葬式と晩餐
ホテルに100年送りの顔ぶれが集まり始めた。しかし島も一枚岩ではないようだ。
壁を叩く音は、それきり止んだ。
こん、こん。
最後の二音だけを残して、二〇七号室には湿った静寂が戻った。
透子は壁を睨んでいたが、やがて息を吐く。
「古い建物の音だ」
「本当に?」
「ラップ音などは、木造建築の水分による軋みで説明できる場合が多い」
「そういう考察は色気がないな」
「味気ないと言え。気持ち悪い言い方をするな」
その時、扉が叩かれた。今度は壁ではない。
二〇七号室の扉だった。
透子が即座に永美を見る。
「返事するな」
扉の向こうから、八尾の声がした。
「二〇七号室のお二人様。ロビーへお越しくださいませ。皆様へ、今夜のご案内がございます」
「必要ない。もう夜も遅い」
「必要かどうかを決めるには、まだ情報が足りませんでしょう?」
透子は眉間に皺を寄せた。
永美は笑う。
「行こうか」
「勝手に決めるな」
「あなたも行くつもりだろう? 信用していない相手が何かを始めるなら、見張る。あなたはそういう人だ」
「本当に一言多い男……」
それでも、透子は扉を開けた。
廊下には八尾が立っていた。
「お早いお支度で」
「お前の話を長く聞きたくないだけだ」
「それは賢明でございます。私の話は長く聞くほど、余計なものが混じりますので」
八尾は先に歩き出した。
二階の廊下には、ホテル真珠湾がまだ観光地だった頃の写真が並んでいた。その中に、一枚だけ異質な写真があった。
浜辺に人々が並んでいる。
中央には、白い布をかけられた長いものが横たわっていた。人の棺にしては細い。魚にしては、長すぎる。
永美は足を止めかけた。
透子が袖を掴む。
「今は見るな」
「恋人らしい制止だ」
「その設定を蒸し返すな」
八尾が前を歩きながら笑った。
「恋とは、蒸し返してこそ味が出るものでは?」
「お前は黙って歩け」
階段を下りると、ロビーにはすでに人が集められていた。
佐伯はソファに座り、足首を押さえている。
桟橋で掴まれた痕は黒く腫れていた。
皆川は壁際に立っている。
スマートフォンを握ったまま、画面を見ていない。
そして、ロビーの中央には白い服の者たちがいた。
白装束。貝殻の飾り。ラメの散った動物のマスク。
魚とも鳥とも獣ともつかない顔が、こちらを見ている。
その中心に、痩せた男が立っていた。
白いシャツに、黒いストール。
神父のようでもあり、司会者のようでもある。
男だけが、マスクを被っていなかった。
「ようこそ。百年の夜へ」
男は両手を胸の前で合わせた。
ロビーの隅には、黒い雨合羽の老婆が立っていた。
白髪を後ろで一つに結び、杖を握っている。
背は曲がっているが、弱々しさはない。目だけが、刃物のように鋭かった。
岩波ギン。
哀川の資料に、その名はあった。
百年送りを守ってきた島の古老。
人魚の肉を聖餐と呼ぶ者たちを嫌いながら、それでも島を離れられない女。
ギンは白装束の中心に立つ男を睨んだ。
「白瀬」
白瀬と呼ばれた男は、穏やかに頭を下げた。
「ギンさん。今夜もお元気そうで何よりです」
「墓荒らしどもめ」
「お戯れを。聖餐です」
「葬式じゃ」
「祝宴です」
それだけで、ロビーの空気が変わった。
葬式と晩餐。
死を海へ返す者と、死を食卓へ運ぶ者。
永美は胸が高鳴るのを感じた。
「あまりにも形が良い」
透子が小声で言う。
「いちいち興奮するな、変態」
「これは美しい対立だ」
「死を予感させる対立だ」
「良い感想だ。透子さん。さては私に感化されたね」
「はあ……最悪だな」
白瀬は永美たちへ目を向けた。
「新しいお客様ですね。歓迎いたします。岩羽島は、死を拒む方にも、死を受け入れる方にも、等しく門を開きます」
永美は微笑んだ。
「美しい言葉だ。中身が腐っていそうで、実に良い」
「挑発するな」
「褒めたつもりなのだが」
