地下通信室
ホテルの下にある謎の通信室そこには一体何が隠されているのか—
廊下は、さきほどよりも静かだった。
その静けさが、かえって嫌だった。
二階の客室扉はどれも閉まっている。だが、中に誰もいないわけではない。薄い木の扉の向こうで、息を潜めている気配がある。泣き声。祈る声。誰かが壁を爪で掻くような音。
浜菓子を食べた者たちは、今も下で百年浜を見たがっている。
食べなかった者たちは、部屋の中で耳を塞いでいる。
どちらにせよ、このホテルに安全な場所はもう残っていなかった。
羽喰は先頭を歩いていた。
足音を殺すのがうまい。見た目はだらしない釣り客のようなのに、階段の角では必ず先に視線を送り、鏡になった窓ガラスで後方を確認する。
透子もそれに気づいていた。
「公安はいつもそう音を立てずに歩くのか?」
「裏の連中にしては繊細なところに気がつくようだな」
羽喰が振り返らずに言う。
「まだあなたのことを信じてはいない」
「ふん……好きにしな」
永美は二人の後ろを歩きながら、少し楽しそうに言った。
「公安と裏社会、真反対の属性を人間同士の会話は興味深いね」
「「黙ってろ」」
二人に同時に言われた。
「息が合っているね。真反対の人間が似たような振る舞いになる——U字理論というのだよ」
「「うるさい」」
やはり同時だった。
階段を下りる途中で、一階ロビーの方から声が聞こえた。
綺麗……。浜へ行きたい。お願い……開けて……。
その声は、さきほどよりも弱くなっている。けれど、弱いからこそ怖かった。喉が渇いた者が水を求める声に似ている。怒りではない。理屈でもない。単純な欲求だった。
羽喰は一階へは降りず、踊り場の途中から従業員用の細い扉へ入った。
扉には「関係者以外立入禁止」と書かれている。文字は古びて剥がれかけていたが、最近、誰かが油を差したのか蝶番だけは滑らかに動いた。
「ここから先は客用じゃねぇ。床が腐ってる所がある。踏み抜くなよ」
「先に言ってくれるのはとても親切だね」
「落ちてから文句言われるのが面倒なだけだ」
従業員用の廊下は、客室側とはまるで違っていた。
装飾はない。
壁にはむき出しの配管が走り、天井の蛍光灯は半分ほど死んでいる。床には古い台車、破れたリネン袋、割れた洗面器。埃と塩気を含んだ空気が、喉の奥へ貼りついた。
永美は小さく息を吸った。
「ふむ……こういった裏方の設備もまた趣深いね……」
「どの辺がいいんだ……黴臭いし、虫も出そうだ」
自分で言いつつ虫という言葉にぶるりと震えつつ、透子が言う。
「そこがいいんだよ、汚れや擦り切れたものにもまた情緒はあるというものだ」
「その感想を紙に書く前に、足元を見ろ」
透子が永美の袖を引いた。
床板が一枚、黒く沈んでいた。踏めば抜けていたかもしれない。
「おっと。透子さん。ありがとう」
「礼はいらない。落ちたら引き上げるのが面倒なだけだ」
「今日の透子さんは優しいね」
「黙って歩け」
廊下の奥に、古いリネン室があった。
羽喰はそこで足を止める。
棚には畳まれたシーツが積まれている。だが、白かったはずの布は湿気を吸って灰色になり、ところどころに茶色い染みが浮いていた。奥には業務用の洗濯機が二台並んでいる。どちらも蓋が半開きで、内側から黴の臭いがした。
「ここだ」
羽喰が言った。
「ここが通信室?」
永美が棚を眺める。
「違ぇよ」
羽喰は棚の下へ屈み、床板の一部を指で探った。
そして、爪先で軽く蹴る。
こつん、と他とは違う音がした。
「点検口だ」
