幕間
さて、と八尾は言った。
「少しばかり、筋書きを整えておきましょう」
誰に聞かせているのかはわからない。
だが彼女の声は、まるで舞台の袖から客席へ届く口上のようだった。
「永美至様は、作家でございます。美しいもの、壊れたもの、腐りゆくもの、誰も見たがらないものを、どうしても見てしまう方でございます」
鍵束が、ちゃり、と鳴った。
「この島において、それは美徳であり、同時に危うさでもございました。なぜなら北東区画に残された古い装置は、“見る者”を必要としていたからでございます」
八尾は柱時計を見上げる。
針は正午に近づいている。
「羽喰様は書類の穴を追い、透子様は永美様の目を塞ぎ、ギン様は古い作法で道を開きました。そして彼らは、北東区画で見つけてしまったのでございます」
八尾の声が、わずかに低くなる。
「昭和二十五年。北東沖に落ちた発光体。焼けた黒い外殻。白い肉塊。星図。落下軌道。外来性生体試料。人魚の肉と呼ばれてきたものが、本当に海の底から来たものなのか――その疑いを」
そこで八尾は、唇に指を当てた。
「もっとも、すべてを語るにはまだ早うございます。物語には、幕の順番というものがございますから」
ロビーの床下から、低い振動が伝わった。
ホテルの地下。さらにその下。古い施設の奥で、何かが動き出す音。
八尾は、うっすらと微笑んだ。
「では、場面を戻しましょう。北東区画。M-0保管室前。観測者候補、永美至様の足元が、静かに沈み始めた、その瞬間へ」
◇
永美の足元だけが、静かに沈み始めた。
床が崩れたのではない。円形に切り取られた床板が、機械仕掛けで下がっている。
古い搬送用リフトだった。
「永美!」
透子が手首を掴んだまま踏み込む。
だが、床の沈下は止まらない。永美を乗せた円形の床は、重い金属音を立てながら通路の下へ降りていく。
透子は迷わなかった。永美の手を離さず、自分もその床へ飛び乗る。羽喰が舌打ちし、リフトの縁へ飛び移った。
「クソッ、巻き込まれた!」
「来なくてもよかったぞ」
透子が言う。
「後で報告書に『作家と女に置いていかれました』なんて書けるか!」
ギンも杖を突き、ぎりぎりで乗り込んだ。沈む床の上で、四人は身を寄せる。頭上の通路が遠ざかっていく。
暗闇の中、リフトの壁に沿って、古い文字が次々と流れていった。検体搬送。観測室下層。固定槽。M-0保管室。
リフトが止まる。低い衝撃。足元から、冷えた空気が吹き上がった。
独特な匂いが漂う。腐ることを拒み続けている匂いだった。永美は、目を閉じたまま眉をひそめる。
「ひどい匂いだ」
「見た目はもっとひでぇ」
羽喰の声が低い。
「開けるなよ、作家先生」
「開けない」
「絶対だ」
「さっきも聞いた」
「何度でも言う。開けるな」
透子が腰の布を解き、永美の目に巻いた。
「念のためだ」
「おお、目隠しとは、ずいぶん趣味が……強いね」
「はぁ……あなたはもう喋るな」
目隠しの向こうで、世界が暗くなる。その代わり、音が鋭くなった。
機械の唸り。液体が循環する音。遠くで何かがガラスを叩く音。そして、リフトの正面で大きな扉が開く音。
羽喰がライトを向けたらしい。
息を呑む気配がした。
「……何だよ、これ」
誰もすぐには答えなかった。
永美は見えない。だが、沈黙の形でわかる。
そこには、人間の想像力が追いつくのを拒むものがある。
透子が永美の前に立った。
「羽喰。説明しろ。言葉だけでいい」
「……言葉にしたくねぇんだがな」
羽喰は喉を鳴らした。
「でけぇ槽がある。ガラスじゃねぇ、もっと厚い。水族館の展示窓みたいなやつだ。その向こうに、白い肉塊が吊られてる」
「肉塊」
「ああ。人間よりでけぇ。鯨の肉にも見えるが、繊維が違う。ところどころ金属みてぇな黒い殻が残ってる。隕石の表面みたいな、焼け焦げた殻だ」
永美の胸の奥で、何かが震えた。
見たい——。
その衝動が、また来る。彼は目隠しの下で目を閉じ直した。透子が気づいたように、手首を握る力を強める。
羽喰は続けた。
「周りに計測器がある。古い放射線計。温度計。脳波計みてぇなやつ。あと……星図だ」
「星図?」
「ああ。天井に貼られてる。星の位置と、落下軌道みてぇな赤い線。日付は昭和二十五年八月。北東沖、発光体落下。回収地点、百年浜沖」
ギンが唇を結んだ。
「やはり、あの年か」
「婆さん。あんた、知ってたのか」
「人魚が、浜にあがる前日は決まって空に赤い火があがるということは聞かされて育った」
「……人魚は宇宙から流れ着いた……?」
「ただ、そんなことを島の者は、知らんかった」
ギンの声は硬い。
「海から上がったものは、海のもの。浜に流れ着いた肉は、人魚のもの。そう信じた。信じるしかなかった」
「後から来た連中は?」
羽喰が問う。
「信じなかった」
ギンは言った。
「信じず、切った。測り、食わせ、記録した」
その言葉に、機械音声が重なった。
『M-0本体、活動値上昇』
永美の足元で、金属音がした。床のレールが切り替わる。リフトの両脇から、細いアームが何本も伸びてきた。透子の声が低くなる。
羽喰が制御卓を見る。
「固定して、永美に見せる気だ」
永美は目隠しの下で息を止めた。
「私を観測席に座らせるわけか」
「気取ってる場合じゃねぇ!」
羽喰が叫ぶ。
「永美至。お前は今、ここにいる。地下施設の中だ。隣には私がいる。羽喰がいる。ギンがいる。哀川の声は、装置が出している」
「……装置」
「そうだ。記憶ではない。友人でもない。約束でもない。装置だ」
永美は息を吐いた。
「ひどく無粋で、ありがたい説明だ」
「無粋でいい。戻ってこい」
拘束アームが一斉に伸びた。透子は永美を押し倒すようにして避ける。羽喰が銃を撃つ。火花が散る。
一本のアームが弾ける。だが残りが、床を這うように永美へ向かってくる。ギンが杖で床を打った。
「排液じゃ」
「何?」
羽喰が振り向く。
「保存液を抜け。あれは液と温度で眠らされておる。環境を崩せば、装置は保管を優先する」
「そんなことしたら本体が動くだろうが!」
「今も動いとる」
ギンの声は鋭かった。
「迷えば、永美が固定される」
羽喰は制御卓に飛びついた。
錆びた透明カバーの奥に、赤いレバーがある。
EMERGENCY DRAIN。
非常排液。
「知らねぇぞ!」
羽喰はカバーを肘で叩き割り、レバーを引いた。