「お前、小説家を辞めろ」
白瀬は怒らなかった。
むしろ、永美に興味を持ったように目を細める。
「あなたは?」
名前を聞かれている。呼ばれたわけではない。
だが、この島で名乗ることには意味がある。
永美は少しだけ考えてから言った。
「私は、小説家だ」
「素晴らしい。今夜は、記録されるべき夜になります」
白装束の信徒たちが、くすくすと笑った。
「小説家ですって」
「残せるといいわね」
「残ったものが、人の言葉ならいいけれど」
透子がそちらを見ると、信徒たちはすぐに笑みを整えた。
ギンが杖を床へ打ちつけた。
「白瀬。前夜祭などとほざくな。浜はまだ開いとらん」
「だからこそ、前夜祭です」
「墓の前で踊るな」
「墓の前だから踊るのです。死者は退屈を嫌いますから」
白瀬の言葉に、信徒たちがまた笑った。
その笑い声の中で、佐伯が叫んだ。
「俺は帰る!」
全員の視線が、佐伯へ向いた。
佐伯は足を引きずりながら立ち上がっていた。
額に汗を浮かべ、目だけが血走っている。
「こんな茶番に付き合えるか。船を出せ。金なら払う。いくらでも払う」
八尾が受付台に腰かけたまま、首を傾げる。
「お金で海が動くなら、皆様もっと幸せでございましたでしょうね」
「黙れ!」
佐伯は叫んだ。
「俺は食われに来たんじゃない。若返る薬があるって聞いたんだ。そういう話だった。こんな怪談みたいな——」
「佐伯とやら」
ギンの声が低く落ちた。佐伯は口を閉じる。
ギンは佐伯の足首を見た。
そこには桟橋で掴まれた指の痕が、黒く浮いている。
「もう呼ばれた名で喚くな。次は足首では済まん」
佐伯は震えた。
白瀬がやわらかく微笑む。
「恐れる必要はありません。人は誰しも、何かを差し出して何かを得るものです」
「差し出す?」
皆川がかすれた声で言った。
白瀬は皆川を見る。
「若さ。命。記憶。名前。愛する人への執着。人は何も持たずに食卓へ座ることはできません」
皆川の手が、スマートフォンを握りしめる。
透子が一歩、皆川の前へ出た。
「その子に喋りかけるな」
「お優しい」
「黙れ」
八尾が鍵束を鳴らした。ちりん、と乾いた音がする。
「皆様。百年浜は明日の夜に開きます。その前に、島の作法だけはお聞きくださいませ」
ギンが低く言う。
「作法などと言うな」
「では、注意事項で」
八尾は微笑む。
「一つ。浜には勝手に降りないこと。二つ。白いものを拾わないこと。三つ。名を呼ばれても返事をしないこと。四つ。海に背を向けて祈らないこと」
永美が眉を上げた。
「最後だけ、少し性質が違うね」
「祈りというものは、誰に向けたかより、誰に聞かれたかの方が大事な場合がございますので」
「実に嫌な宗教論だ」
ギンが杖を握り直した。
「八尾。そこまででいい」
「まだ百年送りのお話が残っております」
「余所者に話すことではない」
白瀬が穏やかに口を挟む。
「いいえ、ギンさん。食卓につく方々には、料理の由来をお伝えするのが礼儀でしょう」
「料理ではない」
ギンの声に怒りが混じった。
「百年送りは、海から来たものを海へ返す夜じゃ。食う夜ではない」
ロビーが静まった。
百年送り。
海から来たものを、海へ返す夜。
ギンは続けた。
「百年に一度、浜に白いものが上がる。昔の者は、それを神とも、魚とも、人とも呼ばんかった。ただ、海のものと呼んだ」
白装束の信徒たちは、笑わなかった。
「布をかけ、名を呼ばず、夜明けまで浜に付き添う。そして潮が満ちたら、海へ返す。それだけじゃ。願いなど捧げん。肉など切らん。口に入れるなど、もってのほかじゃ」
永美は、廊下で見た写真を思い出した。
白い布をかけられた、長いもの。
あれは棺ではない。
皿でもない。そのどちらにもなり得るものだった。
白瀬が静かに言った。
「けれど、返しても誰も救われなかった」
ギンの目が鋭くなる。
「白瀬」
