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羽喰

 永美はなんとか第三者の介入で命を長らえる。そこにきたのは意外な人物であった。

 その時、扉が叩かれた。


 すん……と二人は同時に黙った。


 透子の表情が消える。さきほどまでコート掛けと戦い、シャンプーの所有権を巡って小競り合いしていた女とは思えないほど、切り替えが早い。


 永美はバスローブ姿のまま、小声で言った。


「これはこれは、さながらデウス・エクス・マキナときた。名付けるならば『シャンプー調停者』かな」


「何が『シャンプー調停者』だ、黙れ」


 扉の向こうから声がした。おそらく羽喰だろう。


「あー……俺だ。その……取り込み中悪いが開けてくれ」


「取り込んで無い!」


 透子はすかさず言う。

 そして椅子をどかさず、扉越しに言う。


「で、何の用だ」


「お前らに話がある」


「そういうことならロビーで話せ」


「耳が多すぎる。白瀬の野郎、もう動き始めてやがる」


「ふん……証拠は」


()だ」


「まだ信用できないな」


()()の勘だ」


 透子の目が細くなる。

 永美は少し笑った。


「おお……今、さらっと身分を明かしたね」


「さて、()()()()()()()()()()()。開けろ。二度は言わねぇ」


「三度目を聞いてみたい気もする」


「永美、黙れ」


 透子はチェーンを外し、椅子をどかした。だが扉を開ける前に、ドアの横へ身をずらす。真正面に立たない。


 扉が開く。


 羽喰は廊下に立っていた。色褪せた釣り用ジャケット、湿気で乱れた髪、無精髭。見た目だけなら、やはり島の釣り客か、場末の記者にしか見えない。


 だが、彼は手帳型の身分証を一瞬だけ開いた。

 透子の目がそれを読み取る。


「公安……」


「細かい所属は今どうでもいい」


「どうでもよくはない」


「どうでもいいことにしろ。ここじゃ肩書きより、誰に見られてるかの方が問題だ」


 羽喰は部屋へ入るなり、中央のバリケードを見た。


「何だこれは」


「防衛線だ」


 透子が言った。

 羽喰は険しい顔で永美を見る。確かにこの状況では永美が獣に見える——


「お前、何した」


 羽喰は低い声で唸る。その目には擦り切れつつも揺るがない正義のようなものが見える気がした。


「ひどい偏見だ。私はまだ何もしていない」


「まだ、って言ったぞ」


「待って……その人は実際何もしていない。ルームメイトになったのも私の要望だ」


 透子が状況が複雑になるのを恐れてか永美に助け舟を出した。


「……つまりあんならは本当に恋人なのか?なら悪かったな……ったく()()()()()は静かにやれよ」


「ち……違う! ()()()()()はしてない!」


 蒸気が出るのではないかと思うほど顔を真っ赤にして透子がいう。

 

「ふふ、恥じらうルームメイトの代わりに私が質問しよう。用件は?」


 羽喰は深く息を吐き、部屋の窓を見た。


「カーテンは開けるな。特に作家先生はな」


「ふうん……それは島菓子のせいで島が光って見えるから?」


「そうだ。浜菓子を食った連中は、今かなりまずい状態にある。佐伯は一応押さえたが、他の客も時間の問題だ」


「白瀬の仕掛けか」


 透子が言う。


「半分はな。残り半分は、この島そのものだ」


 羽喰は声を落とした。


「俺はこの島を捜査している。最初は民俗だの人魚だの、そんな話じゃなかった。公文書から消えた金、存在しない工事記録、架空の研究施設、妙に綺麗に塗り潰された航路資料。そういうものを追っていた」


