見ない者
拘束具のついたアームが、天井から落ちてきた。
速かった。
古い施設の機械とは思えないほど、迷いがない。関節部から錆びた粉を散らしながら、金属の腕はまっすぐ永美の肩を狙っていた。
透子が動く。
彼女は永美を突き飛ばし、自分の腕でアームを受けた。金属の拘束具が、透子の左腕に噛みつく。
「ちっ……!」
骨を折るほどではない。
だが、動きを封じるには十分だった。
透子は即座に身体を捻り、空いた右手でアームの関節部を掴む。力任せに引き剥がそうとするが、機械の腕はぎりぎりと音を立てて締まっていく。
「鴉宮さん!」
「来るな!」
透子が叫ぶ。
次の瞬間、二本目のアームが天井から降りた。
今度は永美の首を狙っている。羽喰が撃った。
銃弾がアームの根元に当たり、火花が散る。だが、完全には止まらない。鈍く揺れながらも、アームはなお永美へ向かってくる。
「クソッ、古いくせに頑丈だな!」
「軍用か?」
透子が歯を食いしばりながら言う。
「少なくともホテル用じゃねぇ!」
永美は後退した。
その背中が、観測準備室の机にぶつかる。
モニターがちらついた。砂嵐の中に、文字が浮かぶ。
――観測者候補、視線追跡中。
――情動反応、上昇。
――接触媒体、哀川。
――誘導継続。
永美は、その文字を読んだ瞬間、理解した。
「……視線追跡」
「何だ!」
羽喰が叫ぶ。
「私が見ているから進む」
「はあ!?」
「この部屋は私を“観測者”として扱っている。私の反応を読んでいる。見て、驚いて、意味づける。その度に、適性が上がる」
「なら見るんじゃない!」
透子が言った。単純で、正しい答えだった。
永美は目を閉じた。視界が消える。
その瞬間、天井から伸びていたアームの動きが、わずかに鈍った。羽喰が息を呑む。
「止まった……いや、遅くなった!」
「やはり」
永美は目を閉じたまま言った。
「この施設は、私の眼を使っている」
「気取った言い方をするな。目を閉じていろ」
透子が腕を拘束されたまま吐き捨てる。
「承知した。少々不本意だが」
ギンが杖を振り上げ、透子を掴んでいるアームの根元を指した。
「そこじゃ。根元に古い線がある」
羽喰が見る。
天井のレールの脇に、むき出しの配線が束になっている。色は褪せているが、そのうち一本だけが新しい絶縁テープで巻かれていた。
「最近直してやがる」
羽喰は銃をしまい、腰のナイフを抜いた。
「鴉宮透子、動くなよ」
羽喰が机に飛び乗り、配線へ手を伸ばす。
三本目のアームが、羽喰の胴を狙って伸びた。
永美は見えない。だが音でわかった。
金属が軋む音。水気を含んだ床を滑る音。誰かが息を呑む音。そして、透子の声。
「右!」
羽喰が身を伏せる。
アームが頭上を掠め、壁に叩きつけられた。
羽喰は舌打ちしながら配線を切った。
火花がちり、焦げた臭いが充満する。透子の左腕を掴んでいた拘束具が緩んだ。透子はその瞬間を逃さなかった。
腕を抜き、逆にアームを掴み、身体を回転させる。機械の関節が悲鳴のような音を立て、天井から半分もぎ取られた。
透子は壊れたアームを床へ叩きつけた。
「古い機械は嫌いだ」
「家具には勝てても機械には苦戦するんだね」
永美が目を閉じたまま言う。
「目は閉じても相変わらず減らず口だな」
「目と口は別器官だからね」
「ああそう、はいはい」
だが、その声にはわずかに安堵が混じっていた。
モニターがまた明滅する。永美は見ていない。
代わりに羽喰が読み上げた。
「視線喪失。観測値低下。補助誘導へ移行……って何だ、補助誘導って」
答えはすぐ来た。スピーカーから、哀川の声が流れる。
『永美』
永美は目を閉じたまま、息を止めた。
『目を開けろよ。見ないと書けないだろ』
その声は、あまりにも近かった。大学の部室で、原稿を読み合っていた夜。哀川はよくそう言った。