「老いた者は老い、病む者は病み、死んだ者は戻らない。浜に上がる奇跡を、ただ海へ返すだけ。それは本当に信仰ですか?」
「信仰とは、欲の名を変えることではない」
「では、願うことは罪ですか」
白瀬は乗客たちを見渡した。
「不死を願うこと。若さを取り戻したいこと。失った誰かを、もう一度抱きしめたいこと。それらは罪でしょうか」
誰も答えなかった。白瀬は微笑む。
「百年送りは、変わったのです。海へ返すだけの葬式から、海の恵みを分け合う聖餐へ」
「変わったのではない」
ギンが言った。
「汚したんじゃ」
白瀬とギンの視線がぶつかった。
永美は息を呑む。
葬式。晩餐。同じ白い浜。同じ白い布。同じ夜。
返すはずのものを、食べる。
その一線を越えた瞬間、儀式は怪物になる。
「ああ」
永美は小さく笑った。
「やはり、この島では葬式と晩餐が近すぎる」
透子が低く言う。
「笑う場面じゃない」
「すまない。だが、ぞっとするほど美しい」
「本当に最悪だな」
白瀬は永美を見た。
「あなたはわかってくださる気がします」
「何を?」
「人は死を恐れるからこそ美しい。死を拒むからこそ醜い。そして、その醜さの底にこそ、本当の祈りがある」
「腐敗を銀の皿に乗せるのが上手い」
「お褒めいただき光栄です」
「褒めていないと思うが」
透子が呆れたように言った。
白瀬は佐伯へ視線を向けた。
「あなたは若さを望んだ」
佐伯の肩が跳ねる。
「皆川さん。あなたは妹さんのために来た」
皆川の顔から血の気が引く。
透子が即座に遮った。
「事情に触れるな」
「お優しい方だ」
「黙れ」
白瀬は微笑んだまま、両手を広げる。
「人魚の肉は、ただの肉ではありません。人の願いを映す鏡です。何を望むか。何を差し出せるか。それによって、与えられるものは変わります」
佐伯が震える声で言った。
「本当に……若返るのか」
「若返ることもあるでしょう」
白瀬は答えた。
「死ななくなることもあるでしょう。ただし、人間のままでいられるかどうかは、保証できません」
ロビーが静まった。
その言葉だけは、飾りがなかった。
八尾が袖を合わせる。
「本日のご案内はここまででございます。お休みになる方はお部屋へ。祈る方は礼拝堂へ。踊りたい方は、白瀬様のお好きに」
「八尾」
ギンが言った。
「浜へ行く者が出たらどうする」
「止めませんわ」
八尾は微笑んだ。
「止めて聞く方なら、そもそも岩羽島へは来ませんので」
誰も反論しなかった。
ロビーの窓の向こうで、白い浜が見えた。
まだ開いていないはずの浜。
だが永美には、その砂が 口の中に唾液が満ちるように、少しずつ湿っていくように見えた。
白瀬が信徒たちを連れて、奥の廊下へ消えていく。
ギンは反対側の暗い通路へ向かった。
佐伯は足を引きずりながら、部屋へ戻ろうとしている。
皆川だけが、動けずにいた。
透子は、その前に立った。
「皆川」
皆川は返事しかけて、口を閉じる。
透子は少しだけ表情を緩めた。
「今のは私が呼んだ。返事していい」
「……はい」
「一人で礼拝堂へ行くな。白い服の連中にも近づくな。妹の名前は絶対に出すな」
皆川は唇を噛んだ。
「でも、俺は……」
「今は言うな。言えば、そこを掴まれる」
皆川は小さく頷いた。
永美はそれを見ていた。
透子は冷たい女だ。だが、冷酷ではない。
その違いは、たぶんこの島では命に関わる。
永美は手帳を出した。
透子が見る。
「何を書く」
永美は少し考え、短く書いた。
百年送り。
かつて、それは海へ返す葬式だった。
今では、願いを切り分ける晩餐である。
書き終えると、喉の傷がじくりと痛んだ。
ホテルに集められた人間たちは、どれもこれも新鮮に腐り始めていた。
永美はそれを、美しいと思った。
島を訪問したもの、島のもの。彼らは様々な目的を持っている。
これから何が起ころうとしているのか、誰が知っているのか—それすらわからない。




