浜菓子
夜の集まりも解散かと思いきや謎の菓子を勧められ—?
その夜の集まりは、そこで解散となった。
白瀬は白い仮面の者たちを伴って、ロビーの奥へ消えていった。
ギンは何も言わず、杖を突きながら反対側の廊下へ去った。
佐伯は足を引きずり、皆川は何度も振り返りながら、二階へ上がっていく。
永美も手帳を閉じた。
不死を求める者は、まず願いの形を暴かれる。
今書いたばかりの一文が、まだ指先に残っていた。
その時だった。
「皆様」
八尾の声がロビーに響いた。
解散しかけていた乗客たちが、足を止める。
八尾は受付台の傍らで、にこやかに微笑んでいた。
その隣に、白い動物の面を被った者が二人立っている。
狐と鶏の面だった。彼らは銀色の盆を持っていた。
盆の上には、小さな菓子が並んでいる。
貝殻の形をした干菓子のようだった。薄い白。
ところどころに淡い青や桃色が混じり、表面には細かい砂糖の粒がきらきらと光っている。
南国の土産物屋に置いてあれば、安っぽい観光菓子として見過ごしただろう。
白瀬が奥の廊下から戻ってきた。
「お迎えのお菓子になります」
「菓子?」
透子が低く言った。
「ええ。長旅でお疲れでしょう。それにまだ歓迎のお品を渡せておりませんでしたから」
白瀬は微笑んだ。
「岩羽島の古い菓子です。砂糖、塩、海藻、島の花の蜜を固めたもの。毒ではありませんよ」
「怪しいな」
「疑うことは良いことです。信仰にも、適度な警戒は必要ですから」
八尾が口元を袖で隠すように笑った。
「どうぞご自由に。食べるも食べぬも、お客様のお心次第でございます」
ギンの声が、廊下の奥から飛んだ。
「口に入れるな」
全員がそちらを見た。
ギンは振り返らなかった。
ただ、背を向けたまま、杖を握っている。
「腹が減っとるなら、明日の朝に握り飯でも食え。夜に白瀬の菓子など食うな」
白瀬は穏やかな顔を崩さなかった。
「ギンさんは昔から甘いものがお嫌いで」
「甘いものが嫌いなんじゃない。お前らの甘さが嫌いなんじゃ」
それだけ言うと、ギンは廊下の奥へ消えた。
ロビーに、短い沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは佐伯だった。
「ど……毒じゃないんだな」
「もちろん」
白瀬は盆からひとつ菓子を取り、自分の口へ入れた。
噛む音はしなかった。
ただ、唇がわずかに動いた。
「ほら」
佐伯はためらった末に、狐面の盆から菓子を取った。
足首の痛みで顔を歪めながら、それを口へ放り込む。
皆川は手を伸ばしかけたが、透子がその手首を掴んだ。
無言で首を振ると、皆川は手を引いた。
次に透子は永美を見た。
「お前も食べるな」
「まだ何も言っていないのだけど……」
「顔が食べると言っている」
「私の顔というのは、時に私自身より正直に見えるのだね」
「とにかく二言はない。食べるな」
永美は盆の上の菓子を見た。
貝殻の形。砂糖の粒。淡い青。
不死を求める者たちに、夜食として配られる白い菓子。
あまりにも、甘やかで、見え透いたような透明な罠——
わかっていても罠にかかりたくなる衝動は永美に耐えられるわけがなかった。
「一つだけ」
「おい」
「観察だよ」
「体内に入れる観察はやめろ。本当にいつか死ぬぞ」
「美しいものや奇妙なものは、眺めるだけではわからないことがある。香り、重さ、舌触り、歯に当たる硬さ。人間は口という下品な器官で、かなり多くの世界を理解している」
「もっともらしく言うな。食い意地を美学に変換するな」
透子が止める前に、永美は菓子をひとつ取った。
透子の目が冷えた。
「はあ……もういい」
永美は菓子を口に入れた。
まず、砂糖の硬さが歯に当たる。
柔らかく解けるように解けるので不快感はない。
次に甘み、だがただ甘いのではない。
砂糖の奥から、海水を煮詰めたような塩気が出てくる。
さらにその奥に、花の蜜に似た香りがある。
熟しすぎた果実の匂い。
濡れた貝殻の匂い。
ほんのわずかに、鉄の匂い。
「どうだ」
透子が言う。
「ふうむ」
「ふーむ、じゃない。異常は」
「美味しいね」
「感想が馬鹿だな。小説家辞めろ」
「そう私を虐めないで……期待していたほど禍々しくはない。少し残念だ」
へらへらと手厳しい透子の言葉を相手取りながら、永美は感想を述べた
「残念がるな」
白瀬は微笑んでいた。
「お気に召したようで何よりです」
「悪くない。名前は?」
「浜菓子、とだけ」
「ほぉ、素朴だな。悪くない」
「古いものほど、名は短いものです」
永美はもうひとつ取ろうとした。
透子が手を叩き落とした。
「一つで十分だ」
「うーん。恋人の制止は厳しい」
「仮初の恋人だからこそ、最低限の監督義務がある」
「では、あなたも一つ」
「食べない」
透子は即答した。
「あなたは本当に徹底している」
