帰還
「知らねぇぞ!」
羽喰はカバーを肘で叩き割り、レバーを引いた。
一拍、何も起きなかった。次の瞬間、床下で巨大な何かが唸った。ごう、と空気が動く。
接触槽の下部にある排液口が開き、白濁した保存液が渦を巻いて吸い込まれ始めた。
部屋全体が揺れる。
計測器の針が一斉に振れ、古いランプが赤く点滅した。
『警告』
『M-0保管環境、低下』
『緊急封鎖へ移行』
拘束アームの動きが乱れた。透子はその隙を逃さない。永美を狙って伸びていたアームを掴み、関節を逆方向へねじ上げる。金属が悲鳴のような音を立てた。
「羽喰、出口は」
「槽の右側! 非常搬出口が開きかけてる!」
「永美、走るぞ」
「目隠しのまま?」
「私が引く」
透子は永美の手を引いた。
ギンが先に走り、杖で壁際の手動弁を叩く。
「ここじゃ! 弁を押さえねば閉じる!」
羽喰が制御卓から飛び退き、ギンとともに手動弁を回した。ぎぎ、と嫌な音がして、非常搬出口が半分だけ開く。向こうには狭い排出路が続いている。
壁には古いローラーが並び、床には乾いた黒い染みがいくつも残っていた。かつて何かを運び出すために使われた通路だった。
透子が永美を押し込む。
「頭を下げろ」
「下げている」
「もっとだ」
「作家の頭はこれ以上下がらない」
「折るぞ」
「下がった」
羽喰が続き、ギンが最後に入る。その直後、背後の隔壁が落ちた。凄まじい音が通路全体を震わせる。
『観測者候補、固定失敗』
『封鎖プロトコル、起動』
『全搬送路、閉鎖』
羽喰が舌打ちした。
「全搬送路閉鎖だとよ」
「では、搬送路ではない道を使う」
ギンが言った。
「婆さん、まだ道を知ってるのか」
「知っとる。これは返す道の裏じゃ。昔は、浜へ返す前に、ここで人目を避けた」
「施設が後からその道を使ったのか」
永美が訊く。
「そうじゃ。作法の道を、奴らは廃棄の道に変えた」
ギンの声には、怒りがあった。通路は低く、狭かった。四人は身を屈めて進む。
永美はまだ目隠しを外さない。透子の手を頼りに、一歩ずつ進んだ。
ホテル厨房棟方面。羽喰がライトを向ける。
「ホテル厨房棟……上に繋がってんのか」
「昔のホテルは、表と裏をきっちり分けた」
ギンが言う。
「客に見せる道と、見せぬ道じゃ」
「この島はそればっかりだな」
羽喰が吐き捨てた。
「見せるものと、見せないもの」
「だから永美様が呼ばれたのでございます」
突然、声がした。永美が足を止める。
透子が即座に構える。
「誰だ」
通路の先に、小さなスピーカーがあった。
そこから、女の声が流れている。八尾の声だった。
『ご無事で何よりでございます』
羽喰が顔をしかめる。
「何でてめぇの声がここに入ってくる」
『館内放送は、古い施設の回線にも少々繋がっておりますので』
「少々で済む話かよ」
『済みませんね』
八尾は悪びれずに言った。
『そろそろお戻りくださいませ。ロビーが少し、賑やかになってまいりました』
「白瀬か」
透子が問う。
『ええ。百年聖餐会の皆様が、予定を早めたようでございます』
永美は目隠しの下で眉を寄せた。
「八尾さん。客たちは?」
『浜へ向かう方。ロビーで祈る方。お部屋から出てこない方。さまざまでございます』
「止めないのか」
透子の声が冷える。
『私には、止めることができませんゆえ』
「便利な言い訳だな」
『はい。とても便利でございます』
八尾の声は、笑っていた。
だが、その底にわずかな緊張がある。
『ただ、道案内はできます。三つ先の分岐を右へ。突き当たりの鉄扉を蹴れば、旧厨房の冷蔵庫裏に出ます』
「罠ではないだろうな」
透子が言う。
『罠なら、もっと美しく仕掛けます』
「信用できない返答だ」
『ありがとうございます』
通信が切れた。羽喰が呟く。
「何なんだよ、あの女」
永美が答える。
「狂言回しだね」
「何だそれ」
「舞台の外にいるような顔をして、実は一番よく舞台を知っている人間だ」
「つまり信用できねぇってことか」
「概ね」
透子が短く言った。
「進む」
八尾の言葉通り、三つ目の分岐を右へ曲がる。
通路はさらに狭くなり、天井の配管が低く垂れていた。ところどころ、薬品臭に混じって、油と古い食材の匂いがする。
ホテルに近づいている。
永美にも、それはわかった。
