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8/15

輝く島

永美は菓子を食べた夜から目を覚ます—そこには奇妙な感想があった。

 翌朝、永美は物音で目を覚ました。


 窓の外はまだ見えない。


 カーテンは昨夜、透子が閉めたままだった。厚い布越しに朝の明るさだけがぼんやり滲んでいる。海も、浜も、空も見えない。ただ、部屋の中に湿った朝の気配が満ちていた。


 透子はすでに起きていた。


 眼鏡をかけ、髪を整え、バリケードは——そのままだ。滞在中はこのまま防衛線を守り通す気らしい。

 そして、眠っていた形跡が、ほとんど残っていない。


「ふん……起きたか。静かだから息をしていないと思った」

 

「体調は?」

 

 透子が続け様に言う。


「悪くない」


 永美は手や腕の皮膚の状態も確認しながら言う。

 どうやら外見も無事そうだ。


「吐き気は」


「ないね」


「痺れ」


「ない」


「視界異常」


 永美は室内を見回した。

 

 古いベッド。湿った絨毯。藤の椅子。閉じたカーテン。壁の安っぽい海辺の絵。

 どれも昨日と変わらない。


「今のところ、ない」


 透子は少しだけ眉を寄せた。


「本当に?」


「残念ながら」


「残念がるな」


 その時、廊下の向こうから声が聞こえた。


 誰かが叫んでいる。

 悲鳴ではない。驚きの声だった。


 続いて、別の声。今度は笑い声に近い。廊下を走る足音。扉が開く音。誰かが「見ろ」と言った。


 透子の表情が変わった。


「ロビーだ」


「朝から賑やかだね」


「行くぞ」


「え? 朝食より先に? コーヒーが飲みたいな。朝はすぐ飲まないと始まらないんだよね」


「コーヒーよりも、まず確認が先だ。その後コーヒーだ」


 二人は部屋を出た。


 廊下には、すでに何人かの宿泊客がいた。寝癖のついた男。羽織を引っかけただけの女。昨日ロビーにいた乗客たちが、何かに引かれるように一階へ向かっている。


 彼らの顔つきは、昨日とは違っていた。


 恐怖ではない。

 

 期待。


 あるいは、酔い。


「何だ、あれ……!」


「すごい、すごい……!」


「こんな島だったのか」


 声が階下から上がってくる。


 透子は足を速めた。

 永美も続く。


 ロビーへ降りると、そこには奇妙な熱気があった。


 昨夜、葬式と晩餐の言葉が交わされた同じ場所とは思えなかった。


 宿泊客たちが、ロビーの大きな窓の前に集まっている。誰もが外を見ていた。


 肩を寄せ合い、息を呑み、ある者は口元を押さえ、ある者は涙ぐんでいる。


 佐伯もいた。


 足首の腫れは引いていない。むしろ痛そうだった。

 だが、顔つきが昨日と違う。目に奇妙な輝きがあり、頬に血色が戻っている。


「すごい……」


 佐伯が呟く。


「こんなに綺麗な島だったのか。昨日は、俺は何を怖がっていたんだ。なあ、見ろよ。砂が光ってる。海も、森も、全部……まるで宝石みたいだ」


 別の女が、窓に額を寄せるようにして言った。


「本当に……光ってる。白い砂が、真珠みたい」


「岩まで綺麗だ」


「見て、木の葉も」


「来てよかった」


「怖いところなんかじゃない」


 その近くで、狐面を外した白い服の女が微笑んでいる。


「ええ。ようやく島が見えてきたのですね」


 透子はロビー全体を見た。

 全員ではない。

 騒いでいる者たちは、昨夜あの菓子を食べた者たちだ。


 皆川はロビーの隅に立っていた。顔色は悪いが、目は普通だった。窓の外を見ても、感動した様子はない。むしろ、周囲の熱に怯えている。


 透子は皆川に近づいた。


「食べなかったな」


「は……はい。言われたので」


「それでいい」


 皆川は永美を見た。


「永美さんは……」


「はあ……あいつは馬鹿だから食べた」


 透子が即答した。


「言い方が直接的だ」


「事実だ」


 永美はゆっくりと、ロビーの大きな窓へ近づいた。

 

 宿泊客たちの肩越しに、外を見る。

 その瞬間、視界が変わった。


 島が、輝いていた。


 百年浜の砂は、ただ白いのではなかった。


 一粒一粒が朝の光を抱き、砕いた真珠のように細かく光っている。


 黒い岩山の表面には、濡れた鉱石のような青い反射が走り、森の葉は緑ではなく、薄い金と翠の膜をまとって揺れていた。


 古いホテルの割れた噴水。


 錆びた手すり。遠くの鳥居。


 雨に濡れた道路の窪み。

 

 腐敗も、錆も、黴も、傷も。

 

 すべてが、光を返している。


 すべてが細かい粒子をまとい、世界の表面で静かにきらめいていた。


 永美は、しばらく言葉を失った。


 この美しさは、あまりにも()()()()()()()


 透子が隣に来た。


「どう見えてる」


「島が光っているように……()()()


「ふむ……私には普通に見える」


「つまり、昨日と同じ?」


「古いホテル。湿った浜。黒い岩。薄曇り。昨日と大差ない。

 この島の朝の景色は、別に普通の島と変わらないように見える」


「ほぉ〜……なるほど」


「何が、なるほどだ」


「十中八九、昨日の菓子だね」


「はあ……やっぱり」


 透子は低く言った。


「食べた奴だけが騒いでいる」


「恐怖を和らげるというより、視界を変える。

 あるいは、感情の解釈を変える。醜いものを隠すのではなく、醜さそのものに光を当てるんだろう」


「ふん……ただの薬だろう」


「うーん……実に詩的な薬だ」


「詩にするな。危険性がぼやける」


「しかし、見事な仕掛けだ」


「下衆な仕掛けを褒めるな……しかしなぜ告発者がいないのか……」


 永美はロビーの窓の向こうを見た。

 

