観測者適性
床のレールが動いた。
古い搬送台が、暗闇の奥からゆっくりと滑り出してくる。
その上には、濡れた拘束具が四つ、開いたまま待っていた。人を寝かせ、固定し、どこかへ運ぶための台だった。
透子が一瞬で永美の襟を掴み、後ろへ引いた。
「下がれ」
「流石の私もそういう趣味はないよ」
「御託はいいから足を止めるな」
羽喰がもう一発撃った。
弾丸は哀川の顔をしたものの胸に当たった。だが、やはり血は出ない。
破れた服の下から、白濁した保存液と、半透明の膜のようなものが覗いた。皮膚ではない。人間の形を真似るために、あとから貼りつけたもののようだった。
哀川の顔が、少しずれた。ほんの数ミリ。
それだけで、永美の知る友人ではなくなった。
「……なるほど」
永美は低く言った。
「あれは、哀川ではない」
「やっとわかったか」
透子が言う。
「いや。わかりたくなかっただけだ」
哀川の顔をしたものは、撃たれても倒れなかった。
ただ首を傾げる。その動きは、人間というより、糸で吊られた肉の人形に近かった。
「永美」
声だけは、まだ哀川だった。
「見るんだろ」
永美の胸の奥が、また揺れる。
透子がそれを見て、短く言った。
「聞くな」
「声は卑怯だね」
「卑怯なものほど効く」
「その通りだ」
天井のスピーカーが、ざらついた音を立てた。
『搬送対象、永美至』
『生体接触前観測、開始』
『願望傾向、観測』
『誘導素材、美的物質』
『接触媒体、哀川』
羽喰が眉を寄せる。
「接触媒体……?」
永美はその言葉を反芻した。接触媒体。友人ではない。協力者でもない。餌ですらない。
媒体。
哀川との過去も、約束も、あの部室の匂いも、原稿を読み合った夜も、すべて施設の言葉に直せば、それだけになる。
「ずいぶん無粋な分類だ」
永美は言った。
「私は今、かなり腹を立てているらしい」
「それなら正常だ」
透子が言う。
「怒れ。見惚れるな」
搬送台がさらに近づいた。
床のレールは錆びついているはずなのに、動きは滑らかだった。誰かが、あるいは何かが、長い間使えるように手入れしていたのだ。
羽喰が搬送台の車輪を撃つ。
火花が散った。だが台は止まらない。
「クソッ、制御が別だ!」
「機械なら壊せるだろ」
透子が言う。
「どこをだよ!」
「全部だ」
「乱暴すぎんだろ!」
「止まればいい」
透子は壁際の消火器を掴んだ。古い赤い筒。
中身が残っているかどうかもわからない。
だが彼女は迷わず、安全ピンを抜き、搬送台の駆動部へ叩きつけた。金属が歪み、搬送台の動きが一瞬だけ鈍った。
「永美、走れ」
「どちらへ」
「前以外」
「選択肢が少ない」
「走れ!」
透子が叫ぶ。
永美は走った。
ギンが杖で横の細い通路を示す。
「こっちじゃ。観察窓の裏へ回る」
「裏?」
羽喰が問う。
「保管区画には、見せる側と見る側がある」
「嫌な構造だな」
「人間は、そういうものを作る」
四人は狭い脇道へ飛び込んだ。
壁はコンクリートではなく、白いタイルだった。古い病院のような白。ところどころ割れ、目地には黒ずんだ汚れが詰まっている。
天井の蛍光灯が、不規則に明滅していた。
通路の壁に、古い掲示が貼られている。
●検体に声をかけないこと。
●検体の名を呼ばないこと。
●変形後三時間以内の観測記録を優先すること。
羽喰がそれを見て、顔を歪めた。
「胸糞悪ぃ」
「作法に似ている」
永美が呟く。
「海へ返すものは、名を呼ぶな。口を開くな。振り返るな。あれと同じだ」
「違う」
ギンが言った。
「昔の作法は、戻れぬものを苦しませぬためじゃ。これは、苦しみを記録するための決まりじゃ」
その言葉に、永美は黙った。
通路の先に、小部屋があった。
観測準備室。
プレートにはそう書かれている。
羽喰が扉を蹴る。鍵は壊れていた。
中には机と椅子、古いモニター、棚に並んだファイルがあった。壁には、変色した写真が貼られている。
人間の顔写真に番号。年齢。投与量。
適合か、不適合か。
発狂と変形の経緯と推移。
そして……死亡。
透子が棚を見た瞬間、表情を消した。
「島民か」
ギンは答えなかった。ただ、目だけが怒っていた。
永美は一冊のファイルを開いた。
ページは湿気で波打っている。だが、文字は読めた。
外部観測者候補。
