煌めく浜
百年浜は人の願いを写す—参加者の一人。気弱な青年の皆川にも危機が迫る。
佐伯の足首から、二枚目の鱗が覗いた。
それは魚の鱗に似ていた。だが、魚のそれよりも白く、薄く、陶器の欠片のような硬質さがあった。
皮膚の内側から押し上げられ、裂け目に沿ってゆっくり開いていく。
佐伯は痛みに顔を歪める。
それなのに、笑っていた——
「見ろ……見ろよ……」
佐伯は震える指で、自分の足首を指した。
「俺は、選ばれたんだ。やっぱり本当だった。若返る。戻れる。俺はまだ——」
「違う」
透子が低く言った。
「そんなの若返りじゃない。変質、もしくは『変容』だ」
佐伯は透子を見た。
目の奥で、白い光が揺れている。
「わからないのか。あんたには見えないんだ。島が、俺を呼んでる」
「呼ばれているなら、なおさら行くべきじゃない」
「う……うるせぇ! 邪魔するな!」
佐伯が叫んだ瞬間、彼の喉から濁った音が漏れた。
もはやそれは人の声ではなく、水を含んだ笛を無理に鳴らしたような、湿った音だった。
ロビーにいた宿泊客たちが悲鳴を上げる。だが、菓子を食べた者たちは逃げなかった。むしろ、その鱗を見て目を輝かせている。
「本当に……」
「やっぱり奇跡だ」
「あの人、変わってる」
「私も……」
その囁きを聞いた透子の表情が、さらに険しくなった。
「まずい。感染じゃなく、信仰が広がってる」
「人間は実体より、むしろ解釈そのものに感染を起こしやすいものだ」
「今評論している場合じゃない!」
透子は鶏面の男の首根っこを押さえたまま、ロビー全体を見た。
動ける者が少ない——
菓子を食べた宿泊客は出口へ向かっている。食べていない者は怯えて動けない。皆川は壁際で青ざめ、八尾は受付台の向こうで微笑んでいる。白瀬はロビーの中央で、まるで祭壇の前にいるように両手を広げていた。
「これは祝福です」
白瀬の声はよく通った。
「恐れる必要はありません。願いとは、いつも肉体を通って形になるもの。老いを恐れた者には、老いを超える徴が。死を拒む者には、死を遠ざける徴が」
「黙りやがれ」
羽喰が言った。
白瀬は穏やかに笑う。
「羽喰さん。あなたには見えないのですか。これほどに明らかな奇跡が起こる光景が広がっているのですよ」
「あいにく俺ァ、奇跡って言葉で不始末を隠す連中を腐るほど見てきたんでな」
羽喰は佐伯を押さえながら、永美へ視線を向けた。
「おい、永美。扉を閉めろ! 鍵があるなら掛けろ」
「切迫しているとしても乱暴な命令だ、もっと丁寧に頼むものでは?」
「ゴタゴタいうな! 切迫してんだよ。いいからやれ!」
永美は扉を閉めようとした。
だが、菓子を食べた女がその腕にすがりついた。
「嫌……開けてください」
女の目にも、白い粒子が浮いていた。
「お願い。見たいの……もっと近くで……あんな綺麗なもの、見たことないの……」
「お嬢さん。その頼みは聞けない」
「え……どうして?」
「美しいものが正しいとは限らないからだよ」
「でも、あなたも見えているんでしょう?」
女は永美の顔を覗き込んだ。
「なら、わかるはず……あそこへ行かなきゃ……」
その言葉は、永美の中にも細く刺さった。
行きたい——行ってみたい——
確かにそう思っている。
窓の向こうで、百年浜は朝の光をまとって輝いている。白い砂は真珠の粉のようで、黒い岩は宝石の傷口のようで、海は開かれた青い金属のようだった。
行けば、もっと見える。近くで見れば、もっとわかる。
その誘惑は、思っていたよりも、強い——
「永美!」
透子の声で、永美は我に返った。
透子は鶏面の男を床に叩きつけながら叫ぶ。
「目を離せ。窓を見るな!」
「他ならぬ、透子さんの頼みならば仕方ないね」
永美は目を閉じ、手探りで扉を押す。重い音を立てて、ロビーの扉が閉まる。
光が細く遮られた瞬間、菓子を食べた宿泊客たちが一斉に呻いた。
「ああ……」
「見えない」
「開けて」
「開けてよ」
彼らの声は、怒りではない。渇きだった。
羽喰が佐伯を床に押さえつける。
「佐伯、聞こえるか。浜へ行くな。足首から先を失くしたくなきゃ、大人しくしてろ」
「失くす?」
佐伯は笑った。
「違う。これは戻ってくるんだ。俺の体が、正しい形に……」
