聖餐の間
ロビーの扉が開いた。
そこは、すでにホテルのロビーではなかった。
赤い絨毯の上に、白い布が敷かれている。テーブルは祭壇のように並べ替えられ、銀の盆がいくつも置かれていた。
盆の上には、浜菓子がある。白く、小さく、つややかで、菓子というより切り分けられた何かのようだった。
客たちは椅子に座らされていた。
ぼんやりと微笑む者。泣いている者。手を合わせている者。そして、最前列に佐伯がいた。
顔は青ざめているのに、目だけが異様に輝いている。膝には白い布がかけられていた。その下が、人間の足とは違う形に歪んでいる。
白瀬はロビー中央に立っていた。
彼は永美たちを見ても驚かなかった。
「おお、やっとお戻りになりましたか」
声は穏やかだった。
「……地下はいかがでした?」
羽喰が銃を構える。
「両手を上げろ」
「おやおや、ここは祝宴の席ですよ」
「うるせぇ! 俺には犯罪現場に見える」
「見る者によって、場所の意味は変わります」
白瀬の視線が永美へ移った。
「そうだとはおもいませんか? 永美様」
永美は潰れた浜菓子の匂いを思い出していた。甘い。そして、冷たい。あの匂いは地下にもあった。浜にも、菓子にも、保存槽にも。名前だけが違う。
人魚。祝福。M-0。
同じものを、人間が都合よく呼び替えている。
「地下で知ったことがあります」
永美は言った。
「あなた方の聖餐は、信仰ではない」
白瀬は微笑む。
「では、何だと?」
「実験の残骸に、祈りの布をかけているだけです」
ロビーがざわついた。信徒たちの一部が表情を硬くする。
佐伯が呻いた。
「違う……これは祝福だ。私は選ばれたんだ」
ギンが前に出る。
「佐伯。まだ食うな」
「もう遅い。私は、もう戻れない」
「戻れるとは言わん。じゃが、止まることはできる」
「止まったら、ただの老人に戻るだけだ」
佐伯は笑った。笑いながら、泣いていた。
「私は、もう一度やり直したかっただけなんだ」
「やり直しと、若返りは違う」
永美が言った。佐伯が彼を睨む。
「若いお前に何がわかる」
「わかりません。だから、今は止めています。わかった気になって止めるより、いくらか誠実でしょう」
透子が短く言う。
「永美、長いぞ」
「失礼」
その時、銀盆を持った信徒が佐伯へ歩み寄った。
佐伯の手が伸びる。透子が動いた。
彼女は信徒の手首を打ち、銀盆を跳ね上げた。浜菓子が床に散る。次の瞬間、彼女の肘が信徒の鳩尾に入り、白い衣が崩れ落ちた。
ロビーに悲鳴が上がる。羽喰が天井へ一発撃った。
乾いた銃声が響く——。
「全員伏せろ! 菓子を拾うな! 口に入れるな!」
「はぁ、なんと乱暴な……」
白瀬が言う。
「丁寧に言って聞く状況じゃねぇ」
信徒たちが動いた。透子が前に出る。
白い衣の一人がナイフを抜いた。透子は一歩踏み込み、手首を払って刃を落とす。続けて膝を腹に入れ、肩口を押し込んで床へ沈めた。
別の信徒が背後から掴みかかる。透子は振り向きもせず、踵を脛に落とした。低い呻き声。羽喰が客席側へ回り、皆川を探す。
皆川は壁際にいた。両手でスマートフォンを握りしめている。割れていない画面から、小さな声が流れていた。
『お兄ちゃん』
皆川の顔は真っ白だった。
「……行かなきゃ」
羽喰がスマートフォンを奪う。
「行くな」
「返してください! 妹が!」
「妹じゃねぇ」
「でも、声が!」
「声だけだ」
羽喰はスマートフォンを床に叩きつけた。画面が割れる。声が途切れた。皆川は呆然としたあと、羽喰を殴ろうとした。
羽喰はそれを受け止める。
「殴りたきゃ後で殴れ。今は生きてろ」
「妹は……」
「俺の連れが確認した時点では無事だ。ここにはいねぇ」
「本当に?」
「俺は嘘が下手なんだよ」
皆川の膝から力が抜けた。ギンがロビーの床に落ちた浜菓子を杖で一か所へ寄せる。
「触るな」
「触るだけでも危険なのか」
永美が訊く。
「皮膚からでも願いを吸う」
「ふむ……実に迷惑な菓子ですね」
「菓子ではない」
「ああ、地下の……そうでした」
白瀬は、その混乱を穏やかに見つめていた。
まるで予定通りだと言わんばかりに。
「皆様、誤解されています」
白瀬は言った。