永美至。
生年、大学、所属していた文芸サークル、発表歴、落選歴、投稿作品の傾向。腐敗、死、変容、美的執着、異常対象への高耐性。
そこには、永美自身よりも冷たい永美が記録されていた。
「……これは」
永美は言葉を失った。
羽喰が横から覗き込み、眉を寄せる。
「てめぇの資料か」
「そのようだね」
「何でこんな場所にある」
「私が訊きたい」
透子がファイルを奪うように取った。
目を走らせる。
「外部観測者候補……異常対象への拒絶反応が低い。変異対象に対し、恐怖より先に美的意味づけを行う傾向」
透子の声が冷えていく。
「用途。変異進行時の認識安定化。観測記録。M-0接触候補」
羽喰が低く言った。
「M-0……」
「またそれか」
永美が言う。羽喰は答えない。
透子はさらに読み進める。
「誘導条件。美的刺激。未完の物語。友人哀川との創作上の約束」
そこで透子の手が止まった。
永美も、止まった。
部屋の蛍光灯がちらつく。遠くで、搬送台がレールを軋ませている音が聞こえた。
ギンが低く言う。
「だから言うた。お前は腹を空かせとる」
「不死が欲しいわけではありません」
永美は言った。
「わかっとる」
「若返りたいわけでもない。誰かを蘇らせたいわけでもない」
「だから危ない」
ギンは永美を見た。
「欲しいものが形のない者は、深くまで覗く。肉よりも、名よりも、命よりも、見ることを欲しがる」
「私は……」
永美は言いかけて、言葉を失った。否定できなかった。この島に来てから、何度も思った。
美しい、と。
恐ろしいものを前にして。壊れたものを前にして。人が変わる瞬間を前にして。それでも、自分は見たいと思ってしまった。
透子がファイルを閉じた。
「向いていることと、行っていいことは違う」
永美は彼女を見る。
透子の声は低かった。
「お前がこの島に向いているとしても、あいつらに使われていい理由にはならない」
「鴉宮さん」
「何だ」
「今のは、かなり救いのある言葉だった」
「感動するな。腹が立つ」
羽喰が机の引き出しを開けた。中から、黒い封筒が出てきた。永美の持っていたものと同じ形。
ただし、封筒の端には乾いた茶色い染みがあった。
「おい」
羽喰が言う。
「これ、哀川の字か」
永美は封筒を受け取った。表には一行だけ書かれていた。
永美へ。
筆跡は、哀川のものだった。封を切る。
中には、折り畳まれた原稿用紙が一枚入っていた。
手書きの文章きは震えた字が記されていた、だが、確かに哀川の字だった。
――永美。
――もしお前がここまで来てしまったなら、俺は失敗した。
――お前を呼びたかったんじゃない。逃がしたかった。
永美の指が止まる。
透子も、羽喰も、黙っていた。
永美は続きを読んだ。
――俺は資料の中に、お前の名前を見つけた。
――連中はお前を探していた。
――俺が島を調べたからお前に辿り着いたのか、それとも最初からお前に辿り着くために俺を泳がせたのか、もうわからない。
――でも、これだけは信じてくれ。
――俺は、お前を餌にするつもりはなかった。
紙の下に、もう一文あった。
――俺たちの約束を、向こうに使わせるな。
永美は、しばらく何も言えなかった。
哀川の顔をしたもの。保存槽の中の哀川。
スピーカーからの哀川の声。
そして、この手紙。どれが本物かではない——?
本物が、いくつにも切り分けられて使われている。
それが一番、耐えがたかった。
その時、小部屋のモニターが勝手に点いた。
古い映像が映る。白衣の男たちに囲まれ、金属の台に固定された誰か。それは哀川だった。拘束され、顔を上げている。
唇が動く。音はない。
だが、永美には読めた。
書くな——。
次の瞬間、スピーカーが鳴った。
『観測者候補、情動反応を確認』
『適性、上昇』
『搬送を再開します』
廊下の向こうで、搬送台が再び動き出した。
レールを軋ませる音が、暗い通路の奥からいくつも重なって近づいてくる。
透子がファイルを永美の胸に押しつけた。
「持て」
「いいのかい」
「見るなとは言わない」
彼女は拳を握った。
「だが、使われるな」
そして、扉の向こうに迫る搬送台を睨んだ。
「来るなら、まず私を運んでみろ」
その瞬間、観測準備室の天井から、拘束具のついたアームが落ちてきた。