『目を逸らした文章は、だいたい嘘になる』
永美はその言葉が好きだった。好きだったから、今、それを使われるのが許せなかった。
「違うな」
永美は呟いた。
「何が違う」
透子が問う。
「哀川は、見ろとは言った。だが、見せ物にされろとは言わなかった」
スピーカーの声が乱れる。
『永美。俺たちの続きを——』
「黙れ」
永美の声は静かだった。
それでも、部屋の空気が変わった。
透子が少しだけ永美を見る。羽喰も、ギンも。
「私は見る。いずれ見る。最後まで見るかもしれない」
永美は目を閉じたまま言った。
「だが、お前たちの装置に見せられるものを、私の物語にはしない」
モニターが激しく点滅した。
羽喰が読み上げる。
「情動反応、変化。誘導失敗。観測者候補、拒絶傾向……おい、効いてるぞ」
「言葉で機械を殴るとはね」
永美は少し笑った。
「ちょっとは作家らしい。だろう?」
「腹立つが、少しな」
透子は壊したアームを蹴り、扉の方へ向かった。
「長居は危険だ。出る」
「どこへ」
羽喰が訊く。
「北東区画の奥だ」
「逃げるんじゃねぇのか」
「逃げ道は閉じられた。なら、制御している場所を潰す」
透子は振り返る。
「永美は目を閉じて歩け」
「それはなかなか難しいことを言うね……」
「私が引く」
「手を引いてくれるのかい」
「ひ、必要だからだ……!」
「嬉しいね」
「嬉しがるな! 転んだら置いていく」
ギンが床に落ちたファイルを拾った。
「これも持っていけ」
透子が受け取る。
「なぜ」
「この島で何が行われたか、書かれておる。民俗の言葉ではなく、人間どもの言葉でな」
羽喰がファイルを奪うように覗き込む。
表紙には、かすれた英字と日本語が並んでいた。
M系列接触試験。
外来性生体試料観測記録。
永美は目を閉じているため、見えない。
だが、羽喰の沈黙でわかった。
「何か嫌なものが書いてあるらしい」
「嫌なものしか書いてねぇ」
羽喰は低く言った。
「戦後の年号がある。昭和二十五年。米軍調査班。共同研究。島民サンプル……」
彼はそこで、ページをめくる手を止めた。
「……何だ、こりゃ」
「何が書いてある」
透子が訊く。
羽喰はファイルの文字を追った。
「採取記録。百年浜沖。黒色落下物。高熱反応。金属質外殻。内部に肉質組織……」
永美は目を閉じたまま眉を寄せた。
「落下物?」
「まだある」
羽喰の声が低くなる。
「一九五〇年八月。夜間、島北東沖に発光体落下。地元住民は流星と証言。三日後、浜に白色肉塊が漂着。腐敗なし。切断面再生。放射線量、自然値を逸脱……」
透子が息を呑む。
「人魚の肉の記録か」
「そう書いてあるわけじゃねぇ」
羽喰はページをさらにめくる。
「表記は……M-0。未分類外来性試料。大気圏外由来の可能性。生体反応あり」
ギンの杖が床を打った。
「……今は読むな」
「婆さん、これは何だ」
羽喰の声が荒くなる。
「人魚の肉じゃねぇのか。海から来たんじゃねぇのか」
ギンは答えなかった。
代わりに、硬い声で言った。
「島の者は、昔から浜に流れ着くものを海のものとして扱った。海から来たものは、海へ返す。それが作法じゃった」
「だが、こいつには空から落ちたと書いてある」
羽喰が言った。
その一言に、観測準備室の空気が沈んだ。
空。
永美は目を閉じたまま、その言葉を聞いた。
海の島に、空から落ちた肉。人魚の伝説に、流星の記録。民俗の衣を着せられた、別の何か。
「それはまだ、言葉にしない方がよさそうだね」
永美が言った。
「なぜだ」
透子が問う。
「言葉にした瞬間、物語の種類が変わる」
「今さらだろ」
「いや。これはかなり大きく変わる」
ギンは低く言った。
