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【外伝】虎と鴉

 こちらは外伝になります。本編には関係ありませんが、鴉宮透子の過去の掘り下げとなります。

 鴉宮透子は、昔はよく泣く子どもだった。


 怒鳴られれば泣いた。叩かれれば泣いた。飯を取り上げられれば泣いた。夜、隣の寝台で誰かがうなされる声を聞いただけでも、胸が詰まって涙が出た。


 泣くな、と言われても泣いた。

 泣いたら殴る、と言われても泣いた。

 だから、余計に殴られた。


 黒羽組が経営する孤児院は、海沿いの高台にあった。


 孤児院、といえば聞こえはいい。実際には、身寄りのない子どもを集め、使える者だけを拾い上げるための養成所だった。


 表向きは福祉施設。

 実態は、黒羽組の構成員と鉄砲玉を作るための、古びた檻だった。


 外壁は潮風で白く剥げ、窓枠には赤錆が浮いていた。廊下はいつも湿っていて、梅雨になると壁紙の裏から黒い黴が花のように広がった。食堂の天井には雨漏りの染みがあり、冬の朝には蛇口から出る水が骨まで冷たかった。


 布団は薄く、飯は少ない。

 職員は子どもを名前で呼ばず、番号で呼んだ。


 毎朝、子どもたちは薄暗い中庭に並ばされた。走らされ、殴り合わされ、倒れた者は水を浴びせられた。


 年上の子どもには、年下の子どもを従わせることが許された。奪える者は奪い、黙らせられる者は黙らせろ。それがこの場所の教育だった。


「泣くな。謝るな。ためらうな」


 職員たちはそう言った。


「優しい奴から死ぬ。可哀想と思ったら負けだ。相手が倒れても見下ろせ。助けるな」


 透子は、その言葉が嫌いだった。


 倒れた子がいれば、手を伸ばしたくなった。泣いている子がいれば、一緒に泣いてしまった。殴られた痛みより、誰かが痛がっているのを見るほうが怖かった。


 だから透子は、いつも一番下にいた。


 餓鬼大将の名は、馬場といった。


 丸い顔に、潰れた鼻。年は透子より二つ上。すでに職員に気に入られていて、将来は組に上げられると噂されていた。馬場はいつも三人の腰巾着を連れていた。


 馬場は透子の飯を奪い、靴を隠し、髪を引っ張り、古い洗濯室に閉じ込めた。


 透子は抵抗しなかった。

 抵抗する前に、泣いてしまうからだ。


 泣けば、もっと笑われる。もっと殴られる。もっと奪われる。それでも涙は勝手に出た。喉が詰まり、息が震え、目の奥が熱くなる。透子はいつも、泣きたくないと思いながら泣いていた。


 ある冬の日、馬場は透子の眼鏡を踏んだ。


 まだ度の弱い、安物の眼鏡だった。それでも透子にとっては、ぼやけた世界を少しだけ正しい形に戻してくれる、大切なものだった。


 ぱきん、と乾いた音がした。


 馬場が笑った。腰巾着たちも笑った。


 透子は割れたレンズを拾おうとして、指を切った。白い床に、血が一滴落ちた。


「あはは! また泣くのかよー!」


 馬場が言った。


 透子は答えられなかった。涙はもう、頬を伝っていた。


「おまえ、ほんと向いてねえな。鉄砲玉にもなれねえよ。お前のこと、そおぷ?にやるとか親父さんたちがいってたぞー! ぎゃはは!」


 馬場がもう一度、眼鏡のフレームを踏もうとした。


 その時だった。


「そこまでだ」


 聞き慣れない声が、廊下の奥から響いた。

 低く、乾いていて、妙に静かな声だった。


 振り返ると、黒いコートを着た老人が立っていた。痩せているのに、影だけが大きかった。


 皺の深い顔。金色がかった小さな目。白髪を後ろへ撫でつけ、手には古びた竹の杖を持っている。


 黒羽組の男が、老人の少し後ろで頭を下げていた。


「老虎先生。子どもの躾です」


「躾?」


 老人は笑わなかった。


「弱い者を囲んで殴ることを、躾とは呼ばない」


 馬場が舌打ちした。


「おい! じじい、誰だよ」


 次の瞬間、竹の杖が床を叩いた。


 音は一度だけだった。


 それだけで、廊下の空気が変わった。馬場の腰巾着たちは黙り、職員たちは視線を伏せた。


 老人は透子を見た。


「名は」


「……透子」


「姓は」


「か、鴉宮……」


「うむ」


 老人は割れた眼鏡を拾い、透子の掌に置いた。


「なぜ殴り返さない」


「う……怖いから」


 透子はしゃくり上げながら答えた。


 職員たちが小さく笑った。


 しかし老人だけは笑わなかった。


「よい答えだ」


 透子は顔を上げた。涙で、老人の輪郭は滲んでいた。


「怖いものを怖いと言える者は、まだ壊れていない」


「……壊れて、ない……?」


「壊れた者は、恐怖を抱かん。ただ命令を待ち、言われた相手に噛みつくだけだ」


 老人は竹の杖で、床をもう一度叩いた。


「この場所は、おまえたちを犬にしようとしている。吠えろと言われれば吠え、噛めと言われれば噛み、死ねと言われれば死ぬ犬だ」


 透子は震えながら老人を見た。


「犬になるな」


「……じゃあ、何に……なれば……」


「鴉になれ」


 老人の目は、虎のように細かった。


「高く飛べ。よく見ろ。泣いてもいい。だが、泣いている間に目を閉じるな」


 それが、老虎――ラウフーとの最初の会話だった。


 老虎は、香港、上海、横浜、神戸、どの港にも名を残した伝説の中国系マフィアだった。殺し屋、賭場荒らし、用心棒、武術家、密輸商。噂はいくらでもあった。黒羽組の幹部でさえ、彼の前では息を浅くした。


