輝く島
永美は菓子を食べた夜から目を覚ます—そこには奇妙な感想があった。
翌朝、永美は物音で目を覚ました。
窓の外はまだ見えない。
カーテンは昨夜、透子が閉めたままだった。厚い布越しに朝の明るさだけがぼんやり滲んでいる。海も、浜も、空も見えない。ただ、部屋の中に湿った朝の気配が満ちていた。
透子はすでに起きていた。
眼鏡をかけ、髪を整え、バリケードは——そのままだ。滞在中はこのまま防衛線を守り通す気らしい。
そして、眠っていた形跡が、ほとんど残っていない。
「ふん……起きたか。静かだから息をしていないと思った」
「体調は?」
透子が続け様に言う。
「悪くない」
永美は手や腕の皮膚の状態も確認しながら言う。
どうやら外見も無事そうだ。
「吐き気は」
「ないね」
「痺れ」
「ない」
「視界異常」
永美は室内を見回した。
古いベッド。湿った絨毯。藤の椅子。閉じたカーテン。壁の安っぽい海辺の絵。
どれも昨日と変わらない。
「今のところ、ない」
透子は少しだけ眉を寄せた。
「本当に?」
「残念ながら」
「残念がるな」
その時、廊下の向こうから声が聞こえた。
誰かが叫んでいる。
悲鳴ではない。驚きの声だった。
続いて、別の声。今度は笑い声に近い。廊下を走る足音。扉が開く音。誰かが「見ろ」と言った。
透子の表情が変わった。
「ロビーだ」
「朝から賑やかだね」
「行くぞ」
「え? 朝食より先に? コーヒーが飲みたいな。朝はすぐ飲まないと始まらないんだよね」
「コーヒーよりも、まず確認が先だ。その後コーヒーだ」
二人は部屋を出た。
廊下には、すでに何人かの宿泊客がいた。寝癖のついた男。羽織を引っかけただけの女。昨日ロビーにいた乗客たちが、何かに引かれるように一階へ向かっている。
彼らの顔つきは、昨日とは違っていた。
恐怖ではない。
期待。
あるいは、酔い。
「何だ、あれ……!」
「すごい、すごい……!」
「こんな島だったのか」
声が階下から上がってくる。
透子は足を速めた。
永美も続く。
ロビーへ降りると、そこには奇妙な熱気があった。
昨夜、葬式と晩餐の言葉が交わされた同じ場所とは思えなかった。
宿泊客たちが、ロビーの大きな窓の前に集まっている。誰もが外を見ていた。
肩を寄せ合い、息を呑み、ある者は口元を押さえ、ある者は涙ぐんでいる。
佐伯もいた。
足首の腫れは引いていない。むしろ痛そうだった。
だが、顔つきが昨日と違う。目に奇妙な輝きがあり、頬に血色が戻っている。
「すごい……」
佐伯が呟く。
「こんなに綺麗な島だったのか。昨日は、俺は何を怖がっていたんだ。なあ、見ろよ。砂が光ってる。海も、森も、全部……まるで宝石みたいだ」
別の女が、窓に額を寄せるようにして言った。
「本当に……光ってる。白い砂が、真珠みたい」
「岩まで綺麗だ」
「見て、木の葉も」
「来てよかった」
「怖いところなんかじゃない」
その近くで、狐面を外した白い服の女が微笑んでいる。
「ええ。ようやく島が見えてきたのですね」
透子はロビー全体を見た。
全員ではない。
騒いでいる者たちは、昨夜あの菓子を食べた者たちだ。
皆川はロビーの隅に立っていた。顔色は悪いが、目は普通だった。窓の外を見ても、感動した様子はない。むしろ、周囲の熱に怯えている。
透子は皆川に近づいた。
「食べなかったな」
「は……はい。言われたので」
「それでいい」
皆川は永美を見た。
「永美さんは……」
「はあ……あいつは馬鹿だから食べた」
透子が即答した。
「言い方が直接的だ」
「事実だ」
永美はゆっくりと、ロビーの大きな窓へ近づいた。
宿泊客たちの肩越しに、外を見る。
その瞬間、視界が変わった。
島が、輝いていた。
百年浜の砂は、ただ白いのではなかった。
一粒一粒が朝の光を抱き、砕いた真珠のように細かく光っている。
黒い岩山の表面には、濡れた鉱石のような青い反射が走り、森の葉は緑ではなく、薄い金と翠の膜をまとって揺れていた。
古いホテルの割れた噴水。
錆びた手すり。遠くの鳥居。
雨に濡れた道路の窪み。
腐敗も、錆も、黴も、傷も。
すべてが、光を返している。
すべてが細かい粒子をまとい、世界の表面で静かにきらめいていた。
永美は、しばらく言葉を失った。
この美しさは、あまりにも都合がよすぎる。
透子が隣に来た。
「どう見えてる」
「島が光っているように……見える」
「ふむ……私には普通に見える」
「つまり、昨日と同じ?」
「古いホテル。湿った浜。黒い岩。薄曇り。昨日と大差ない。
この島の朝の景色は、別に普通の島と変わらないように見える」
「ほぉ〜……なるほど」
「何が、なるほどだ」
「十中八九、昨日の菓子だね」
「はあ……やっぱり」
透子は低く言った。
「食べた奴だけが騒いでいる」
「恐怖を和らげるというより、視界を変える。
あるいは、感情の解釈を変える。醜いものを隠すのではなく、醜さそのものに光を当てるんだろう」
「ふん……ただの薬だろう」
「うーん……実に詩的な薬だ」
「詩にするな。危険性がぼやける」
