疑念
永美が何気なく口にした言葉—グリッターアイランド。それは何を表すのか。
透子は速かった。
——グリッター・アイランド——
その言葉を聞いた途端、空気が変わった。
白い服の女がロビーの奥へ走り込むより先に、透子は人混みを裂いていた。宿泊客の肩を避け、倒れかけた椅子を蹴らずに跨ぎ、濡れたタイルの上を滑るように進む。
白い服の女は狐面を手に持っていた。昨夜、盆を運んでいた女だ
彼女は廊下の角を曲がろうとした。
「止まれ」
透子の声が飛ぶ。
女は止まらなかった。
代わりに、廊下の奥から鶏面の男が現れた。白い装束の袖をひるがえし、透子の前に立ちはだかる。
細い男だった。だが、立ち方が軽い。足裏が床に吸いついていない。すぐ跳べる者の立ち方だ。
透子は速度を落とさなかった。
鶏面が腕を伸ばす。透子の胸元を掴もうとしたのだろう。だが、その手が届く前に、透子の掌底が男の手首を弾いた。
乾いた音がして、鶏面の腕が外へ流れる。
透子はそのまま懐へ入り、肘を肋骨へ入れた。男の体がくの字に折れる。透子は踏み込み、膝で腹を押し込み、片足を払った。
鶏面の男が床に転がる。
倒れ方が上手い。受け身を取っていた。
透子はそれを見て、眉を寄せた。
「ただの信徒じゃないな」
その隙に、狐面の女は廊下の奥へ消えた。
「くそ……!」
透子は追う。
永美はその背を見送った。
「彼女の技は何度か見たけれど、やはり美しいな。ただカンフーへの憧れからなのか、大ぶりな技を使うこともあるが……」
「今はあの女の技を品評しているような場合じゃねぇ」
羽喰が低く言った。
永美は振り返る。
羽喰はまだ、永美から視線を外していなかった。
さきほどの焦りは消えていない。だが、もう怒鳴るのをやめている。周囲を見て、声量を落とすだけの冷静さはあるらしい。
「なぁ、作家先生」
「おっと、お兄さん。その呼び方はあまり好きじゃないな。私は永美、小説家、永美至だ」
「ならてめぇもお兄さん呼びをやめろ。俺は羽喰だ。永美、お前は今から余計なことを一切喋るな」
「それはかなり難しい注文だね」
「命に関わる」
羽喰の目は笑っていなかった。
「グリッター・アイランド。その名前は、この島で口にしていい言葉じゃねぇ」
「秘密の名前か」
「秘密で済むなら、俺はここにいねぇな」
「なるほど。それはそれは……秘密よりも質が悪い」
「おい、茶化すな」
「茶化してはいない。怖がり方……畏怖の念の示し方を探っているのさ」
舌打ちをして羽喰は永美の腕を掴んだ。
透子ほど乱暴ではない。だが、逃がすつもりのない掴み方だった。
「お前は哀川からどこまで聞いた」
「人魚の肉。百年送り。岩羽島。名を呼ばれても返事をしないこと。だいたいそのくらいかな」
「グリッター・アイランドは」
「ふむ……それは今朝、私が命名した」
「てめぇ……ふざけんなよ」
「私は言葉遊びに興ずることはあれども、いたずらに言葉を使うことはないよ。今確かに、島が光り輝いて見える。だからそう言った。単なる比喩さ」
羽喰の手に力が入った。
「だとしてもだ……!比喩で同じ名に辿り着くんじゃねぇ……!」
「えぇ〜、それは私に言われても困るね。言葉が勝手にそこへたどり着いたんだ」
永美は考える。粗野で無礼なこの男は、自分を疑っている——だが、同時に揺らいでもいる。
羽喰は一瞬、永美を見つめた。
嘘をついている者の顔ではない、と判断しかけているのだろう。永美は、そういう視線を見慣れていた。作家の虚言と真実の境目を、他人は勝手に探そうとする。
「計画名を知っている人間は限られている」
羽喰は言った。
「ン……?計画?」
永美が聞き返す。
その瞬間、羽喰は口を閉じた。
しまった、という顔だった。
永美は微笑んだ。
「ふふ、今度はあなたが尻尾を出したね」
「黙れ……クソッ……」
羽喰は相当苛ついている。
「計画……か。良い響きだ……。不死伝説の島、カルト集団、存在しないはずの名称。そして謎の計画。実に現代的で、実に醜さをはらんでいる」
「だから喋るなと言っている……!」
「私は知らなかった。だが、あなたの反応で知ってしまったんだよ?」
羽喰は再度舌打ちした。
ロビーの大きな窓の前では、菓子を食べた宿泊客たちがまだ島を見つめていた。彼らは、今起きている緊張に半分も気づいていない。
「ああ……綺麗……」
「浜に、行きたい……」
「近くで見たい……」
誰かがそう言った。
その一言に、羽喰の表情が変わった。
「まずい」
佐伯が窓から離れていた。
足首を引きずりながら、ロビーの出口へ向かっている。昨日まで怯えていた男の顔には、今、陶酔に近い笑みが浮かんでいた。
「おい、佐伯」
羽喰が呼んだ。
佐伯は振り返らない。
「近くで見れば……もっと、綺麗に……」
その足取りは遅い。だが、迷いがない。
白い服の女が、ロビー奥の扉の前で振り返った。透子に追われながらも、彼女は笑っていた。
「浜へ」