羽喰が床板を持ち上げる。下には鉄製の梯子が伸びており、暗い穴に繋がっていた。
底は見えない。湿った空気が、下からゆっくり上がってくる。海水、油、埃、古い電線の焼けたような匂い。その奥に、どこか甘い腐臭が混じっていた。
透子が眉を寄せる。
「嫌な匂いだ」
「知ってる」
羽喰が言う。
「ここに一度入ったのか」
「途中までな。ひとりで奥まで行くのは危険だ。誰かいたら始末されかねん」
透子が先に梯子を下りた。片手で支柱を掴み、音もなく下りていく。
次に永美。湿った鉄が掌に冷たく貼りついた。最後に羽喰が点検口の蓋を閉める。
暗闇が落ちた。羽喰のライトが点く。
細い光が、地下の壁を舐めた。
コンクリート。錆びた配管。むき出しのケーブル。床には薄く水が溜まっている。歩くたびに、靴底の下でぴちゃりと音がした。
永美はその音を聞いて、少しだけ顔をしかめた。
「はあ……お風呂に入ったばかりだというのに」
「あなたな……少しは我慢しろ」
透子が呆れる。
羽喰は奥へ進んだ。
しばらく行くと、通路の突き当たりに鉄扉が現れた。ホテル設備にしては厚い。周囲の壁だけが妙に新しく補修されている。扉の横には古いプレートがあり、そこにはこう書かれていた。
通信管理室。
永美は目を細める。
「リゾートホテルに通信管理室とは……」
「ああ……似合わねぇだろ」
羽喰が言った。
「そうだね、しかし似合わないものほど、隠し場所としては優秀だ」
「そういうこった」
羽喰は鍵束から一本を選び、扉を開けた。
中は狭い部屋だった。
机が二つ。古い無線機。壁一面の配電盤。地図。棚に詰められたファイル。灰皿。黒ずんだ湯飲み。椅子は三脚しかない。
埃は積もっている。
だが、完全に放置された部屋ではなかった。
机の一部だけ埃が払われている。無線機のダイヤルには新しい指の跡があった。ファイル棚のいくつかは、最近抜かれた形跡がある。
透子が扉を閉める。
「ここなら話せるのか」
「少なくとも、ロビーよりはましだ」
羽喰は机の上に、折り畳まれた地図を広げた。
岩羽島の地図だった。
ホテル真珠湾。百年浜。旧港。灯台跡。集落跡。島の北東側には、大きく斜線が引かれている。
永美はその斜線を見た。
「ここは?」
「公式には立入禁止区域だ。崩落危険、海洋観測、保安上の理由、説明は時期によってころころ変わる」
「嘘の衣装持ちだね」
「そうだ。嘘はよく着替える」
羽喰はファイルを一冊取り出した。
表紙には何も書かれていない。端に小さく英数字があるだけだ。
「俺が追ってるのは、もともと人魚じゃねぇ」
羽喰は低く言った。
「公文書から消えた予算。存在しねぇ工事。架空の研究施設。妙に綺麗に塗り潰された航路資料。島の外に出したくねぇ何かを、国ぐるみで隠してる。俺が掴んでるのはそこまでだ」
「それが、グリッター・アイランド計画」
永美が言う。
羽喰が即座に睨む。
「でけぇ声で言うな」
「ここは地下だろう?」
「地下でも壁は信用しねぇ」
「ふふ……良いね。疑心暗鬼が生活に染み込んでいる」
「趣味で疑ってんじゃねぇ。これも仕事だ」
透子が地図を見下ろす。
「その計画と、人魚の肉は関係しているのか」
「そこがわからねぇ」
羽喰の声には苛立ちがあった。
「俺の資料には、島を訪れた奴の足から鱗が生える話なんざ一行もねぇ。浜が知り合いの声で人を釣ることも、菓子で島を美しく見せることも、白瀬の連中が百年の朝に何をするのかも、何も出てこねぇ」
「つまり、あなたの知っている秘密と、この島の怪異は別物かもしれない」
