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ホテル真珠湾

ホテルに着いた一行。しかし透子の宿泊者登録がないことがわかり—?

 ホテルの扉は、八尾が開けた。


 中から流れてきたのは、湿った木材と黴と、古い消毒液の匂いだった。


 ロビーは薄暗かった。


 南国風の観葉植物は茶色く枯れ、壁には貝殻を模した装飾が残っている。天井のシャンデリアは半分だけ灯り、半分は死んでいた。床のタイルはところどころ割れ、その隙間に黒い砂が入り込んでいる。


 八尾は受付台の内側へ回った。


 いつのまに移動したのかわからなかった。ついさっきまで先頭を歩いていたはずなのに、気がつけば彼女は、古い宿帳の前で微笑んでいた。


「では皆様、お部屋をお配りいたします」


 その声に、乗客たちが少しだけ息をついた。


 部屋という言葉には、人を一瞬だけ日常へ引き戻す力がある。鍵があり、扉があり、ベッドがある。そう思えば、この島もまだ宿泊施設の形をしているように見える。


 八尾は鍵束を持ち上げた。


 真鍮の鍵がいくつもぶら下がっている。番号札は潮で変色し、いくつかは文字が読めない。鍵が触れ合うたび、ちりん、と乾いた音が鳴った。


「佐伯様」


 足首を押さえて震えていた中年の男が、びくりと肩を跳ねさせた。

 八尾はにこりと笑った。


「一〇一号室でございます。階段を使わずに済みますよ。足を掴まれた方には、なかなか親切な配置かと」


 佐伯は鍵を受け取らなかった。八尾は首を傾げる。


「どうぞ。鍵は噛みませんわ」

 

