水底の通信室
水の中に、白い指が浮かび上がった。
一本。
細く、長く、まるで水に漬けた蝋燭のような指だった。通信室の床に滲み出した海水の中で、それはゆっくりと曲がった。
こちらへ手招きするように。
「下がれ」
透子が低い声で言った。
指は水面を破り、さらに伸びた。手首。腕。白い皮膚には、血管の代わりに青い筋のようなものが走っている。
羽喰が舌打ちした。
「地下まで来やがったか」
「これは浜のものか」
透子が訊く。
「知らねぇよ。俺の捜査資料に、床から手が生える項目はねぇ」
「役に立たない資料だな」
「俺も今そう思ってる!」
白い手が、床に散らばった印字紙を掴んだ。
餌:哀川。
対象:永美至。
搬送先:旧北東区画。
その紙を、手は水の中へ引きずり込もうとする。
永美は思わず身を乗り出した。
「待て、それは証拠だ」
「行くな!」
透子が永美の襟を掴む。その瞬間、水面が揺れた。
白い手が、永美の足元へ伸びる。
透子は永美を後ろへ突き飛ばし、机の上にあった鉄製の灰皿を掴んだ。次の瞬間、それを白い手の甲へ叩きつける。
湿った音が鳴る。骨が折れる音ではなかった。
それは水を詰めた袋を殴ったような音だった。
白い手は一瞬だけ潰れ、それから何事もなかったように形を戻した。
「物理攻撃が効かない……!」
透子が言う。
水が増えている。床の隙間から、細く、しかし確実に海水が滲み出している。最初は小さな水溜まりだったものが、もう靴底を濡らすほどに広がっていた。
無線機から、また哀川の声がした。
『永美……聞くな……』
永美は無線機を見た。哀川の声は弱っている。
だが、確かにそこにいる。
『俺の声で……呼ばれても……』
雑音の中に微かに歌が聴こえる。女の声——
『見つけたものを……信じるな……』
「哀川!」
永美が叫ぶ。
透子が即座に肩を掴む。
「返事をするな」
「これは通信だ」
「この島では、通信でも返事は危険だ」
羽喰が無線機へ近づき、マイクを握った。
「哀川! 聞こえるなら一回だけ答えろ! 北東区画にいるのか!」
透子が睨む。
「行ったそばから……」
「俺は仕事だ」
羽喰は無線機に向かって続けた。
「てめぇが本人なら、俺にしかわからねぇことを言え! 哀川、作家先生に何を渡した!」
雑音の後沈黙——
それから、かすれた声が聞こえた。
『……資料……黒い封筒……』
永美の表情が変わった。
透子もそれに気づく。
「本物か」
「少なくとも、哀川はそれを知っている」
永美は言った。
『永美……北東へ来るな……』
声は震えていた。
『そこは……人魚の場所じゃない……』
羽喰の目が細くなる。
「何だと?」
『……人間が……開けた……』
ぷつり、と声が切れた。無線機からは、女の歌だけが聞こえる。
永美はその言葉を胸の中で繰り返した。
人魚の場所ではない。人間が開けた……?
民俗でも、伝説でも、カルトでもない。人間が。
それが一番、嫌な響きだった。
透子が扉を蹴った。しかし鉄扉はびくともしない。
「外から施錠されてる」
「だから言ったろ」
羽喰が工具を取り出す。
「どけ。こじ開ける」
「どれくらいかかる」
「水が膝まで来る前には何とかしてぇな」
「来た後は?」
「泳げ」
「冗談が下手だ」
「本気だから困ってんだよ」
羽喰が鍵穴に工具を差し込む。
水は足首を覆い始めていた。
冷たい——。ただの水ではない。
永美は靴の中へ染み込む感触に、顔をしかめた。海水の冷たさの中に、何か柔らかいものが混じっている。皮膚ではない。藻でもない。だが、生き物の内側に足を入れているような、不快な温度があった。
その時、棚の奥で音がした。
かたり。
三人が一斉に振り向く。
ファイル棚の下段。古い段ボール箱の陰に、小さな換気口があった。鉄格子がはまっているが、螺子は錆びている。
透子がそこへ近づき、膝をつく。
「通れるか」
「お前ならな」
羽喰が鍵穴をいじりながら言う。
「俺無理だ。作家先生も……ぎりぎり無理そうだな」
「なら扉を開けろ」
「やってる!」
白い手は増えていた。
床の水面から、指が三本、五本、十本と出てくる。まだ腕にはならない。だが、床に落ちた書類を撫で、椅子の脚に絡み、永美の影へ向かって伸びてくる。
その動きは、魚の群れに似ていた。
透子が机を蹴り倒した。
机が水を裂き、白い指をまとめて押し潰す。
「時間稼ぎだ。長くは持たない」
「十分だ」
羽喰の工具が、鍵穴の中で何かを捉えた。
かちり。小さな音が鳴る。