「当たり前だ。島に来て最初の夜に、得体の知れないカルト集団から出された菓子を食べる奴の方がおかしい」
「退屈な正論だ。人生には少しの冒険が華を添えることもある」
「生き残るには退屈な方がいい。墓石に花を添えることになる」
八尾が楽しそうに言った。
「まあ。お二人は本当に噛み合っていらっしゃる」
「噛み合ってない!」
透子は少し赤面して言い放つと、永美の腕を掴み、ロビーを離れた。
二〇七号室へ戻るまで、透子は少し俯いて、一言も喋らなかった。
廊下を歩き、階段を上がり、鍵を開ける。部屋へ入ると、彼女はまず窓を確認し、カーテンを閉めたままにした。
次に浴室、クローゼット、ベッドの下を見る。それから自分の荷物を開けた。
永美はベッドの端に腰を下ろした。
舌の上に、まだ甘さが残っている。
不思議な菓子だった。
毒々しい味ではない。むしろ、慎ましい。
だがその慎ましさがかえって嫌だった。
何かを隠すなら、激しい味よりも静かな味の方が適している。
「鴉宮さん」
「何だ」
「もしかして心配してくれているのかい?」
少しの逡巡の後、それから透子は言った。
「それは……している」
永美は少し驚いた。
透子は振り返りもせずに続ける。
「あなたが倒れると面倒だから。死なれるのも、暴れられるのも、幻覚を見られるのも困る」
「なかなか実務的な愛だ」
「愛ではない。管理だ」
「では管理される側として、なるべく優雅に異常を来すことにしようかな」
「来すな!」
透子は椅子を動かした。
ぎい、と藤の椅子が床を擦る。
永美は手帳を開いていたので、しばらくその音を気にしなかった。菓子の味を記録しようとしたが、言葉がなかなか定まらない。
甘み。塩辛さ。懐かしさ。海藻の渋み。花蜜の香り。
どれも正しいが、どれも足りない。
ふと顔を上げたとき、永美は部屋の中央にバリケードができていることに気づいた。
藤の椅子が二脚。小さなテーブル。透子の旅行鞄。ホテルに備えつけの折り畳み式荷物台。さらに脱いだコートまで、二つのベッドの間に一直線に並べられている。
見事な境界線だった。
「ねえ、鴉宮さん?」
「何?」
「えっと……これは何かな?」
「何って、防衛線だが?」
透子は努めて冷静を装って淡々と言った。
「ふむ……恋人の部屋に?」
恋人という言葉に透子は苛つきのような、焦りのような感情を禁じ得ない。そして宣言するように言い放つ。
「仮初の恋人だからだ……!」
だんだん透子の声が上擦ってくる。俯きがちで怒っているのかは判別つかないが、耳の先が朱に染まっている。
「えぇ……私は獣っていいたいのー……?」
押し入られておいて下衆な下心を持っていると思われるのは心外なのだが……と永美は不満げに言う。
「私からあなたの部屋に飛び込んだ。だからあなたが獣だろうが獣でなかろうがそれはどうだっていい。
で……でも!防衛はしておいて損はないでしょ!あなたが何度も言う通り、私は合理的な女というだけ!」
透子は早口で捲し立てた。若干声が上擦っている。
さっと眼鏡を外し、一瞬でベッドに入りこんだ。
むしろ透子の方が獣が如くの動作である。
眠ると決めてから寝具に入るまでの間に、情緒というものが一切なかった。ベッドの中で永美を振り返らずに透子が言った。
「永見、あなたは夜通し寝るな」
「えぇ……今日はいろんなことがあったから普通に眠たいよ」
「はぁ……少なくとも一時間は起きてて。体調が変わったら言うこと。吐き気、痺れ、視界異常、幻聴、発汗、寒気、心拍の異常。全部だ」
「まるで医者のようだ……医者は寝転んだまま言わないが……」
「うるさい……裏社会で生きていれば、この程度は覚える」
永美はその言葉に反応した。
透子は永美と反対側に寝て姿勢を崩さない。
「何も聞くな」
「まだ何も聞いていないじゃないか……」
「顔が聞いてるの!」
「その寝方だと私の顔は見えないはずだが……」
「わかりやすい」
透子はそれぎり黙った。
十分も経たず、彼女の呼吸は静かに深くなった。
永美はバリケードを眺めた。
奇妙な女だ。
冷たく、乱暴で、高慢で、合理的で、そして知らないうちに人と自分の間へ線を引く。
それは拒絶のようであり、守りのようでもあった。
永美は手帳に書いた。
鴉宮透子は、眠る前に境界を作る。
それからしばらく、自分の体調を観察した。
吐き気はない。痺れもない。発汗もない。心拍は平常。視界も、今のところ正常に見える。
正常。
その言葉が、少しだけ面白くなかった。
やがて永美はベッドに横になった。
眠るつもりはなかった。
だが、舌の奥に残っていた塩気が、ゆっくりと喉へ降りていくような感覚があった。その感覚を追っているうちに、意識は薄くなった。
夢は見なかった。
少なくとも、覚えていない。
永美は眠りにつく。何が起きるのか、起きないのか—




