皆川
皆川の明かされる事情、彼は生きてこの浜から出られるのか—
皆川が、一歩、浜へ踏み出した。
その足が白い砂に触れる寸前、透子が背後から彼の襟を掴んだ。
「行くな!」
皆川の身体が後ろへ引き戻される。細い体が外階段の錆びた手すりにぶつかり、鈍い音を立てた。
だが皆川は痛みを訴えず、彼の目は、浜辺の小さな影だけを見ている。
白い砂の上に、少女が立っていた。
顔は逆光で見えない。黒い髪。細い腕。膝まである白いワンピース。足元には波が寄せているのに、裾は濡れていない。
「お兄ちゃん」
少女がもう一度言った。
その声を聞いた瞬間、皆川の顔が崩れた。
「……やめろ」
透子が低く言った。
「見るな。聞くな。あれはあなたの妹じゃない」
「でも! 声が」
「違う」
「声が、妹なんです!」
皆川が叫んだ。
その声には、昨日まで押し殺していたものが全部混じっていた。恐怖。焦り。罪悪感。眠れない夜の疲れ。そして、たった一人の家族にだけ向ける、必死の執着。
「俺が行かなきゃ、あいつが殺されるんです!」
永美は、その言葉で皆川を見てああ、と思った。この青年は、奇跡を求めて来たのではない。脅迫されて来たのだ、と。
皆川は、もともと金の匂いがする人間ではなかった。
借金は、彼のものではない。
父親が残したものだった。母親が逃げたあとに膨れ上がったものだった。取り立ての紙は、最初はポストに入っていた。次にドアへ貼られた。最後には、妹の通学路に立つ男たちの笑い声になった。
『払えないなら働け』そう言われた。
働く、といってもまともな仕事ではない。深夜の荷物運び。知らない部屋への封筒の配達。車の見張り。店の裏口で、誰かを待つだけの仕事。
半グレの真似事だった。
皆川は、自分が悪い場所に入っていることを知っていた。だが、そこから降りる方法を知らなかった。金を返せば終わると言われた。妹に近づかないと言われた。だから従った。
けれど、半端者はどこまでも半端者だった。
ある夜、皆川は本職の男たちに囲まれた。
倉庫の床は冷たかった。
腹を蹴られ、口の中が切れ、視界の端が白くなった。相手は怒っているというより、作業をしているようだった。失敗した部品を叩いて直すみたいに、皆川の体を壊していった。
半グレの小遣い稼ぎが、組の荷物に手を出した。
そう言われたが、皆川には心当たりがなかった。
だが、心当たりがあるかどうかは問題ではなかった。彼が弱いこと。妹がいること。借金があること。その三つが揃った時点で、彼はもう相手にとって都合のいい形をしていた。
床に転がった皆川の前に、スマートフォンの画面が差し出された。
妹が映っていた。
自宅の玄関前。制服姿。何も知らずに鍵を開けようとしている。
男は言った。
妹に触られたくなければ、岩羽島へ行って百年に一度、浜に上がるという人魚の肉を持ってこい。
それが条件だった。
「俺は……」
外階段の上で、皆川は震えていた。
「俺は、別に不老不死なんか欲しくない。若返りたいわけでも、金持ちになりたいわけでもない。ただ、妹を帰してほしいだけなんです」
透子は皆川の襟を掴んだまま、しばらく黙っていた。
その沈黙は、冷たかったが、突き放す沈黙ではなかった。
「知ってる」
透子が言った。
皆川が目を見開く。
「……え?」
「知ってると言った」
透子は皆川を階段の内側へ押し戻した。
「皆川。お前の顔は、今回の任務資料にあった」
「任務……?」
「親の借金を背負わされた青年。半グレの下働き。妹を人質に取られ、岩羽島へ送られた運び屋。そういう扱いだった」
永美は透子を見た。
「なんと……あなたは、彼を知っていたのか」
「名前と顔だけな」
「どうして黙っていたのか……理由を聞いても?」
「本人が言う前に私が言えば、こいつの逃げ場を潰す」
透子の声は荒い。だが、そこには苛立ち以外のものがあった。
「それに、私は善人じゃない。こいつを助けに来たわけでもない。私にも任務がある」
「ふふ……橙子さんは、優しい」
「っ……! 今ここで死なれると困るだけだ!」
橙子が明後日の方向を向きながらむきになって言う。
「あはは、そういう言い訳は、少し苦しいね」
「黙れってば!」
透子は言い放つ。
まだ永美にはイマイチ彼女の沸点?がわからない。
本気で怒っているわけでもないようだが——
ふと浜辺の少女が、首を傾げた。
「お兄ちゃん」
また、声がした。
その声に皆川の肩が震える。
「やめろ……その声で呼ぶな……」
羽喰が階段の上から怒鳴った。
「おい! そいつを浜に出すんじゃねぇ! 名前も呼ばせるな!」