「聖餐とは、食べることだけではありません。願うこと。選ぶこと。捧げること。そのすべてが、すでに始まっている」
八尾がロビーの端で、小さく目を細めた。
「白瀬様。少々、幕を早めすぎでは?」
「観客が揃いましたので」
「困った方でございますね」
「あなたほどではありません」
白瀬が指を鳴らした。ロビーの柱時計が鳴る。正午にはまだ早い。だが鐘は、十二回鳴った。
一回ごとに、床下で何かが目を覚ましていく。
羽喰が床を見る。
「また昇降床か」
赤い絨毯の中央に、細い線が走った。ロビー全体が、隠された舞台装置の上にあったのだ。
白瀬の周囲に残った信徒たちが集まる。佐伯がふらふらと立ち上がり、彼らの方へ歩き出そうとした。
ギンが杖を突き出す。
「行くな」
「私は……選ばれた……」
「選ばれた者は、そんな顔をせん」
佐伯は止まった。
その隙に、透子が彼の襟を掴んで椅子へ押し戻す。
「座っていろ!」
「私は行くんだ」
「行かせない」
「なぜだ」
「今のお前は、自分で歩いていない」
佐伯は言葉を失った。白瀬は感心したように透子を見る。
「あなたは本当に、人をこちら側へ渡してくれませんね」
「正しいことをしているだけだ」
「では、あなた自身はどうです?」
「私はどこにも行かない」
「ほお……?」
白瀬の笑みが深くなる。
「……残念です。あなたのような方こそ、祈りが深い」
透子の目が細くなった。
「黙れ」
床が沈み始めた。白瀬と信徒たちを乗せたまま、ロビー中央がゆっくり下がっていく。
羽喰が走る。
「逃がすか!」
信徒の一人が身を投げ出し、羽喰の足にしがみついた。
「邪魔すんな!」
羽喰が蹴り離す。
透子も飛び込もうとしたが、白瀬が床の縁に手を置き、穏やかに言った。
「追っていらっしゃい」
透子の動きが止まった。白瀬の視線は、永美へ向いている。
「永美様。あなたには、まだ見ていただくものがある」
「見せ方が下品だ」
「次は、もう少し厳かにいたしましょう」
永美は床の縁に刻まれた古い表示を見た。塗料が剥がれ、下の文字が露出している。
北東係留区画。海面連絡口。
永美の顔から笑みが消えた。
「羽喰さん」
「あ?」
「この下は、研究施設だけではないようだ」
羽喰は表示を見た。その瞬間、顔色が変わった。
「係留……」
八尾が鍵束を鳴らす。
「ようやく、そちらへ行かれるのですね」
羽喰が振り返る。
「てめぇ、知ってたな」
「舞台の袖から見える程度には」
「その言い方やめろ」
「ふふ……気に入っておりますので」
白瀬の乗った床が、胸の高さまで沈む。彼は最後に言った。
「岩羽島の底で、お待ちしております」
昇降床が完全に沈み、床が閉じた。
ロビーに残ったのは、倒れた信徒、怯える客、潰れた浜菓子、そして床下から響く低い機械音だった。
羽喰は膝をつき、床の継ぎ目を調べる。
「手動で開けられるか」
八尾が言った。
「開きます。ですが、下りたら戻るのは難しいかと」
「脅しか」
「ご案内です」
透子が永美を見る。
「行けるか」
「行くべきか、という質問ではなく?」
「行けるかと聞いた」
「行けるさ」
「ならいい」
ギンが床を見下ろす。
「係留区画は、島の者も近づかなんだ」
「なぜ」
永美が訊く。
「海があるからではない。人が作ったものがあるからじゃ」
羽喰が低く言った。
「黒塗りの航路記録。消えた予算。存在しねぇ工事。全部、そこに繋がるのか」
八尾は答えない。代わりに、ロビーの壁にある古い非常灯が点いた。赤い光が、地下へ続く細い線を照らす。
八尾が微笑む。
「次の幕は、地下係留区画でございます」
その時、床の下から重いロックが外れる音がした。
がこん。
続いて、海水ではない、もっと低く太い音が響いた。
艦の眠る音。永美はその音を聞き、静かに呟いた。
「物語の種類が、また変わる」
透子が睨む。
「楽しそうに言うな」
「いいや……楽しんでなんかないよ」
永美は床の継ぎ目を見つめた。
「ただ、見ないわけにはいかなくなった」
羽喰が銃を握り直す。
透子が倒れた信徒から奪ったナイフを腰に差す。
ギンが杖を構える。
八尾は深々と一礼した。
「では皆様、どうぞお気をつけて。ここから先は、怪談では済みませんので」
床の中央が、再びゆっくりと開き始めた。




