正午の呼び声
哀川の声、謎の記録、島の謎は深まる。
『永美至を、浜へ連れてこい』
それは、紛れもなく哀川の声だった。
通信室の空気が凍った。
古い無線機のランプが、赤く瞬いている。雑音はまだ続いていた。ざざ、ざざざ、と海の底で砂を擦るような音。その奥に、哀川の声が沈んでいる。
永美は、しばらく動けなかった。
浜で聞いた声に、扉が閉まる直前に聞こえた声。
そして今、無線機の向こうから聞こえた声。
偶然で片づけるには、三度は多い。
「これも……哀川だ」
永美は言った。
「今のは哀川の声だ」
透子は無線機を睨んだまま言う。
「本人とは限らない」
「わかっている」
「わかっている顔じゃない」
「そうかな。私は今、かなり理性的だと思うが」
「お前の理性は信用できない。特に、何にでも感性で飛びつくやつにはな」
「まったく……ひどいな」
羽喰はマイクを握ったまま、無線機へ向かって怒鳴った。
「誰だ! てめぇ、今どこにいる!」
返事は雑音だった。
ざざ。
ざざざ。
その隙間から、また声が漏れる。
『……来るな……』
今度は小さかった。だが、永美には聞こえた。
『……浜へ……来るな……』
透子が永美を見る。
「今のも哀川か」
「そうだね」
「内容が矛盾している」
「連れてこい、と、来るな」
永美は口元に手を当てた。
「誰かが哀川の声を使っているのか。あるいは、哀川本人が何かに邪魔されながら喋っているのか……」
「前者だと思え」
透子が言った。
「変に希望を持つな。持てば引っ張られる」
永美は少し笑った。
「よく見ている」
「見るなと言っても目につく」
羽喰は無線機のダイヤルを動かした。
「クソッ……周波数が固定されねぇ。向こうから割り込んできてやがる」
「割り込み?」
透子が聞く。
「ああ。こっちが拾ったんじゃねぇ。向こうがこの部屋を鳴らしてる」
「この通信室の存在を知っている相手か」
「白瀬か、北東の連中か、あるいは島そのものか。どれでも最悪だ」
永美は机の上の印字紙を見た。
――本日一二〇〇、旧北東区画を開放。
――百年浜、第二接触段階へ移行。
――対象:宿泊者全員。
「正午に、何かが開くと……」
「開けさせねぇために調べに来たんだよ」
羽喰はファイル棚を開け、乱暴に書類を引き抜いた。
「北東区画……北東区画……どこだ、クソッ」
紙束が机に散る。
古い図面。消えた日付。黒塗りされた報告書。島の海岸線を示す測量図。どれもところどころ塗り潰されていて、肝心な箇所が読めない。
透子が一枚を拾う。
「黒塗りがあまりにも多すぎる」
「だから言ったろ。書類の汚れだ」
「汚れというより、ほとんど墨だ」
「国が本気で隠す時は、だいたい墨壺をひっくり返したみてぇになる」
羽喰は舌打ちをした。
永美は別のファイルに手を伸ばした。
背表紙に、古いラベルが貼られている。
宿泊者照合。
「羽喰さん、これは?」
「おい、不用意に触るな」
「あっ……すまないね。もう触っている」
「ったく……触るなって言っただろうが」
「言われる前から触っていた」
「面倒くせぇな! てめぇは!」
羽喰が奪い取ろうとした瞬間、永美は中身を見た。
紙面には、今回の宿泊者名が並んでいた。
佐伯。皆川。永美至。
鴉宮透子の名前はない。
代わりに、永美の名前の横に、赤い線でこう書かれていた。
同伴者一名、未登録。
「ほう」
永美は感心した。
「我々の恋が未登録扱いになっている」
「おい。もう一度その話題を擦ったら掌底をお前の顎にかますぞ」
透子が即座に言った。
羽喰は書類を奪い、目を走らせる。そして表情を変えた。
「待て……これは白瀬側の宿泊台帳じゃねぇ」