 島はなおも輝いている。


 その輝きは、安物のラメではない。

 むしろ、朽ちかけたものの表面にだけ宿る、最後の光だった。


 古い木材のささくれ。錆びた金属の赤。濡れた白砂。黒い岩肌。すべての傷が、光の入口になっている。


 永美は、つい微笑んだ。


「光り輝く島、グリッター・アイランドとも言おうか……」


 その瞬間だった。


「今、何つった……?」


 背後から声がした。

 ロビーの柱の影に、男が立っていた。


 いつからそこにいたのか、永美にはわからなかった。宿泊客たちが窓へ群がる中で、その男だけが外を見ていなかった。

 島の輝きにも、宿泊客の歓声にも、佐伯の涙にも、ほとんど興味を示していない。


 三十代半ばほどだろうか。無精髭の残る顎に、湿気で乱れた黒髪。


 色褪せた釣り用のジャケットを羽織り、下には皺の寄ったシャツを着ている。島民と言われればそう見えなくもない。


 宿泊客と言われれば、そういう雑な旅装にも見える。

 だが、立ち方が違った。


 肩の力は抜けている。なのに、視線だけがロビーの出入口と窓と階段をすべて押さえている。


 隠れているわけではない。目立たない位置を選び、そこに最初から存在していたかのように馴染んでいた。


 目だけが、静かに鋭い。

 その男が、羽喰だった。


 だが今、その顔からは余裕が消えていた。


 透子が即座に永美の前へ半歩出る。


「何だ」


 羽喰は透子を見ていなかった。

 永美だけを見ている。


「今の言葉、どこで聞いた」


「今の、言葉?」


「グリッター・アイランド」


 ロビーの空気が変わった。

 白い服の女が、微笑みを止めた。


 八尾が受付台の奥で、ほんの少しだけ目を細めた。

 透子は眉を寄せる。


「何の話だ」


 羽喰は低く言った。


「答えろ。誰から聞いた。哀川か」


 永美は瞬きをした。


「いや、ただの比喩だよ。島が光って見えるから、光り輝く島。グリッター・アイランド。言葉としては少々安いが、今の視界には合っている」


「比喩でその名前が出るか」


「偶然というものは、時に比喩よりも悪趣味なものだよ」


 羽喰は永美に詰め寄った。

 透子がその間に入る。


「下がれ」


「そいつは知ってる」


「何をだ」


「知らねぇふりをするんじゃねぇ!」


「私は本当に知らない。こいつもたぶん今適当なことを言っただけだ」


「適当な言葉で、その名は出ねぇ」


 羽喰の声は低い。

 怒りよりも、焦りが濃かった。


 永美はその反応を見て、ようやく気づいた。

 自分は今、ただの比喩ではない言葉を口にしたのだ。


 羽喰の中に、すでにその()()()()()()()()()のではないか——?


 グリッター・アイランド。


 光り輝く島。


 そして、それはこの島の美しさを指す詩的表現などではない。


「少し無礼なそこのお兄さん」


 羽喰に永美は微笑んだ。


「どうやら私は、あなたの秘密に触れてしまったらしい」


「ふざけんなよ……!」


「ふざけてはいないよ。驚いているんだ。かなりね」


 羽喰は一瞬だけ周囲を見た。


 佐伯はまだ窓の外を見ている。菓子を食べた者たちは、島の輝きに半ば酔っている。


 白い服の女は笑っていない。八尾は笑っている。透子は、いつでも羽喰の腕を折れる位置に立っている。


「ここでその名前を口にするんじゃあねえぞ……」


 羽喰は声を落とした。


「でも、あなたの方が先に尻尾を出した——今この瞬間、あなたの方が不利だ」


 透子が言う。

 羽喰は答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。

 永美は胸の奥が高鳴るのを感じた。


 人魚の肉。百年浜。聖餐会。


 そして、グリッター・アイランド。


 島は、こちらが思っていたよりも多くの名前を持っている。


 名前が多いものほど、だいたい危険だ。

 八尾が受付台の向こうで、柔らかく言った。


「まあ。朝からずいぶんと賑やかでございますね」


 羽喰が八尾を見る。


「黙ってろ!」


「はい。では、黙って聞いております」


「聞くな!」


「あら……それは難しい注文でございますわ」


 白い服の女が静かに後ずさった。

 透子はそれを見逃さなかった。


「あいつを止めろ」


 永美が振り返る。

 女はもうロビーの奥へ消えかけていた。

 羽喰が舌打ちする。


「白瀬に伝える気か」


 透子は走った。

 白い服の女も走る。ロビーの朝が、そこで破れた。


 泣きながら島を賛美していた者たちが振り返る。


 佐伯が何か叫ぶ。皆川が壁際で身をすくませる。八尾が袖で口元を隠し、楽しそうに目を細める。


 永美は動かなかった。


 ただ、窓の外の光る島を見ていた。

 輝いて見える島。


 誰かの計画の名と重なってしまった言葉。

 そして、偶然が扉を開ける瞬間。


 永美は思った。

 

 これから先、作家人生でも経験したことのない震えるような()()()()()を期待しても良いのかもしれない。


 だが今度は、声には出さなかった。

 出せば、透子に本当に殴られる気がしたからだ。

謎の男羽喰—輝く島—謎は深まる

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