「昔の者は知らずに祀った。後から来た者は知って、切った。調べ、刻み、食わせ、閉じ込めた」
「後から来た者?」
羽喰が訊く。
「海の外から来た者どもじゃ」
ギンはそれ以上言わなかった。だが、羽喰の顔がわずかに変わった。
彼が追っていた書類の穴。消えた予算。存在しない工事。架空の研究施設。その奥に、今、別の古い影が重なったのだ。
「戦後、か」
羽喰が呟く。
「クソッ……だから記録があんな所から切れてやがるのか」
ギンが再び杖を打った。
「読めば足が止まる」
その声は鋭かった。
「そして、足を止めた者から運ばれる」
その言葉に、全員が黙った。
遠くから、またレールの音が聞こえてきた。
ぎぎ。ぎぎぎ。
搬送台が近づいている。一台ではない。いくつも。
観測準備室の外、暗い通路の奥から、濡れた拘束具を開いた搬送台が、ゆっくりと並んで来る。
透子は永美の手を引いた。
「行くぞ」
「了解した」
「目は」
「閉じている」
「口も閉じろ」
「それは約束できない」
「だろうな」
透子は扉を開け、通路へ出た。羽喰が後ろにつく。ギンが最後尾で杖を構える。永美は視界を閉ざしたまま歩いた。
不思議な感覚だった。
見たい。
見たくない。
見なければならない。
見るべきではない。
その四つが、胸の中で絡み合っている。手を引く透子の指の力だけが、今の彼にとって現実だった。
その時、通路の奥から、また哀川の声がした。
『永美』
永美は返事をしなかった。
『お前、変わったな』
それには少しだけ笑いそうになった。
「変わったとも」
永美は小さく呟いた。透子が即座に言う。
「返事をするな」
「独り言だ」
「同じだ」
スピーカーの音が乱れた。
そして、今度は哀川の声ではなく、機械音声が響いた。
『観測者候補、視覚入力を遮断』
『代替入力へ移行』
透子が足を止める。
「代替入力?」
次の瞬間、通路の両脇の保存槽が、一斉に内側から叩かれた。
どん。どん。どん。
ガラス越しに、何かが動いている。
羽喰がライトを向け、息を詰まらせた。
「こいつら……」
透子が言う。
「何が見える」
羽喰は答えなかった。
代わりに、ギンが低く呟いた。
「耳を塞げ」
だが遅かった。保存槽の中から、声が聞こえた。
ガラス越しに。液体越しに。何十もの声が、同時に。
『見て』
『書いて』
『助けて』
『返して』
その中に、哀川の声も混じっていた。永美の閉じた瞼の裏に、文字が浮かぶ。
見なくても、聞こえる。聞けば、想像してしまう。
想像すれば、彼は意味づけてしまう。
天井のスピーカーが告げた。
『観測反応、再上昇』
『適性、規定値到達』
『M-0接触試験、開始可能』
通路の突き当たりで、巨大な隔壁が開いた。
その向こうにあるものを、永美は見ていない。
だが、匂いだけでわかった。古い薬品。焼けた金属。
腐敗しない肉。
そして、夜空から剥がれ落ちた石のような冷たさ。
羽喰が、かすれた声で言った。
「……嘘だろ」
透子が問う。
「何がある」
羽喰はすぐには答えなかった。ライトの光が震えている。やがて、彼は低く言った。
「肉だ」
「肉?」
「巨大な、白い肉塊だ。ガラスの向こうに吊られてる。周りに計測器がある。放射線計、古い星図、落下軌道みてぇな図面……」
羽喰は息を呑んだ。
「おい、永美。目ぇ開けるなよ」
「開けないよ」
「絶対だぞ」
ギンが答えた。
「この島が、人魚と呼んできたものじゃ」
永美は、目を開けそうになった。
透子の手が、さらに強く彼の手首を握った。
「開けるな」
その声だけが、ぎりぎり永美をこちら側に留めていた。
しかし、スピーカーは無慈悲に告げた。
『M-0本体、覚醒兆候』
『観測者候補、接触位置へ誘導します』
床下でレールが切り替わる音がした。永美の足元だけが、静かに沈み始めた。




