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流石に風呂  

 なんとか浜は続く扉まで帰って入り口を閉める。

そこで永美は急に頓珍漢なことを言い出し—

 勢いよく扉が閉まる。


 鉄製の防火扉が、錆びた音を立てて外階段とロビーを隔てた。


 なんとか他の観光客も皆川と透子のやりとりに気圧され正気を取り戻したようだ。もう浜に駆けつけるものはいなくなっていた。

 佐伯もなんとか羽喰が回収したようだ。


 浜からの光が細く消えた瞬間、永美の視界は少しだけ色を失った。だが、完全には消えなかった。

 瞼の裏に、まだ百年浜の白さが残っている。


 それよりも強く、耳に残っている声があった。

『見つけた』あれは皆川の妹の声ではなく、たしかに哀川の声だった——


「永美」


 透子の声で、永美は我に返った。


「今、何を聞いた」


「……哀川の声だ」


 透子の眉が動く。


「聞き間違いでは?」


「残念ながら、私は自分の聞きたい声を都合よく聞き間違えるほど素直ではない」


「菓子の影響は」


「あるだろうね。だからこそ厄介だ。幻聴か、島が私の記憶を使ったのか、あるいは本当に哀川がこの島のどこかにいるのか、区別がつかない」


 皆川は壁際に座り込んでいた。


 透子に引きずり戻されたせいで肩で息をしている。顔色は悪い。だが、浜へ駆け出そうとする熱は、ひとまず消えていた。


 透子は皆川の前にしゃがんだ。


「立てるか」


「……すみません」


「謝るな。立てるかと聞いてる」


「たぶん」


「なら立て。ここにいるとまた呼ばれる」


 皆川は震える膝に手を置き、ゆっくり立ち上がった。



「透子さん」


 永美が濡れた袖を見ながら言う。


「何だ」


「お風呂」


 透子は一瞬、言葉を失った。


「……はあ?」


「私は汚れたし、今不快だ」


 永美はきっぱりと言った。


「精神的に?」


「主に物理的にだよ。もちろん、精神的にも少しは汚れたかもしれない。だが精神の汚れは後で文章にすればいいさ。だがしかし、皮膚の汚れは湯で流さなければならない」


「はあ……もう好きにしろ」


 透子は眉間を揉んだ。


「……五分だ」


「五分で済む髪ではない」


「十分」


「妥協しよう」


「十五分以上かかったら置いていく」


()()にしては冷たいな」


()()だ。あと、今のは恋人としてではなく()()()として言っている」


「監視付きの入浴とは、なかなか倒錯的だね」


「黙れ。見ない」


「見ないのか」


「見るわけないだろ!」


 透子は真っ赤になって叫ぶ。

 それからこほんと気色を整え、皆川の方へ向き直った。


「お前は一度部屋へ戻れ。外を見るな。声を聞くな。誰が呼んでも返事をするな」


「……はい」


「私たちは部屋に戻る。一旦休憩だ。あなたも休め」


 透子は永美の腕を掴み、二〇七号室の方へ歩き出した。

 部屋へ戻ると、透子はまず扉を閉め、鍵をかけ、チェーンをかけ、さらに椅子を一脚、扉の前へ置いた。


 そして昨夜のバリケードが、まだ部屋の中央に残っていることを確認する。


「防衛線は維持する」


「一晩経っても我々の関係に進展はなしか」


「進展させる気は1ミリもない」


「うーん、残念だ0.5ミリならあるのかな」


「無い! 1マイクロメートルだろうがなんだろうが無いものは! 無い!」


 永美は肩を竦めた。


 そして当然のように浴室の方へ歩き出す。


「まあ……ミリもセンチでも、私に心が移ろわぬあなたこそ、ルームメイトには相応しいね。どうか恐ろしい化物が入らぬように監視を頼むよ」


「本当にベラベラとよく喋るな。あなたを武術ルーティンの練習代にしてもいいんだぞ」


「そりゃ御免被る」


 永美は手だけひらひらだしつつ浴室へ入った。


 古いユニットバスだった。壁の白さは黄ばみ、換気扇は頼りなく唸っている。シャワーを出すと、最初は冷たい水が跳ね、やがてぬるい湯になった。


 永美はそれを肩に浴びながら、さきほど浜で聞いた声を思い出した。


 見つけた——


 哀川の声。


 あれは島が記憶を盗んだのか。浜菓子が幻聴を見せたのか。それとも、本当に哀川がこの島のどこかにいるのか。


 どれでも面白く、どれでも最悪だ。


 髪を濡らし、持参した小さなシャンプーボトルへ手を伸ばす。


 そこで永美は、動きを止めた——


 ユニットバスから勢いよく永美が出てきた。バスローブ姿で、全く乾いていない。


「ねぇ、鴉宮さん。私の持ち込んだシャンプーについて、追求したいことがあるのだが——」

 