「おお……謎多き、グリッター・アイランド計画か」


 永美が言う。


 羽喰が鋭く睨む。


「その名前をでけぇ声で言うな」


「この部屋には我々しかいないよ」


「この島じゃ、壁も信用できねぇ」


「ふむ、壁とは……実に詩的な警戒だ」


「詩じゃねぇ。経験則だ。どこに何が仕込まれてるかわからねぇからな」


 透子は腕を組んだ。


「計画の中身は」


「すまんが、まだ言えん」


「信用しろと言うには情報が少ないな」


「信用しなくていい。ただ、俺も今朝の現象までは掴んではいない。佐伯の鱗も、浜が声で人を釣ることも、あの菓子が視界を狂わせることもだ」


 羽喰は永美を見た。


「つまり、この島には俺が追ってた秘密とは別の層がある。もしくは、同じ秘密の下に、俺がまだ見てねぇ底がある」


「層のある秘密は美しい。一つ一つベールを剥がすように明かしてゆきたいものだね」


「おい、妙な例えで喜んでる場合じゃねぇよ……」


「しかし、あなたがここへ来たのは、我々を助けるためだけではないだろう?」


 羽喰は黙った。

 永美は続ける。


「あなたは私が口にした名前に反応した。つまり私を疑っている。哀川との繋がりも気にしている。あなたの捜査にとって、私は偶然転がり込んできた異物だ」


「ふぅ……自覚があるんなら黙ってろ」


「ふふ……自覚があるから喋っているんだよ」


 羽喰は舌打ちした。根本的に永美と羽喰は違う生き物だ。平行線を辿って交わらない。その言葉も、行動も——


「地下に通信室がある」


 透子の目が動いた。


「通信室?」


「このホテルの設備にしちゃ妙な部屋だ。古い図面で見つけた。島内のどこかと繋がってた可能性がある」


「白瀬側か」


「あるいは、もっと別の連中か」


 羽喰は扉へ向かった。


「今からそこへ行く。通信ログか、記録か、何か残ってるかもしれねぇ」


「私たちを連れていく理由は」


 透子が聞く。


「お前は腕が立つ。作家は……」


 羽喰は永美を見た。


「厄介だが、哀川に呼ばれてここへ来た。たぶん島が無視しねぇ」


「えぇ……嬉しくない評価だね。私にはこんなにも世界の美しさに切り込む言葉の刃を持っているというのに……」


「そういうところだ。褒めてねぇよ」


「はぁ……最近そればかり言われるよ」


「その前に着替えろ」


 羽喰が言った。

 永美は自分のバスローブを見下ろした。


「そうだね、流石に公共の場にバスローブは相応しくない」


 永美は服を取った。新しく着たブラウスはごく淡い灰色の月光に似た色をしている。袖はゆるく膨らみ、手首で繊細に絞な絞りが施してある。


 黒く長めの髪も本当は時間をかけて乾かしたいところをぐっと抑えて、さっと乾かす。


 その横で、透子はコート掛けから上着を取る。コート掛けの枝の一本が、やはり少し曲がっていた。  

 永美はそれに気づいたが、何も言わなかった。言えば自分も曲げられる気がしたからだ。

 

 廊下の向こうから、まだ宿泊客たちの声が聞こえる。


 綺麗。


 浜へ行きたい。


 もっと近くで見たい。


 永美は、閉じたカーテンの方を一度だけ振り返った。

 向こうには、光る島がある。そして、その光の下に、まだ名前のない秘密が埋まっている。

 羽喰が低く言った。


「行くぞ。正午までに、何か掴まねぇとまずい」


「正午?」


 透子が聞く。

 羽喰は答えなかった。ただ、廊下の奥へ歩き出す。

 その背中を追いながら、永美は思った。


 公安。


 カルト。


 人魚。


 浜菓子。


 哀川の声。


 そして、まだ明かされない計画。


 情報は増えている。

 だが、真実へ近づいている感覚はなかった。


 むしろ、階段を下りるように、深い場所へ誘導されている気がした。


 ホテル真珠湾の床下へ。岩羽島の裏側へ。


 人間の願いが、いちばん醜く腐る場所へ。

 

 島はますますきな臭さを増していく、公安。カルト。人魚。浜菓子。哀川の声。そして、まだ明かされない計画。渦巻く陰謀—

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