに残ってもらいたい」
それ以上は言わなかった。
言わなかったが、永美には分かった。
文壇への道。雑誌への掲載。選考委員への紹介。
酒席。書評。推薦文。
そういうものが、暖炉の火の向こうで、手を伸ばせば届く位置にぶら下がっている。永美は笑おうとした。
この場を美しく処理してやろうと思った。
屈辱すらも、一篇の短編にしてやろうと思った。
ところが、唇がうまく動かなかった。
鹿ノ原が、ふと眉をひそめた。
「……永美君」
「何です」
「顔が白い」
永美は一瞬、言葉の意味を取り損ねた。
恐怖を見抜かれたのかと思い、反射的に笑おうとする。
「生まれつきです。美点の一つとして数えていただいて構いません」
「違う」
鹿ノ原の声から、先ほどまでの湿った含みが消えていた。
暖炉の火を受けているはずなのに、永美の頬には赤みがなかった。それは陶器のような白さではない。
血の気が奥へ引き、肌の下だけが冷たく透けているような白さだった。唇は色を失い、目元だけが薄く潤んでいた。
鹿ノ原は肩に置いた手を離し、今度は永美の額に触れた。値踏みする手ではなく、病人を確かめる手だった。
「熱がある」
「気のせいでしょう」
「いいや。違うな」
「よくあることです。お気になさらず。幼少期からの、つまらない特技ですよ」
「強がらなくていい。休んでいきなさい」
その瞬間、部屋の輪郭が遠のいた。
暖炉の火が赤い線になって伸びる。指先だけでなく、首の後ろや膝の裏まで冷えていく。
永美は立ち上がろうとして、失敗した。
「問題ありません」
「その顔色でか。待っていなさい。使用人を呼んでくる」
鹿ノ原は使用人を呼んだ。
抗議する間もなく、永美は客間に運ばれた。
高価な寝台だった。白いシーツは病院のものより柔らかく、枕には乾いた薔薇の匂いがした。
永美はそこで、屈辱的なほど素直に寝かされた。
「帰ります」
「まだ帰れると思うのか」
「這ってでも」
「門までに倒れる。屋敷の前で若い作家志望が死んだら、私の評判に傷がつく」
「評判を気にする方だったんですね」
「当然だ。私は俗物だからね」
水差し、薬、氷嚢が運ばれてきた。
鹿ノ原はそれをすべて自分の手で受け取った。
「薬だ。飲みなさい」
「ふふ……毒ですか?」
「はぁ……薬と言っただろうに……駄々を捏ねていないで飲むんだ」
永美は渋々薬を飲んだ。水が喉を通るだけで痛かった。
鹿ノ原は濡らした布を絞り、永美の額に置いた。
手つきは妙に慣れていた。
乱暴ではない。気取ってもいない。
ただ、病人を病人として扱う手だった。
「……看病が上手いですね」
「昔、弟が病弱だった」
「その弟君も、こうして手厚く看病していたと」
「黙って養生できないものか」
「それでは私の価値が半減してしまいます」
「君の価値は今、体温計の数字より下だ」
永美は少し笑った。笑うと咳が出た。
屈辱だった。
鹿ノ原の要求に華麗な皮肉を返すこともできない。
美学を語って相手を煙に巻くこともできない。
逃げることも、怒ることも、軽蔑することもできない。ただ汗をかき、息を荒げ、額の布を替えられている。
幼い頃から、こうだった。大事な日に限って熱を出す。遠足の日。発表会の日。試験の日。
美しいものを見に行く約束の日でさえ、彼は布団の中で天井の染みを眺めていた。
自分の体は、いつも自分の野心に遅れてやってくる。
「泣くな」
「泣いていません」
「目が濡れている」
「熱に浮かされているのです」
「こうもいう時に発熱するとは……弟を思い出す」
「弟君は……」
鹿ノ原は答えなかった。すこし少し黙ったのちこう言った。
「今夜の話は、なかったことにする」
永美は目だけを動かした。
「惜しくなりましたか」
「熱のある人間に契約能力はない」
「まるで法律家のようなことを」
「私は俗物だが、病人相手に取り引きするほど貧しくはない」
その沈黙の中に、永美は初めて、男の中途半端な良心を見た。清らかではない。善人でもない。
欲望があり、打算があり、若い才能を所有物のように見ている。
けれどその同じ手が、今は額の汗を拭っている。
人間とは、なんて不愉快に複雑なのだろう。
そして、複雑なものは美しい、とも思ってしまった。
「鹿ノ原さん」
「何だ」
「私は、あなたが嫌いです」
「そうだろうね」
「ですが、看病は丁寧です」
「評価が乱高下するな」
「これは作品にします」
「やめろ」
「もう遅いです」
夜は長かった。永美は何度も目を覚ました。
そのたびに、鹿ノ原はまだそこにいた。
暖炉の火は小さくなり、窓の外では雨が降っていた。
薬の苦味。湿った布の冷たさ。
咳き込むたびに支えられる背中。
途中で一度、永美はうわ言のように言った。
「文壇へ行きたいんです」
「知っている」
「行けると思いますか」
「行ける」
「それは……あなたの力で?」
「私の力などなくても、いずれは」
朝方、熱は少し下がった。
鹿ノ原は椅子に深く腰掛け、片手で額を支えたまま、目だけを閉じていた。
夜の欲望が剥がれ落ちると、そこにはただ疲れた男が残っていた。
永美はその顔を眺め、醜い、と思った。
それと同時に、書ける、と思った。
昼前、医者が来た。ただの風邪だと言われた。
帰る頃、鹿ノ原は封筒を差し出した。
「編集者への紹介状だ」
「対価は」
「今回は不要だ」
「これは善意ですか」
「投資だ」
「……見返りは?」
「君が有名になったとき、私が最初に見つけたと言う」
「ふふ……やはりあなたは俗物ですね」
「そう言っただろう」
永美は封筒を受け取った。
門の前で、ふと振り返る。
「鹿ノ原さん」
「何だ」
「昨夜の契約は、なかったことになったんですよね」
「ああ」
「では、看病の借りだけが残りました」
「返さんでいい」
「いいえ。私は借りを美しく返す主義です」
「どう返すというのかね」
「あなたを、ひどく不愉快で、少しだけ忘れがたい人物として書きます」
鹿ノ原は呆れた顔をした。
「最悪の返礼だ」
「最高でしょう」
永美は笑った。まだ足元はふらついていた。喉も痛い。額の奥に熱の残り火がある。
けれど、胸の内には奇妙な確信があった。
文壇への道は、誰かの寝室の奥にあるのではない。
病床の天井の染みからでも、雨に濡れた門の黒さからでも、人間の醜い優しさからでも、そこへ続く細い道は書ける。
もちろん、永美は後年、そんなふうには語らない。
彼はただ、薄く笑ってこう言うだけである。
「若い頃、一度だけ、運命的な夜を風邪で台無しにしたことがある。もっとも、台無しになったからこそ、少しだけ醜くて美しい思い出になったのだがね——」