「あるいは、同じ穴のもっと底かもしれねぇな……はは、現に訳のわからんことばかり起きてやがる」
狭い通信室に沈黙が落ちた。
永美はその沈黙を味わった。
国家の隠蔽。民俗の怪異。カルトの儀式。
個人の願い。
すべてが同じ島の上で、重なり合っている。まるで、何枚もの腐った絵を水に沈め、絵具だけが溶け合っていくようだった。
「永美」
透子が言う。
「おっと、わかった。わかった」
永美はその舐めるような審美眼を収めた。無意識に微笑んでいたらしい。
「何もいっていないが……まあわかったならいい」
「ふぅ……そろそろ透子さんの注意にも慣れてきたよ」
羽喰は無線機の前に座った。
「この部屋は、島内のどこかと繋がってた。白瀬側か、別の連中かはまだわからねぇ。だが、通信ログが残っていりゃ、少しは事情が見える」
「電源は生きているのか」
透子が聞く。
「予備系統が生きてる。誰かが動かしてる証拠だ」
羽喰はスイッチを入れた。
最初は何も起こらなかったが、それから少しして部屋の隅で低い唸りが始まる。配電盤の小さなランプが、ひとつ、またひとつと点いた。
無線機から雑音が漏れる。
ざ、ざざ、ざざざ。
海の音に似ていた。いや、海そのもののようだった。
水の底で、誰かが砂を噛んで喋っているような音。
永美は顔を近づけた。
「海の中で誰かが喋っているみたいだ」
羽喰がダイヤルを回す。雑音の波が変わる。
ざざ。ざ。ざざざざ。
その奥に、声が混じった。
『……こちら……北東……応答……』
全員が動きを止めた。羽喰の顔色が変わる。
「生きてる通信だと……?」
透子が無線機へ近づく。
「北東と言ったな」
羽喰はマイクを掴んだ。
「こちら岩羽島側。所属と状況を言え」
雑音。返事はない。
ただ、遠くで歌のようなものが聞こえる。
女の声にも、子供の声にも聞こえた。言葉はわからない。けれど、旋律だけが耳に残る。美しいというより、懐かしい。懐かしいというより、忘れていたくなる。
永美は息を呑んだ。この歌を知っている気がした。
いや、知っているのではない。
知っていたことにされそうになる。
透子が永美の肩を掴んだ。
「聞きすぎるな」
「……ああ」
羽喰がもう一度言う。
「こちら岩羽島側。聞こえるなら答えろ。北東の何だ。施設名を言え」
雑音の奥で、男の声がした。
『……予定外……宿泊者が……浜へ……』
透子の目が鋭くなる。
「宿泊者?」
『止められない……皆、白い方へ……』
声は切れ切れだった。だが、確かに人間の声だ。
羽喰の手に力が入る。
「誰だ。名前を言え」
『……開けるな……』
「何をだ!」
『……北東を……開けるな……』
永美は無線機の奥に、別の声を聞いた。
見つけた。まただ。
今度も、哀川の声に似ていた。
いや、似ているのではない。
それは哀川そのものの声だった。
「哀川……?」
永美が呟いた瞬間、通信室の古いプリンターが動き出した。
ぎぎぎ、と紙を噛む音。
全員が振り返る。
黄ばんだ紙が一枚、ゆっくり吐き出されていく。
羽喰がそれを引き抜いた。印字された文字は、かすれていたが、読むことができた。
――本日一二〇〇、旧北東区画を開放。
――百年浜、第二接触段階へ移行。
――対象:宿泊者全員。
透子が時計を見る。
「正午まで、あとどれくらいだ」
羽喰の顔が強張った。
「一時間もねぇ」
その時、通信機の向こうから、はっきりとした声がした。
『永美至を、浜へ連れてこい』
それは、紛れもなく哀川の声だった。
通信室から聞こえたのはまさかの旧友の声だった—