「しかし、見事な仕掛けだ」
「下衆な仕掛けを褒めるな……しかしなぜ告発者がいないのか……」
永美はロビーの窓の向こうを見た。
島はなおも輝いている。
その輝きは、安物のラメではない。
むしろ、朽ちかけたものの表面にだけ宿る、最後の光だった。
古い木材のささくれ。錆びた金属の赤。濡れた白砂。黒い岩肌。すべての傷が、光の入口になっている。
永美は、つい微笑んだ。
「光り輝く島、グリッター・アイランドとも言おうか……」
その瞬間だった。
「今、何つった……?」
背後から声がした。
ロビーの柱の影に、男が立っていた。
いつからそこにいたのか、永美にはわからなかった。宿泊客たちが窓へ群がる中で、その男だけが外を見ていなかった。
島の輝きにも、宿泊客の歓声にも、佐伯の涙にも、ほとんど興味を示していない。
三十代半ばほどだろうか。無精髭の残る顎に、湿気で乱れた黒髪。
色褪せた釣り用のジャケットを羽織り、下には皺の寄ったシャツを着ている。島民と言われればそう見えなくもない。
宿泊客と言われれば、そういう雑な旅装にも見える。
だが、立ち方が違った。
肩の力は抜けている。なのに、視線だけがロビーの出入口と窓と階段をすべて押さえている。
隠れているわけではない。目立たない位置を選び、そこに最初から存在していたかのように馴染んでいた。
目だけが、静かに鋭い。
その男が、羽喰だった。
だが今、その顔からは余裕が消えていた。
透子が即座に永美の前へ半歩出る。
「何だ」
羽喰は透子を見ていなかった。
永美だけを見ている。
「今の言葉、どこで聞いた」
「今の、言葉?」
「グリッター・アイランド」
ロビーの空気が変わった。
白い服の女が、微笑みを止めた。
八尾が受付台の奥で、ほんの少しだけ目を細めた。
透子は眉を寄せる。
「何の話だ」
羽喰は低く言った。
「答えろ。誰から聞いた。哀川か」
永美は瞬きをした。
「いや、ただの比喩だよ。島が光って見えるから、光り輝く島。グリッター・アイランド。言葉としては少々安いが、今の視界には合っている」
「比喩でその名前が出るか」
「偶然というものは、時に比喩よりも悪趣味なものだよ」
羽喰は永美に詰め寄った。
透子がその間に入る。
「下がれ」
「そいつは知ってる」
「何をだ」
「知らねぇふりをするんじゃねぇ!」
「私は本当に知らない。こいつもたぶん今適当なことを言っただけだ」
「適当な言葉で、その名は出ねぇ」
羽喰の声は低い。
怒りよりも、焦りが濃かった。
永美はその反応を見て、ようやく気づいた。
自分は今、ただの比喩ではない言葉を口にしたのだ。
羽喰の中に、すでにその言葉は存在していたのではないか——?
グリッター・アイランド。
光り輝く島。
そして、それはこの島の美しさを指す詩的表現などではない。
「少し無礼なそこのお兄さん」
羽喰に永美は微笑んだ。
「どうやら私は、あなたの秘密に触れてしまったらしい」
「ふざけんなよ……!」
「ふざけてはいないよ。驚いているんだ。かなりね」
羽喰は一瞬だけ周囲を見た。
佐伯はまだ窓の外を見ている。菓子を食べた者たちは、島の輝きに半ば酔っている。
白い服の女は笑っていない。八尾は笑っている。透子は、いつでも羽喰の腕を折れる位置に立っている。
「ここでその名前を口にするんじゃあねえぞ……」
羽喰は声を落とした。
「でも、あなたの方が先に尻尾を出した——今この瞬間、あなたの方が不利だ」
透子が言う。
羽喰は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
永美は胸の奥が高鳴るのを感じた。
人魚の肉。百年浜。聖餐会。
そして、グリッター・アイランド。
島は、こちらが思っていたよりも多くの名前を持っている。
名前が多いものほど、だいたい危険だ。
八尾が受付台の向こうで、柔らかく言った。
「まあ。朝からずいぶんと賑やかでございますね」
羽喰が八尾を見る。
「黙ってろ!」
「はい。では、黙って聞いております」
「聞くな!」
「あら……それは難しい注文でございますわ」
白い服の女が静かに後ずさった。
透子はそれを見逃さなかった。
「あいつを止めろ」
永美が振り返る。
女はもうロビーの奥へ消えかけていた。
羽喰が舌打ちする。
「白瀬に伝える気か」
透子は走った。
白い服の女も走る。ロビーの朝が、そこで破れた。
泣きながら島を賛美していた者たちが振り返る。
佐伯が何か叫ぶ。皆川が壁際で身をすくませる。八尾が袖で口元を隠し、楽しそうに目を細める。
永美は動かなかった。
ただ、窓の外の光る島を見ていた。
輝いて見える島。
誰かの計画の名と重なってしまった言葉。
そして、偶然が扉を開ける瞬間。
永美は思った。
これから先、作家人生でも経験したことのない震えるような美しい展開を期待しても良いのかもしれない。
だが今度は、声には出さなかった。
出せば、透子に本当に殴られる気がしたからだ。
謎の男羽喰—輝く島—謎は深まる