 佐伯は震える手で鍵を奪い取った。


 次に、八尾は青ざめた若い男を見た。


「皆川様」


 皆川は答えなかった。八尾は楽しそうに目を細める。


「早速適応なさっていて、お利口ですね。では、二〇五号室へ。お一人のお部屋です。ですが、お一人でいると思い込みすぎないように」


 皆川の顔がさらに青くなった。


「……それ、どういう意味ですか」


「孤独にも、種類がございますので」


「こ、答えになってない」


「この島では、答えになっていない答えほど長持ちいたします」


 皆川は鍵を受け取り、黙って下を向いた。

 八尾は宿帳へ視線を落とした。


「永美至様」


「はい」


 永美が返事をすると、透子が眉を寄せた。


「不用意に返事するな」


「今のは宿の受付だろう?」


「この島では全てを疑うべきだ」


「ふむ、実に建設的な助言だ」


 八尾は永美に鍵を差し出した。


「二〇七号室でございます」


「ありがとう。受け取らせていただくよ」


「あ、一つ忠告が。どうか窓は開けないでくださいませ。海が見えますので」


「うん?海が見えるからこそ、開けるのでは?」


「ここでは、見えるものが外にあるとは限りません」


「素敵な忠告だ。ありがとう。ここに来てからはときめくような言葉ばかり人々からかけてもらえるね」


「お褒めにあずかり光栄です」


 永美が鍵を受け取ろうとした、その時だった。

 八尾の視線が、すっと透子へ移った。


「ところで」


 声の温度が、少しだけ変わった。


「鴉宮透子様」


 透子の動きが止まった。


 八尾は宿帳を指すように、長い袖をわずかに揺らした。手は見えない。


「こちらに、お名前がございません」


 ロビーの空気が、小さく固まった。


 永美は透子を見る。

 透子は無表情だった。

 だが、眼鏡の奥の目だけが一瞬、鋭く動いた。

 八尾は微笑む。


「おかしいですね。船に乗っていらした。けれど、宿泊名簿にはいらっしゃらない。まるで、いないはずのお客様が紛れ込んでいるようでございます」


 佐伯が怯えた顔で透子を見た。

 皆川も顔を上げる。


 透子は沈黙した。

 永美は理解した。


 この女は、正規の乗客ではない。


 船に乗っていたのではなく、忍び込んでいたのだ。

 透子が低く言った。


「書き漏れだ」


「まあ。書き漏れ」


 八尾は楽しそうに目を細める。


「この島では、書かれていないものは、存在しないことになりがちでございます。お気をつけくださいませ。存在しないお客様は、部屋にも食卓にも席がございません」


「席はいらない」


「では、どちらへ? 浜でしょうか。海でしょうか。それとも、先ほど佐伯様を呼んだ方のところへ?」


 透子の指が、わずかに動いた。

 殴るつもりか——永美はそう思った。


 しかし透子は殴らなかった。


 代わりに、永美の腕を掴んだ。


「私は、この人の連れだ」


 永美は瞬きをした。


「へ?私?」


 透子の指が、永美の腕へ食い込む。


「黙って合わせろ」


「なるほど。私は今、何かの物語に巻き込まれているわけだね」


「だ・ま・れ」


 八尾は、にこりと笑った。


「お連れ様」


 その響きは、明らかに足りないと言っていた。


「ええ。お連れ様。便利な言葉でございますね。友人、仕事仲間、護衛、監視役、殺し屋、密偵。何でも入ってしまう」


 透子の眉が動いた。

 八尾はさらに首を傾げる。


「ですが、宿帳というものは少々古風でして。ただのお連れ様では、お部屋をお分けできない場合がございます」


「面倒くさい宿だな」


「古い宿ですので」


 透子は一秒だけ黙った。

 そして、何の感情も込めずに言った。


「恋人だ」


 ロビーが静まり返った。


 永美は、喉の傷の痛みを忘れた。


「……鴉宮透子氏。今、私はたいへん詩的な幻聴を聞いた気がする」


「…………」


 透子は耐えるように震えている。耳が朱に染まる。


「恋人?」


「そうだ」


「私と?」


「そうだ」


「いつから?」


「今からだ」


「実に急な恋だ……まるで真夏の夜の夢のような——」


「殺すぞ」


 八尾が袖で口元を隠すような仕草をした。


「まあ……」


 その一言だけで、ロビー全体を小馬鹿にしていた。


「恋人でございましたか」


「そうだ」


 透子は即答した。


「では、証明を」


 八尾が言った。


 透子の目が冷えた。


「何をさせる気だ」


「ウフフ、そう緊張なさらないで。口づけなどと野暮は申しませんことよ。島はそこまで下品ではございませんので」


「揶揄うのも大概にしていただきたい」


「では、もっと簡単に……」


 八尾は永美を見る。


「永美様。鴉宮様を、何とお呼びに?」


 永美は微笑んだ。


「美しき我が(ひと)、透子」


「却下だ」


 透子が即座に言った。


「では、透子さん」


「馴れ馴れしい」


「恋人なのに?」


「調子に乗るなよ」


 八尾が声を立てずに笑った。


