M-0
それは潮ではなく、海藻でも、腐った魚でもない。
冷たい保存液の匂いだった。
もっと人工的で、もっと乾いた匂いだ。消毒液、金属、古い薬品、そして長い時間をかけて密閉されていた肉の気配。
隔壁の向こうから、白濁した液体が床を伝って流れ出す。
永美は思わず半歩下がった。
「これは……水ではないね」
「保存液だ」
羽喰が低く言った。
「資料にあった。北東区画には、廃液処理系統がある」
「保存液?」
透子が聞き返す。
「何を保存していた」
「それがわかりゃ苦労してねぇ」
羽喰は銃口を哀川へ向けたまま、奥歯を噛んだ。
「ただ、人間を保存する設備じゃねぇことを祈ってた」
「祈りは外れたようじゃな」
ギンが呟いた。
哀川は笑っていた。その笑顔は、学生時代の彼と同じだったが、違和感があった。唇の動きが、声よりもほんの少し遅れている。
まるで、誰かが哀川の顔に、哀川の声を貼りつけているようだった。
「永美」
哀川が言う。
「来いよ。俺たちの続きを書くんだろ」
永美の胸が、嫌なふうに疼いた。「俺たちの続きを書く。」それもまた、哀川なら言いそうな言葉だった。
大学の頃、落選通知が届くたび、哀川は言った。
『続きだな』
『何の?』
『負けた話の続き』
そう言って、新しい原稿用紙を開いた。
永美は、その言い方が好きだった。
落選も、失敗も、屈辱も、終わりではない。ただ次の話の一部になる。二人はそう信じていた。信じなければ、書き続けられなかった。
だから、今その言葉を使われるのは、ひどく腹が立った。
「哀川」
永美は哀川を見た。
「君は本当に、哀川か」
哀川は笑った。
「そうとも言える」
「その返しは、非常に君らしくない」
永美は静かに言った。
「哀川はもっと、面倒な言い方をする。自分が本物か偽物か訊かれたら、彼はきっとこう言う。『本物って、誰が決めるんだ』とね」
哀川の笑顔が、少しだけ止まった。
透子がその一瞬を見逃さなかった。
「羽喰」
「わかってる」
羽喰が撃った。銃声が狭い通路に跳ね返る。弾丸は哀川の肩を撃ち抜いた。しかしその肩から血が出ることはなかった。代わりに濁った保存液のようなものが、裂け目から飛び散った。
哀川の体がよろめく。
その瞬間、下半身を引きずっていた肉の塊が、床に強く叩きつけられた。ぬめった音がする。魚の尾ではない。筋肉と皮膜と鱗の失敗作。人の体が、別の形へ無理に進まされた末路だった。
透子が顔を歪める。
「人魚なんて綺麗なものじゃないな」
「そうじゃ」
ギンが言った。
「あれを人魚と呼んだのは、人がその方が耐えられたからじゃ」
哀川の顔をしたものが、笑った。撃たれた肩を押さえることもない。
代わりに、天井のスピーカーから機械音声が響いた。
『対象、抵抗を確認』
『搬送手順を変更』
『隔離扉、閉鎖』
背後で鉄扉が動く音がした。来た道が閉ざされる。
羽喰が振り返り、舌打ちした。
「挟まれたぞ」
「前に進むしかないのか」
透子が言う。
「その言い方は嫌いじゃない」
永美が呟く。
哀川の顔をしたものは、片腕を伸ばした。
「永美。見ろよ」
その声は、また哀川だった。
「これが、俺たちが書けなかったものだ」
隔壁の向こうで、照明が一つずつ点いた。白い光が眩い。古い施設灯だ。
通路の奥に、壁一面のガラス窓が見えた。いや、窓ではない。厚い観察用の強化ガラスだ。
その向こうに、何かが並んでいる、円筒形の槽。
それは濁った液体で満たされた背の高い保存容器だった。中には人影のようなものが、いくつも浮かんでいる。
小さいもの。大きいもの。人の形を保っているもの。そうでないもの。永美は息を止めた。
美しさとはかけ離れたもの——
それは、美に向かうことも許されぬ失敗の重なりだった。
羽喰が低く言う。
「……北東区画」
透子が彼を見る。
「ここが、お前の追っていたものか」
「一部だ」
羽喰の声は硬かった。
「俺が知ってるのは、書類の穴だけだ。こんなもんが実在するなんざ……」
言葉が途切れた。
ギンは観察窓を見なかった。ただ、杖を握る手に力を込めていた。
「だから墓だと言うた」
通路の壁に、古いプレートがあった。黒ずみ、錆び、半分剥がれている。だが、文字は読めた。
旧北東生体試料保管区画。
その下に、英語の文字が並んでいる。
永美には一部しか読めなかった。
BIOLOGICAL SAMPLE STORAGE.
そして、さらに下。かすれた赤い文字。
M-0。
羽喰がその文字を見た瞬間、顔色を変えた。
「M……?」
「知っているのか」
透子が問う。
「資料で見た。何度も黒塗りにされてた記号だ」
「意味は」
「わからねぇ」
羽喰は唇を噛んだ。
「だが、この島の隠蔽はそこに繋がってる」
哀川の顔をしたものが、ゆっくりと後退する。
撃ち抜かれた肩から、保存液が滴っている。
「永美」
声がまた変わった。今度は、ほんの少しだけ本物に近かった。
「見るな」
その一言に、永美は動きを止めた。
哀川なら言う。
さっきまでの「見届けろ」より、ずっと哀川らしい。
その時、観察窓の向こうで、ひとつの保存槽に灯りが点いた。濁った液体の中で、影が揺れる。人の上半身。
鱗に覆われた腕。開いたままの口。そして、胸元に取り付けられた古い金属プレート。
そこには、手書きの文字で名前が記されていた。
哀川。
永美の呼吸が止まった。通路に立っている哀川。保存槽の中に浮かぶ哀川。
二人の哀川が、同時に永美を見ていた。
天井のスピーカーが、ざらついた音で告げる。
『搬送対象、永美至』
『適合試験を開始します』
床のレールが動いた。
古い搬送台が、暗闇の奥からゆっくりと滑り出してくる。その上には、濡れた拘束具が四つ、開いたまま待っていた。