地下施設の冷たい匂いから、少しずつ人間の生活の匂いへ戻っていく。
背後で、金属音がした。透子が振り向く。
「追ってきている」
羽喰がライトを向ける。暗い通路の奥で、搬送台の車輪が見えた。拘束具を開いたまま、低い姿勢でこちらへ進んでくる。
「しつこいな!」
羽喰が撃つ。弾丸が搬送台の前輪に当たり、火花が散る。だが止まらない。
透子は足元の鉄パイプを拾った。
「先に行け」
「一人でやる気か」
羽喰が叫ぶ。
「足止めだ。壊せるとは言っていない」
永美が目隠しのまま言う。
「鴉宮さん。怪我は」
「今さら気にするな」
「気にしている」
「なら生きて戻れ」
「それは、かなり強い命令だね」
「命令だ」
透子は搬送台へ向かって走った。
狭い通路で、彼女は壁を蹴り、身体を横に倒しながら鉄パイプを車輪の軸へ叩き込む。搬送台が大きく傾いた。拘束具が空を掴む。
透子はその隙に台の側面へ回り込み、もう一度、軸へ蹴りを入れた。金属が折れる音。搬送台が横倒しになる。
通路を塞ぐように倒れ、後続の搬送台がそれに突っ込んだ。鈍い衝突音が連続する。
「走れ!」
透子が叫ぶ。羽喰が永美の背を押した。
「作家先生、足動かせ!」
「動かしている!」
「遅ぇ!」
「視界の重要性を痛感している!」
ギンが先導する。突き当たりに鉄扉があった。
古く、錆びつき、内側からは開かないように見えた。
だが、ギンは迷わず杖で下部を叩く。
「ここじゃ」
「蹴るぞ」
透子が追いつき、そのまま前蹴りを叩き込んだ。
一度目。扉が歪む。
二度目。蝶番が悲鳴を上げる。
三度目。扉が外側へ吹き飛んだ。
冷たい空気が流れ込む。同時に、懐かしい匂いがした。ホテルの厨房だった。
四人は冷蔵庫の裏から転がり出るように出た。
調理台には、使いかけの皿が並んでいる。
誰かが途中まで盛りつけていた料理。
その皿の中央には、小さな白い菓子が置かれていた。
浜菓子だった。透子がやっと永美を目隠しを外す。
「ふぅ、やっと目が自由になったよ」
羽喰が皿を睨む。ギンが言う。
「聖餐は、もう始まっておる」
厨房の外から、拍手が聞こえた。静かな拍手。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
透子が目を細める。羽喰が銃を構える。
廊下に出ると、そこはホテルの裏通路だった。
ほんの数分前までいた地下施設とは違う、人間のために整えられた空間。
だが、その空間の奥に、八尾が立っていた。
「おかえりなさいませ」
八尾は丁寧に頭を下げた。
「皆様、ずいぶんと地下の匂いをまとってお帰りで」
羽喰が低く唸る。
「てめぇ、どこまで知ってる」
「舞台の袖から見える程度には」
「答えになってねぇ」
「答えすぎると、次の幕がつまらなくなります」
透子が言う。
「客はどこだ」
八尾はロビーの方を指した。
「白瀬様が、お集めになっています」
「佐伯は」
「ロビーに」
「皆川は」
「羽喰様のお連れが見ておりましたが、少し状況が変わりました」
羽喰の顔が険しくなる。
「どう変わった」
八尾は微笑みを消さなかった。
「皆川様は、妹君の声を聞いたそうです」
「クソッ」
羽喰が走り出そうとする。
その前に、永美が言った。
「八尾さん」
「はい」
「哀川は」
八尾は、少しだけ沈黙した。
その沈黙は、彼女にしては珍しく長かった。
「ロビーには、おりません」
「では、どこに」
「北東区画におられるとも言えますし、もうどこにもおられないとも言えます」
永美は目隠しの下で、静かに息を吸った。
「そういう答えが一番嫌いだ」
「存じております」
八尾はにこりと笑った。
「ですが、今はロビーへ。祝宴は、もう始まっております」
廊下の向こうから、白瀬の声が聞こえた。
穏やかで、澄んだ声。
「皆様、本日は百年に一度の朝でございます」
それに続いて、客たちのざわめき。佐伯の荒い息。誰かが泣く声。そして、白瀬の次の言葉。
「では、最初の聖餐を」
永美は小さく笑った。
「なるほど」
透子が睨む。
「何だ」
「地下より、こちらの方がよほど醜いかもしれない」
羽喰が銃を握り直す。ギンが杖を構える。八尾が扉の横へ下がる。
「では、次の幕でございます」
ロビーの扉が、ゆっくりと開いた。