 そんな男が、なぜ黒羽組の孤児院を訪れたのか、透子は知らない。


 ただ、その日から一週間だけ、老虎は透子に稽古をつけた。


 場所は、使われなくなった礼拝堂だった。割れたステンドグラスから、冬の光が斜めに落ちていた。床板は腐りかけ、壁には雨染みがあり、祭壇の上には首の欠けた天使像が置かれていた。


 老虎はまず、透子に拳を握らせなかった。


「拳は遅い」


「では、何を使うのですか」


「掌。肘。肩。膝。踵。目。呼吸。沈黙。相手が見ていないものすべてだ」


 透子は泣きながら立たされた。


 肘を落とせ。肩を緩めろ。顎を引け。膝を殺すな。相手の顔を見るな。相手の中心を見ろ。


 老虎の声は厳しかったが、怒鳴らなかった。失敗しても殴らなかった。ただ、同じことを何度も言った。


「立て」


 その命令だけは、黒羽組の職員たちのものと違っていた。


 透子を押し潰すための命令ではなかった。透子を、そこから引き上げるための命令だった。


 三日目、老虎は透子の前に古い木人椿を置いた。


 人の形をした木の杭だった。胴から三本の腕が突き出し、下には一本の脚がある。湿気を吸った木肌は黒ずみ、ところどころ罅が入っていた。


「これを相手と思え」


「人ではありません」


「人より正直だ」


 透子は木人椿を打った。


 掌が痛んだ。肘が痺れた。肩が熱を持った。何度も姿勢を直された。何度も足を払われた。倒れるたびに、涙が出た。


 そのたびに老虎は言った。


「目を閉じるな」


 だから透子は、泣きながら見た。


 木の腕を。

 老虎の足を。

 自分の震える膝を。

 割れた窓の外で、黒い鳥が飛んでいくのを。


「詠春拳だ」


 老虎は言った。


「つ、強い人の拳……ですか……?」


「違う。狭い場所で生き残る拳だ」


 その言葉を、透子は気に入った。


 広い場所で勝つ方法など、彼女には必要なかった。廊下。洗濯室。階段の踊り場。食堂の机と机の隙間。透子が追い詰められる場所は、いつだって狭かった。


 七日目の朝、老虎は帰ることになった。

 その昼、馬場が透子を食堂の裏へ呼び出した。


「最近、調子乗ってんな」


 馬場は笑っていた。腰巾着が三人。逃げ道は、木箱と壁に塞がれている。雨漏りの水が、錆びたバケツにぽたりぽたりと落ちていた。


 透子は眼鏡を押し上げた。新しいものではない。割れたレンズを、透明なテープで留めただけの眼鏡だった。


 もう泣かない、と思った。

 だが、涙は出た。


 悔しくて、怖くて、情けなくて、いつものように喉が震えた。


 馬場が笑った。


「なんだよ。やっぱ泣いてんじゃん」


 透子は涙を拭かなかった。

 

 老虎の声が、胸の奥で響いた。


 泣いている間に目を閉じるな。


「どけ」


 透子は言った。


 馬場の顔から笑みが消えた。


「あ?」


「邪魔だ。どけ」


 馬場が殴りかかってきた。


 遅い、と思った。


 それは自分の感想ではなく、老虎の声のようだった。


 透子は半歩、内側へ入った。馬場の拳は肩の外を滑った。透子の掌底が顎を跳ね上げる。肘が胸を打つ。膝が腹に入る。崩れかけた馬場の襟を掴み、透子は小さく跳んだ。


 一撃目、掌。

 二撃目、肘。

 三撃目、膝。

 四撃目、裏拳。

 五撃目、踵。


 馬場の体は、ほんの一瞬、空中で止まったように見えた。


 次の瞬間、彼は木箱の山へ突っ込み、泡を吹いて倒れた。


 腰巾着たちは、三つ数える間もなく沈んだ。


 一人目は喉を押さえて膝をつき、二人目は足を払われて後頭部を打ち、三人目は逃げようとした背中を壁に押しつけられ、肘で腹を抜かれた。


 食堂の裏に、風が通った。


 透子は息を乱していなかった。


 ただ、泣いていた。


 涙は頬を伝っていた。掌は震えていた。膝も少し笑っていた。それでも透子は、最後まで目を閉じなかった。


 廊下の陰に、老虎が立っていた。


 いつから見ていたのか、老人は竹の杖を持ち、金色の目を細めている。


「よく飛んだな、鴉」


 透子は涙で濡れた顔を上げた。


「私は……まだ泣いています……」


「見ればわかる」


「冷酷には……きっと、ずっと……なれません」


「なるな」


 老虎は静かに言った。


「冷酷な者は、命令されれば誰でも噛む。あれは強さではない。ただの飢えた犬だ」


 透子は倒れた馬場たちを見た。


「では、強さとは何ですか」


「涙で滲んだ世界でも、相手を見失わないことだ。怖くても、痛くても、自分で立つことだ」


 怖さは消えていなかった。痛みも、悔しさも、涙も、まだそこにあった。


 けれど、透子はもう、自分が一番下にいるとは思わなかった。

 老虎は竹の杖で、床を一度だけ叩いた。


「行け、鴉」


 透子は頷いた。

 泣きながら、背筋を伸ばした。


 黒羽組の古い孤児院は、その日も変わらず、子どもたちを犬にしようとしていた。


 けれど、その檻の中で一羽だけ、小さな鴉が初めて空を見た。

 鴉は羽ばたく—

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