「よろしいですねえ。嘘は、生まれたてが一番よく跳ねます」


 透子が八尾を睨む。


「部屋は」


「もちろん、二〇七号室でございます」


 八尾は永美の手に鍵を落とした。

 鍵は冷たかった。


「お二人で、()()()。ねぇ?」


「仲良くはしない」


 透子が言う。


「あら、大変お二人は噛み合っていると言うのに」


「こいつが噛みついてるだけだ」


「恋人というのは、時にそういうものでございます」


「違う」


「では、違うままお楽しみくださいませ」


 永美は鍵を見下ろした。


 二〇七。


 古い真鍮の札に刻まれた数字が、薄い灯りを受けて鈍く光っている。


「透子さん」


「何だ」


「私は約束を破らない男だ」


「急に何だ」


「つまり、恋人という設定にも、それなりの責任を持とう」


 透子は永美を見た。心底、嫌そうだった。


「持つな。そんな責任は即刻捨てろ」


「だが、()()()なのだろう?」


「黙れ。あれは方便だ」


「方便から始まる恋もある」


「ない」


「断言が早いな……もっと——」


「ない」


 八尾が受付台の向こうで嬉しそうに言った。


「お部屋までは階段を上がって右手でございます。廊下の鏡は、あまり長く覗かないでくださいませ。気に入った顔を、向こうが覚えてしまいますので」


「ただの鏡が?」


 永美が聞く。


「危険ではございません。少々、記憶力がよいだけです」


「はあ……この宿には、まともな物がないのか」


 透子が言う。


「ございますよ」


 八尾はにこやかに答えた。


「お客様方の恐怖など、大変まともでございます」


 誰も返事をしなかった。二人は階段へ向かった。

 背後で、八尾の声が追いかけてくる。


「ああ、それから」


 永美と透子は同時に振り返った。八尾は微笑んでいた。


「恋人同士でしたら、夜中に名前を呼ばれても、互いに返事を止めて差し上げてくださいませ」


 透子が言った。


「言われなくてもそうする」


「あら、とても頼もしいこと」


 八尾は、ほんの少し声を低くした。


「ですが、呼ぶ声が互いの声だった時も、同じようにできますでしょうか?愛しい恋人同士の——」


 透子は答えなかった。

 永美も、すぐには答えなかった。


 八尾は満足そうに目を細める。


「よい夜を。二〇七号室のお二人様」


 階段は、湿気を吸ってぎしぎしと鳴った。


 廊下は長い。外から見たホテルの大きさと、どうにも合わない。壁紙は湿気で膨れ、古い観光写真が何枚も掛かっている。


 白い浜辺。黒い岩山。笑う水着の男女。

 布をかけられた長いものが浜に横たわる写真。


 永美は足を止めかけた。透子が袖を掴む。


「今は見るな」


「あなたは私の行動を先回りするのが上手いね」


「わかりやすいから」


「それは褒め言葉?」


「違う」


 二〇七号室の前で、透子は鍵を奪うように取った。


「鍵は私が持つ」


「恋人なのに?」


「恋人だからだ」


「なるほど。なかなか支配的な関係性だ、こう言う関係性も悪くはないかな」


「殴られたくなければさっさとその口を閉じろ」


 透子は鍵を差し込む前に、扉へ耳を当てた。


「慎重だ」


「当然だ」


 鍵が回り、扉が開く。部屋の中は暗かった。


 ツインルームだった。ベッドが二つ。小さなテーブル。窓際に藤の椅子が二脚。壁には、魚と女の影が絡み合う絵が掛かっている。絨毯は湿気を吸って重く、足を乗せると少し沈んだ。


 窓の向こうには、白い浜が見えた。

 透子はまず窓へ行き、鍵を確認した。


「開けるなと言われていたね」


 永美が言う。


「言われたから確認する」


「おお、実に反抗的だね」


「安全確認だ」


 その時、部屋の電話が鳴った。黄ばんだ電話だった。元は白かったのだろう。


 じりりりり、と乾いた音が響く。

 透子は受話器を見た。


「取るな」


「まだ何もしていないじゃないか」


「取ろうか迷っている顔だったぞ」


「よく見ているねぇ……そんな情熱的に見つめられては焦げてしまいそうだ」


 電話は三度鳴って、止まった。


 静寂。


 それから、隣の壁を誰かが軽く叩いた。こん、こん。


 透子が即座に壁を見る。

 永美もそちらを見た。


 八尾の声が、どこからか聞こえた気がした。


 ——呼ぶ声が互いの声だった時も、同じようにできますでしょうか。


 もう一度、壁が鳴った。


 こん。


 こん。


 今度は、少しだけ低い位置から。


 まるで、壁の向こうで誰かが床に座り、指先でこちらを呼んでいるようだった。


 透子は低く言った。


「返すな」


「もちろん」


 永美は喉の傷を押さえながら、白い浜の見える窓を見た。

 だがこの島においては、これでもきっと、穏やかな夜なのだろう。

透子はその後、ついたてなどのバリケードをホテル中から集め、永美とのベットの間に境界線を築いたそうだ。

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