女が言った。
「百年浜へ」
その声に、菓子を食べた宿泊客たちが反応した。
一人、また一人と窓から離れる。
佐伯だけではない。
昨夜、菓子を食べた者たちが、出口へ向かい始めた。
「止めろ!出んじゃねぇ!」
羽喰が叫んだ。
透子が廊下の奥から戻ってくる。狐面の女の袖を掴んでいた。女は床へ膝をつかされているが、まだ笑っていた。
「……?永美、何が起きてる」
「昨日菓子を食べた人々が浜へ行こうとしている……」
「あなたは大丈夫なのか?」
「ああ、行きたいよ?でも、まあ、この状況で行くのはまずすぎる。そうだろう?」
「わかっているならいい」
透子の顔が険しくなる。
「浜に行く奴らを止める……!」
透子が佐伯へ向かおうとした瞬間、床に倒れていた鶏面の男が起き上がった。
早い。
男は透子の足首を狙って低く飛び込んだ。
透子は反応した。だが、完全には避けきれない。鶏面の指が透子の靴先を掠める。透子は舌打ちし、膝蹴りを男の肩へ落とした。
肩の肉だけだなく、骨にも響くような鈍い音がなる。しかし鶏面はそれでも倒れない。
「ちっ……!面倒な」
透子の声が冷える。
永美はその様子を見ていた。
戦う彼女は、なかなかどうして美しい——
だが、いまはそれを味わっている余裕がなかった。
佐伯が出口に手をかける。
外の光が、扉の隙間から差し込んだ。
永美には、それが金色に見えた。
透子には、おそらく普通の朝の光に見えている。
羽喰が走った。
「開けるんじゃあねえ!」
振り返った佐伯の目が、光っていた。
比喩ではない。瞳の奥に、白い粒子のようなものが散っている。涙ではない。反射でもない。眼球そのものに、細かな光が浮いているようだった。
「呼んでる」
佐伯が言った。
「浜が、呼んでる」
羽喰の手が、佐伯の肩を掴むと、その瞬間、佐伯が悲鳴を上げた。足首の痣が、黒から青白へ変わっていた。
昨日、桟橋の下から伸びた白い手が掴んだ場所。そこに残った指の痕が、皮膚の下で淡く光っている。
永美は息を呑んだ。
薬だけではない。
菓子だけではない。
この島は、触れた場所から人を変える。
「佐伯、動くな!」
羽喰が叫ぶ。だが佐伯は笑った。
昨日まで恐怖で震えていた男が、泣きながら笑っていた。
「若返る……俺は、まだ、やり直せる……」
ロビーの外から、遠くで海鳴りがした。
八尾が受付台の向こうで、ぽつりと言った。
「まあ」
その声は、ひどく楽しそうだった。
「朝から、浜が少しだけ目を覚ましたようでございますね」
透子が八尾を睨む。
「止めさせろ……!」
「私はには止めることができませんゆえ」
「はぁ……なら黙ってろ……!」
「それも少々、難しゅうございますわね……」
羽喰が佐伯を押さえている。透子は鶏面の男を押さえ込んでいる。皆川は壁際で震えている。菓子を食べた宿泊客たちは、出口へ向かってゆっくり進み続けている。
そして永美の目には、扉の向こうの島が、いっそう強く輝いて見えた。
見える景色、すべてが美しすぎる。
だからこそ、その美しさは、明らかに罠だった。
だが罠とは、獲物にとって一等、魅力的でなければ意味がない。
羽喰が叫んだ。
「永美! そこの扉を閉めろ!」
永美は羽喰の声を受けて動く。だが、その前に佐伯の足首の光が強くなった。
黒く腫れていた痣が、皮膚の下で泡立つように盛り上がる。
佐伯が喉の奥から、奇妙な声を漏らした。
それは人の声ではなく、魚が空気を吸おうとして失敗した——そんな奇妙な音だった。
そして、佐伯の足首の皮膚が裂けた。そこから血は出ていなかったが、かわりに、白い鱗のようなものが、傷口の内側から一枚だけ覗いた。
ロビーにいた誰かが悲鳴を上げた。
永美は、扉に手をかけたまま固まった。
透子も、羽喰も、八尾でさえも。
一瞬だけ、全員がそれを見た。
佐伯は涙を流しながら、笑っていた。
「ほら」
彼は言った。
「やっぱり……若返るんだ」
その時、ロビーの奥から白瀬の声がした。
「おめでとうございます!」
白瀬は、いつの間にかそこに立っていた。
その背後には、白い動物の仮面たち。
「佐伯様。あなたの願いは、島に届き始めた」
永美の指先が、扉の冷たい金具に触れていた。
外では百年浜が輝いている。
内では、人の体から白い鱗が生え始めている。
そして羽喰は、永美にだけ聞こえる声で言った。
「お前……見よな……」
「見たね。しかと」
「あれは俺の知ってる計画からも知らない情報だった。クソッ……この島では何が起きてやがる……」
計画からは知らない情報——?
あの、人魚化ともいうべき恐ろしい現象が?
一体、羽喰は何を知っていて、何を知らない——?
永美は、ゆっくりと羽喰を見た。
その言葉の意味を問う前に、白瀬が続けた。
「皆様。どうぞご覧ください」
白瀬は両手を広げた。
「これが、百年の朝の最初の祝福です」
佐伯の足首から、二枚目の鱗が覗いた。
浜菓子を食べたものから狂ってゆく—