「どう違う」
「書式が違う。役所の内部資料に近い」
「つまり」
永美が言う。
「我々は、カルトだけでなく、もっと事務的な誰かにも把握されている」
「そういうこった」
羽喰はページをめくった。
佐伯の欄には、こうあった。
願望傾向:若返り。
誘導素材:浜菓子。
接触痕:有。
進行:初期。
皆川の欄。
願望傾向:妹の保護。
誘導素材:音声・映像。
接触痕:未確認。
進行:誘導中。
透子が低く言った。
「人を分類している」
「願いでな」
永美は自分の欄を見た。
願望傾向:観測。
誘導素材:美的物体、あるいは事象
接触痕:未確認。
進行:要監視。
彼は、しばらく黙った。
透子が横から覗き込む。
「観測」
「私らしいね」
「事実そうだろう?」
「いや、少し傷ついている。私の願望があまりにも職業的に処理されているのでね……」
「そこなのか……」
「美、と書かれているのは少し納得がいくが」
羽喰は最後の行を見て、顔を強張らせた。
「おい」
「何だい」
「これを見ろ」
書類の下部。
赤い文字で、追加欄があった。
誘導優先順位。
一、永美至。
二、皆川。
三、佐伯。
透子の目が細くなる。
「永美が一番?」
「そう書いてある」
永美は眉を上げた。
「なんと……! 私が主賓だったとは。よくわかっているじゃないか。主催はセンスがあるね」
「冗談はそこまでにしろ」
透子の声が冷たくなる。
「けど、なぜ永美が一番なんだ」
「さぁ……知らねぇよ」
羽喰は苛立ったようにページをめくる。
「俺の資料には、あんたの名前なんざ出てこなかった。哀川絡みで偶然乗り込んできた作家。俺はそう見てた。だが、こっちは最初からてめぇを見てる」
「最初から……」
永美は呟いた。
その瞬間、無線機がまた鳴った。
『……最初から……』
三人が振り返る。
『……見ていた……』
今度の声は哀川ではなかった。白瀬でもない。
女の声だった。
若いようにも、年老いているようにも聞こえる。海の向こうからではなく、耳の内側から話しかけられているような声。
羽喰がマイクを叩く。
「てめぇ、誰だ!」
『……百年は……長かった……』
無線機の雑音の奥で、歌が強くなった。
通信室の蛍光灯がちらつく。
壁一面の配電盤のランプが、一斉に点いた。
赤。緑。黄色。
使われていないはずの回線が、眠りから起きるように光り始める。
透子が扉へ目を向けた。
「羽喰」
「何だ」
「この部屋、外から閉められるか」
羽喰は一瞬黙った。
「……閉められる」
その直後、鉄扉の向こうで音がした。
がちゃん。重い鍵が落ちる音。
透子が扉へ走り、ノブを回すが開かない。
「閉じ込められた」
「クソッ!」
羽喰が扉へ向かおうとする。
その時、プリンターが再び動き出した。
ぎぎぎぎぎ。
先ほどよりも速い。
黄ばんだ紙が次々と吐き出される。
永美は一枚を拾った。
そこには、同じ文章が何度も印字されていた。
――誘導開始。
――誘導開始。
――誘導開始。
そして最後の一枚にだけ、違う文字があった。
――餌:哀川。
――対象:永美至。
――搬送先:旧北東区画。
永美の指が止まった。
通信機の向こうから、哀川の声がした。
『永美』
今度は、はっきりしていた。
『来るな。俺は、もう——』
声が途切れた。
代わりに、別の声が重なる。
女の声。
歌うような、笑うような、濡れた声。
『正午に、迎えにまいります』
通信室の床下で、水音がした。
ぴちゃん。ぴちゃん。
見ると、コンクリートの隙間から、透明な海水が滲み出していた。
その水の中に、白い指が一本、ゆっくりと浮かび上がった。
謎の声—永美となんの関係があるのか?




