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返す道

地下廊下の水面に、光が走った。


 海そのものが道を作った、というより、古い非常灯が水に反射したような光だった。


 だが不自然だった。


 非常灯はもう死んでいる。天井の配線も、とうの昔に腐っているはずだった。それなのに、北東の方角だけが、細く白く明滅していた。


 まるで、誰かが古い誘導灯を点けたように。

 羽喰が顔をしかめる。


「北東区画の非常系統が生きてやがる……?」


「誰かが起動したのか」


 透子が言う。

 その時、地下廊下の奥からそこから、生臭い匂いが流れてきた。


 海の匂いではない。腐った魚とも違う。薬品と消毒液と、長く閉じ込められていた肉の匂いが混じっていた。

 永美は思わず眉をひそめる。


「これは……浜の匂いじゃないね」


 羽喰が低く言う。


「ああ。おそらく施設の匂いだ」


「……施設?」


「俺が追ってる書類の中に、似たような表現があった。北東区画。廃棄物処理。検体保管。隔離。……そういう、胸糞悪い単語が並んでた」


 ギンが羽喰を睨む。


「それ以上、ここで口にするな」


「婆さん、あんたは知ってるな」


「知りたくて知ったわけじゃない」


 ギンは短く言った。


「北東は、墓じゃ」


「墓?」


 永美が訊く。


「人が海から盗んだものと、海へ返せんかったものを、まとめて押し込めた場所じゃ」


「民俗の墓か。それとも、施設の廃棄場か」


 羽喰が言う。


 ギンは答えなかった。


 その沈黙が、どちらでもある、と言っているようだった。


「百年送りは、本来、海へ返す儀じゃった」


 ギンは杖で床を一度叩いた。


「流れ着いたもの、死んだもの、人が持っていてはいけないものを、作法に従って返す。そうすれば、島は保たれた」


「聖餐会は逆か」


 透子が言う。


「そうじゃ。白瀬どもは、返す代わりに食う。拝むふりをして奪う。願いを餌にして、肉を引き上げる」


「だから昨夜、あれを葬式と言ったんですね」


 永美が言う。


 ギンは永美を見た。


「葬式を祝宴に変えれば、死者は帰る場所を失う」


 その時、廊下の古いスピーカーが鳴った。

 砂を噛んだような雑音ののち、それから、かすれた男の声。また哀川の声だった。

 羽喰が天井のスピーカーを睨む。


「録音か、生声か」


「どちらでも罠だ」


 透子が言う。


 スピーカーの向こうで、哀川の声が途切れる。

 代わりに、別の音が混じった。湿った呼吸。


 喉の奥で水が泡立つような音。

 そして、何かが廊下の奥で這う音。


 ぺたり。ぺたり。


 永美は目を細めた。

 暗い通路の先に、人影が立っている。濡れた服。

 青ざめた顔。眼鏡の奥で疲れたように笑う目。


 ——哀川だった。


 その姿を見た瞬間、永美の胸の奥で、昔の部室の匂いがした。


 大学の文芸サークル。古びた学生会館の三階。


 夏は蒸し暑く、冬は暖房が効きすぎる部屋だった。安い折り畳み机の上に、コンビニのコーヒーと赤ペンと、誰にも読まれない原稿が積まれていた。


 永美至と哀川は、そこで出会った。

 どちらも作家になりたがっていた。


 どちらも、自分には世界を文章で切り取る資格があると思っていた。


 ただし、切り取り方はまるで違った。


 哀川は、人の弱さを書く男だった。


 駅前で泣いている女。終電を逃した会社員。父親の葬式で笑ってしまう息子。そういう、誰もわざわざ見ない日常のひび割れを拾い、そこに静かな物語を置いた。


 一方、永美は美を書いた。


 美しいもの。


 壊れるもの。


 腐るもの。


 誰かが目を背けた瞬間だけ、ひどく輝くもの。

 哀川は、永美の原稿を読むたびに眉をひそめた。


『お前ね、救う気ないだろ』


 そう言って、赤ペンで原稿の端に大きく丸をつけた。


『でも、最後まで見てるのはいい。お前は酷いけど、見捨ててはいない』


 永美は笑った。


『それは褒めているのかい』


『半分だけな』


『残り半分は?』


『人として心配してる』


 それが、二人の関係だった。


 褒め、けなし、読み合い、書き直し、投稿し、落選し、また書いた。


 誰も読まない小説を、二人だけが真剣に読んでいた。


 だから今、目の前の哀川が笑うと、永美は動けなかった。


 透子が永美の前へ出る。


「動くな」


 羽喰が銃を抜いた。


「そいつは本物じゃねぇ」


 哀川は、穏やかに笑った。


「そうとも言える」


 ギンの顔が強張る。


「喋るな」


 哀川が笑う。


「そうとも言えない」


 その声は、あまりにも自然だった。


「ひどいな、永美」


 哀川は言った。


「迎えに来た友人を、そんな目で見るのか」


 大学を出る前の春、哀川は一度だけ永美に言ったことがある。


『俺たち、どっちかは作家になれると思うか』


 卒業式の数日前だった。


 夜の大学構内。文学部棟の前。誰かが置き忘れた花束が、ベンチの下で少し萎れていた。


 永美は缶コーヒーを片手に答えた。


『どちらかでは困る。両方だ』


『強欲だな』


『創作志望者は、だいたい自分だけが選ばれると思っている。私はその点、君も選ばれていいと思っている。かなり寛大だ』


 哀川は笑った。


『お前の友情はいつも上なんだよな』


 それから哀川は、少し真面目な顔をした。


『俺が先に折れたら、お前は書けよ』


『不吉なことを言うなよ。生きてないと書くものも書けなくなってしまうだろ』


『約束しとこうぜ。どっちかが見たものを、どっちかが書く。そうすれば、完全には負けない』


 永美は、その時は笑って受け流した。

 だが、覚えていた。哀川も、きっと覚えている。

 目の前の哀川が、その記憶を使っている。


 それが本人だからなのか。本人ではない何かが、哀川の声と顔と記憶を使っているからなのか。永美には、まだわからなかった。


「永美」


 透子の声が鋭くなる。


「目が遠い」


「昔を思い出していた」


「今じゃない」

 

「努力する」


 哀川の背後で、古い隔壁が軋んだ。重い鉄が動く音。

 白く点滅する誘導灯が、通路の奥を照らす。


 そこに、文字が浮かんだ。


 旧北東区画。立入禁止。検体搬送路。


 羽喰が息を呑む。


「検体……?」


 ギンが、低く言った。


「見るなと言った」


 だが永美は見てしまった。


 哀川の足元。暗闇の中で、彼の影が妙に長い。

 脚ではない。何か濡れたものを、床に引きずっている。


 その輪郭は、人魚の尾に似ていた。だがそれは美しいものではなかった。魚の尾というより、失敗した肉の塊だった。


 哀川は微笑んだまま、片手を差し出した。


「来いよ、永美」


 その声は大学時代のままだった。


「お前なら、最後まで見届けるだろ」


 透子が短く言った。


「撃て」


 羽喰が引き金に指をかける。

 その瞬間、天井のスピーカーから、別の声が響いた。


『搬送対象、永美至を確認』


 機械音声だった。古く、ざらつき、どこか英語の発音を無理に日本語へ直したような不自然な声。


『旧北東区画、受け入れ準備完了』


 ギンの顔が青ざめた。

 羽喰が叫ぶ。


「下がれ!」


 哀川の背後の隔壁が、さらに開く。

 中から流れ出してきたのは、海水ではなかった。

 冷たい保存液の匂いだった。


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