彼はロビー側で佐伯を押さえたまま、顔だけこちらへ向けていた。
「浜が人を釣ってやがる! 声も姿も信用すんな!」
透子が皆川の耳元で言う。
「聞いたな。お前の妹はここにいない」
「でも」
「いない」
「どうして言い切れるんですか」
皆川が透子を見る。涙が滲んでいた。
その顔を見て、透子は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに言った。
「お前の妹は、島には来ていない」
「何でわかるんですか!」
「見張りをつけていた」
皆川が固まる。
「……見張り?」
「私じゃない。私の依頼主側だ。お前を岩羽島へ送った連中とは別の筋が、お前の妹の居場所を押さえていた。少なくとも、昨日の夜までは生きていた。島にはいない」
「昨日の夜……」
「だから、今ここにいるあれは妹じゃない」
透子は浜辺の少女を睨んだ。
「島が、お前の願いを使っているだけだ」
皆川の唇が震えた。その言葉は救いではなかった。
昨日の夜までは生きていた。裏を返せば、今はわからないということだ。皆川はそれを理解してしまった。
永美は、胸の奥に嫌な美しさを見た。
希望は、人を救うためだけにあるのではない。
人を縛るためにもある。
浜辺の少女が、ゆっくりと手を伸ばした。細い腕の先には白魚のような細い指が並んでいる。
そして、少女の足元で波が引いた。
砂の上に、何かが残っている。
それはスマートフォンだった。濡れているはずなのに、画面は点いている。
皆川のスマートフォンが、彼の手の中で震え、同時に、浜辺に落ちたスマートフォンの画面も光った。
「……同じ?」
永美が呟いた。
皆川の画面に、通知が表示される。
差出人は、妹の名前。
本文は短かった。
――お兄ちゃん、持ってきてくれた?
皆川の顔から、完全に血の気が引いた。
透子がスマートフォンを奪おうとする。
だが、皆川は反射的にそれを胸に抱え込んだ。
「やめてください!」
「見るな!」
「妹なんです!」
「違う!」
「妹なんだよ!」
皆川は泣きながら叫んだ。
「俺は、あいつのために来たんだ! 俺が持って帰らなきゃ、あいつが本当に殺される! 借金も、仕事も、全部どうでもいい! 俺がどうなってもいいから、妹だけは——」
その瞬間、浜辺の少女が笑った。
声はしなかった。
だが、笑ったのがわかった。口元が、耳の方へ少しだけ裂けるように動いた。
永美の背筋に冷たいものが走る。
これは美で測れるものではない。
邪なるものだ——
透子が皆川の頬を平手で打つ。乾いた音がした。
弾けるような頬の痛みに皆川は息を呑む。
「いい加減、目を覚ませ」
透子の声は低かった。
「お前がここで浜に出たら、妹を助ける奴がいなくなる」
「でも」
「妹を守るんだろう……?」
皆川の目が揺れた。
「だったら、今ここで死ぬな」
透子は皆川のスマートフォンを奪い取り、画面を見た。その顔がわずかに変わる。
永美が覗き込もうとすると、透子は画面を伏せた。
「何が映っていた?」
「言わない」
「言わない方が悪いもの?」
「……そうだ」
その時、階段の上から羽喰が叫んだ。
「戻れ! 白瀬が動いてる!」
ロビーの方で、白瀬の声が響いた。
「皆川様」
その声は、階段の向こうからではなく、浜の方からも聞こえた。
二重に。
「妹さんを救いたいのでしょう」
皆川が震えた。
透子が彼の肩を押さえる。
「聞くな」
「でしたら、簡単です」
白瀬の声が甘く続いた。
「浜へおいでなさい。肉は、浜でしか得られません」
浜辺の少女が、ゆっくりと両手を広げる。その背後で、白い砂が盛り上がった。最初は波かと思ったが、違った。
砂の下から、白魚のような指が何本も出てきていた。
一本ではない。
二本でもない。
十、二十、三十。
白い手が、砂の中から次々と生えてくる。
皆川の妹の声が、無数に重なった。
『『『お兄ちゃん』』』
『『『助けて』』』
皆川が喉の奥で悲鳴を殺した。
透子が彼を抱えるように引きずり戻す。
「永美!」
「わかっている!」
永美は階段の扉へ手を伸ばした。
閉める——今すぐ閉める。
だがその直前、浜辺の少女が顔を上げた。
逆光がずれた。
永美は、その顔を見た。それは少女の顔ではなかった。白い鱗に覆われた、誰かの顔。目だけが、人間の少女の目をしていた。
そしてその口が、永美に向かって動いた。
「見つけた」
扉が閉まる直前、永美は確かにその声を聞いた。しかしそれは皆川の妹の声ではなかった。
永美をここに連れてきたその本人——哀川の声だった。
透子の動きでなんとか浜を出てホテルへと戻る。一体何が怒っているのか?