 そして、そこで見た。

 

 透子が、コート掛けと戦っていた。


 そのコート掛けは上部に四本の枝のような腕が伸びている古いがよくある代物だった。


 そのコート掛けを相手に、透子は真剣に構えていた。

 肩の力を抜き、肘を落とし、掌を前に出す。


 次の瞬間、彼女の両腕が細かく動いた。木製の枝に手首を当て、弾き、受け、押し込み、肘の軌道を差し込む。詠春拳めいた近距離の連打だった。


「えっと……?鴉宮さん……?」


「何だ」


 透子は視線を逸らさず、掌底を一発、コート掛けの中央へ入れた。ぎし、と木が鳴る。


「君は家具と決闘しているのかい」


「練習だ。しないと体が鈍る」


「ワオ」


 透子はそこでようやく永美を見た。

 そして、目を細める。


「何だ、その格好は」


「バスローブだよ」


「見ればわかる。その格好で部屋をうろつくな」


「風呂上がりのバスローブには、文明がある。人類が裸と衣服の間に作った、きわめて詩的な妥協点だ」


「出るなら着替えろと言っている。出会ったばかりの人間にマナーも無いの?」


「それは君が押しかけルームメイトになったからで……はぁ……情緒がないな」


「うるさい」


 永美はルームメイトの女のびっくり生態を前に、本題を忘れるところだったのを思い出した。

 片手に持った空のシャンプーボトルを、透子の目の前に掲げる。


「ところで、鴉宮さん」


「何だ」


「これは何だと思う?」


「シャンプーの容器」


「正解だ。では次の質問だ。これは今、どういう状態だと思う?」


「空に近い」


「素晴らしい観察眼だ。では最後の質問だ。なぜ昨日開けたばかりの私のシャンプーが、今朝には空に近い状態になっているのかな?」


 透子の動きが止まった。


 沈黙が落ちる。


 浜の怪異よりも、白瀬の演説よりも、羽喰の秘密よりも、なぜかその沈黙は重かった。


「使った」


「認めるのが早い」


「事実だからな」


「少しは動揺してほしかったな」


「動揺する理由がない」


「私の私物を無断で使ったというのに?」


「必要だったから」

 

「それはシャンプーの用途であって、無断使用の理由ではない」


 透子は悪びれもせず、自分の三つ編みの端をつまんだ。


「量が少なかった」


「あれは旅行用だった」


「泡立ちはいいけど、匂いはなんか丁寧な生活と言う感じで腹が立った。コンディショナーもちょっとキシキシする。私の髪質なら——」


「あの……文句だけでなくレビューまでしなくていいんだよ」


「備え付けのシャンプーがあったよね?見えなかった?」


「備えつけのやつは匂いが無理だった」


「私のものは丁寧な生活感が嫌だったのでは?」


「備えつけよりはましだった」


「褒め言葉として受け取るには、あまりにも低い位置から来たね」


 透子が目頭を揉む。


「シャンプーを使われた程度で騒ぎ立てるなんて、大げさだ」


「大げさなものか。人間の文明は、所有物の境界から始まる」


「それっぽいことを言うな……。はあ……ではここは一つ、決闘にてこの場を納めるとするか」


 透子が構え、一歩踏み込む。

 

 勝てない——

 

 確信した永美は咄嗟に横へ逃げた。バスローブの裾がふわりと揺れる。


「え、ちょ……待て、鴉宮さん。ぼ……暴力はいけない。私は今、かなり防御力の低い衣装を着ている」


 まさに水を得た魚である。これまでの揶揄いの逆襲をせんとする透子の手が伸びる。


 永美は素早くベッドの向こうへ回り込んだ。

 中央には昨夜作られたバリケードが残っている。椅子、荷物、テーブル、コート。二人はその防衛線を挟んで向き合った。


 永美は空のボトルを掲げて朗々と言い放つ。


「見たまえ! 君自身が作った防衛線が、今、私の人権を守っている!」


「人権をシャンプーに使うな」


 透子はバリケードを軽々と越えようとした。

 永美は慌てて後退する。


「待った。いま跳んだね? シャンプー問題で跳躍を使うのはやりすぎでは?」


「お前が逃げるからだ」


「逃げる権利が! 私には!! ある‼︎‼︎‼︎‼︎」


 バスローブの有権者は叫んだ——

 しょうもないシャンプーバトル。透子は強いがどうなる永美—?

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