「開いたか」
「まだだ。外鍵がもう一枚ある。誰だよ、こんな面倒な扉にした奴は」
「隠し事が好きな人間だろうね」
「知ってる」
永美は足元の水を避けながら、机の上に散った紙を拾った。古い手書きのメモだ。
字は震えている。
――百年送りは、海へ返す儀である。
――聖餐会は、海より奪う儀である。
――北東を開けるな。あそこは、返せなかったものの溜まる場所。
「返せなかったもの」
永美が呟く。
「何だ」
透子が見る。
「ギンさんの側の資料かもしれない」
「貸せ」
透子が紙を取ろうとした瞬間、床下から伸びた白い手が、永美の足首を掴んだ。
その手は、永美の皮膚を通して中へ入ってくるようだった。
哀川の声が聞こえる——。
『永美』
今度は耳ではない。骨の中で聞こえた。
『こっちだ』
永美の視界が白く染まる。百年浜が見えた。
その向こうに、哀川が立っている。
濡れた服。青ざめた顔。だが、笑っている。
『見たいだろ』
哀川が言った。
『お前なら、最後まで見届けるだろ』
「……それは——」
永美は息を吸った。
次の瞬間、透子の踵が白い手を踏み潰した。
永美の足首から、白い指が離れた。
「行くなと言った」
透子の声が、怒っていた。
「今度は蹴りか」
「蹴られたいのか」
「いや、助かったよ」
透子は一瞬だけ黙った。
「……ならいい」
羽喰が叫んだ。
「開くぞ!」
重い音を立てて、鉄扉が少し開いた。
だが、外側の廊下からも水が流れ込んできた。
「外も浸水してる」
透子が言う。
「上へ戻るぞ」
「待て」
永美は手書きのメモを掴んだ。
羽喰が怒鳴る。
「紙なんざ後にしろ!」
「これは後にできない紙だ」
「てめぇは本当に面倒な——」
その時、通信室の奥で、無線機が最後に一度だけ鳴った。
『正午まで、あと四十五分』
女の声だった。
『旧北東区画を、開きます』
羽喰が扉をこじ開け、透子が永美を押し出す。
三人は水の溢れる通信室を出た。
地下廊下は、さきほどよりも深い水に覆われていた。足首から脛へ。海水はじわじわと上がっている。
その水の中に、何かが流れてきた。
白い布かと思われたが、そうではなく、古い喪服の袖だった。
廊下の先に、黒い雨合羽に杖をついた人影が立っていた。そして白く結われた髪。
ギンだった。
彼女は水に濡れていなかった。
足元まで海水が来ているのに、合羽の裾にも、草履にも、水の跡がない。
ギンは永美の手にあるメモを見た。
そして、しわがれた声で言った。
「読んだか」
永美は頷いた。
「北東とは、何ですか」
ギンの目が、暗く沈んだ。
「墓じゃ」
「墓?」
「人が海から盗んだものと、海へ返せんかったものを、まとめて押し込めた場所じゃ」
羽喰が一歩前へ出る。
「婆さん、知ってることを話せ。正午に何が起きる」
ギンは羽喰を見た。
「口の利き方が悪い男じゃの」
「今は作法の話をしてる場合じゃねぇ」
「作法を忘れたから、この島はこうなった」
ギンは杖で床を一度叩いた。
水面が揺れる。白い指たちが、一瞬だけ引っ込んだ。
「白瀬は聖餐を開く気じゃ。浜を開き、北東も開く。そうなれば、客だけでは済まん」
「何が出る」
透子が訊く。しかしギンは答えなかった。
代わりに、永美を見た。
「小説家」
「はい」
「お前は見る者じゃな」
「よく言われます」
「なら、見るな」
永美は目を細めた。
「それは難しい注文ですね」
「見れば、あちらもお前を見る」
ギンは静かに言った。
「さっきから、向こうはお前を呼んどる。哀川の声で。美しいものの顔で。見たいものの形で」
「なぜ私を?」
「お前が、いちばん腹を空かせとるからじゃ」
永美は黙った。
透子がギンを睨む。
「永美を脅しているのか」
「止めとる」
ギンは短く言った。
「だが、もう遅いかもしれん」
その時、地下の奥から鐘の音がした。
ホテルのものではない。海の底から、鉄を叩くような音。
ギンの顔が変わった。
「早い」
羽喰が時計を見る。
「まだ正午じゃねぇぞ」
ギンは杖を握り直した。
「白瀬め、待つ気がない」
地下廊下の水面に、光が走った。
北東の方角から、白い線が一本、暗い水の中をこちらへ伸びてくる。
それは道のような、あるいは、舌のようだった。
無線機はもう遠い。だが、声だけが聞こえた。
『永美至』
哀川の声。そして、その下に重なる女の声。
『迎えに来ました』
地下廊下の水が、永美の足元だけを避けるように左右へ割れた。
まるで、彼のために道を開くように。