「正しいわけあるかよ」
羽喰は吐き捨てるように言った。
「てめぇの足は人間の足だ。魚の鱗が生える場所じゃねぇ」
白瀬が静かに言った。
「では、人間の形とは何なのでしょう」
羽喰が睨む。
「人間は、老い、傷つき、死ぬ。それが自然だと?」
「少なくとも、てめぇらに都合よく作り替えられるよりはましだ」
「作り替えるのではありません。願いが本来の形を取り戻すのです」
「詭弁だ」
透子が言った。
「願いなんて言葉で、薬と誘導を飾るな」
白瀬は透子へ目を向けた。
「昨夜の菓子を食べなかったあなたには、まだわからないでしょう」
「わかりたくもない」
「ですが、彼は見ている」
白瀬の視線が永美へ移る。
「永美様。あなたには島が美しく見えている。そうでしょう?」
永美は答えなかった。
白瀬はさらに続ける。
「醜さも、腐敗も、傷も、すべて光を帯びて見える。世界の裂け目から、美が滲んでくるように」
「ふむ……よくわかっているね」
「浜菓子は、その人の願いに合わせて見せます。あなたには、美を。佐伯様には若さを。別の方には救済を。ある方には、失った人の声を」
皆川が震えた。
透子が即座に皆川を見る。
「聞くな」
だが遅かった。
白瀬は皆川へ微笑んだ。
「皆川様。あなたが昨夜召し上がらなかったのは賢明でした。けれど、菓子を口にしなくとも、願いは人を呼びます」
「やめろ」
透子の声が低くなる。
「それ以上、その子に喋るな」
白瀬は笑った。
「妹さんは、お元気でしょうか」
皆川の顔から血の気が引いた。
羽喰が舌打ちした。
「白瀬、てめぇ……」
その時、ロビーの奥で電話が鳴った。
古い黒電話だった。受付台の隅に置かれていた、飾りのような電話。
じりりりり、と乾いた音がロビーに響く。
八尾が嬉しそうに目を細めた。
「まあ。お客様へのお電話でございましょうか」
「取るな」
透子が即座に言った。
しかし皆川のスマートフォンも同時に震えた。
電波は入らないはず……皆川は震える手で画面を見た。そこには一通の通知があり、差出人は、妹の名前が表示されていた。皆川の唇が震える。
「なんで……」
透子がスマートフォンを奪おうとする。
皆川は一歩下がった。
「待ってください」
「見るな」
「でも、妹から」
「違う。罠だ」
「でも!」
皆川は画面を見た。
永美にも、その文字が一瞬だけ見えた。
――お兄ちゃん、浜にいるよ。
皆川の目が見開かれた。透子が腕を伸ばす。
だが、その前に皆川は走り出した。
「皆川!」
透子が叫ぶ。
皆川はロビーの横の通用口へ向かった。正面玄関ではない。従業員用の細い扉だ。いつの間に開いていたのか、そこから朝の光が細く漏れている。
羽喰が怒鳴る。
「そっちは旧道だ! 浜に直で出るぞ!」
「なぜ開いている!」
透子が叫んだ。
八尾は受付台で微笑んだまま、首を傾げる。
「古い宿でございますので。閉まりの悪い扉も、ひとつやふたつ」
「嘘をつくな!」
皆川は通用口へ飛び込んだ。
透子が追う。
羽喰も佐伯を床に押さえつけたまま、永美へ叫んだ。
「おい永美! ぼさっとしてんじゃねぇ! あのガキを止めろ!」
「へ? 私が?」
「てめぇも足があるだろうが!」
「確かに」
永美は走り出した。思いの外この作家は速かった。
通用口の先は、細い外階段だった。
錆びた手すり。濡れたコンクリート。海の匂い。階段の先に、白い浜が見える。
永美の視界では、そこはもはや地上ではなかった。
光でできた口だった。
皆川は階段を駆け下りている。
そのさらに先、百年浜の入り口に、誰かが立っていた。
小柄な影。
少女のようにも見える。
だが、逆光の中で顔は見えない。
皆川が叫んだ。
「――!」
妹の名を呼ぼうとしたのだ。
透子が背後から叫ぶ。
「名前を呼ぶな!」
皆川の声は、そこで止まった。
だが浜辺の影が、ゆっくりと手を振った。
白い手だった。
昨日、桟橋の下から伸びた手と同じ色をしていた。
永美は階段の途中で足を止めた。
背後から羽喰の声が聞こえる。
「戻れ! そいつは人間じゃねぇ!」
浜辺の影が、ゆっくりと顔を上げた。
そして、皆川の妹の声で言った。
「お兄ちゃん」
皆川が、一歩、浜へ踏み出した。
皆川の妹—彼にはどんな事情があるのか




