百年浜の道
謎の存在から男を助けたものの、島は不気味さを増してゆく、宿泊者の道すがら、永美たちは百年浜のそばを通り過ぎる。
透子が救出した男は、桟橋の上でうずくまり、震えていた。
足首には、赤黒い痣が指の形に残っている。
桟橋に落ちた白い指は、しばらくぴくぴくと動いていた。やがて湯気のようなものを上げ、干からびた魚の骨のように縮んでいく。
八尾が、ゆっくりと拍手した。
「お見事でございます、鴉宮様。礼儀正しい方ほど沈みやすいと申し上げましたのに、助けて差し上げるとは」
透子が八尾を睨む。
「こうなるとわかっていたのだろう」
「よくあることでございますから」
「そんなわけない……!」
透子が一歩、八尾へ近づいた。
八尾は逃げない。
袖の長い腕を体の前で重ね、優雅に微笑んでいる。
「私の対応に関しまして、何か意見がございますでしょうか?」
「ある」
「フフ、それは結構なことで。怒れる方はまだ、自分の形を見失っておりませんから」
桟橋の下で、水音がした。
誰も覗かなかった。
佐伯と呼ばれた男は、這うように桟橋の中央へ戻った。もう船へ戻ろうとはしなかった。足首を抱え、歯を鳴らしている。
八尾は何事もなかったように、乗客たちを見渡した。
「では、改めまして」
その声は穏やかだった。
「島内でお名前を呼ばれましても、すぐにお返事なさらぬようお願い申し上げます。たった今、実演も済みましたので、覚えやすくなりましたでしょう?」
誰も何も言わなかった。
「皆様、どうぞこちらへ。今夜の島唯一のお宿まで、少し歩きます」
八尾は踵を返した。
永美はその背中を見た。
誰かが死にかけた直後だというのに、彼女は歩調を変えない。
桟橋を渡りきる直前、永美はふと沖を見た。
雨と夜の向こうに、妙な黒い場所がある。
ただの闇ではない。海面の一部が、四角く沈んでいるように見える。
波の形がそこだけ違う。
巨大な何かが、灯りをすべて消して沖に横たわっているようだった。その奥で、一瞬だけ赤い光が瞬いた。
透子も同じ方向を見ている。
「沖に何かある」
永美が言う。
八尾は振り返り、笑った。
「海には、たいてい何かございますよ。知らんふりをして差し上げるのも、陸の礼儀です」
「あなたは本当に、答えないことが上手い」
「ありがとうございます。答えは、時に質問より品格に欠けますので」
桟橋を渡りきると、低い石段があった。
八尾が言った。
「ここから先が百年浜です」
浜は月が出ていないにもかかわらず、白かった。
砂の一粒一粒が、内側にかすかな光を含んでいるように見える。
海辺には流木がいくつも打ち上げられていた。
いや、流木ではないものも混じっている。長く、曲がり、節のようなものがあり、木にも骨にも見えた。
浜辺の奥には、羽を裂いたような、魚の尾を割ったような黒い岩山が立っている。
八尾は浜へ降りず、石段の上を左へ曲がった。
「浜に入ることはできないのかい」
永美が聞く。
「今夜はまだ、浜が開いておりません」
「浜というのは開くものなのか?」
「ええ。閉じもします。口と同じです」
永美は黙った。口と同じ——面白い例えをする。
「百年浜は、明日の夜に開きます」
乗客たちの足が、わずかに遅くなった。
「百年送りの夜でございます」
「百年送り……」
永美が、その言葉を口の中で転がした。
以前聞いた哀川の話がよぎる——
百年送りにて供される肉こそが、不死をもたらす人魚の肉なのだと、そう永美は聞いていた。
「島の祭り、と聞いている」
「ええ。祭りであり、葬りであり、約束でございます」
「一体、何を送る?」
八尾は白い浜を見た。
その横顔だけが、少しだけ笑っていなかった。
「海から来たものを、海へ」
「それは……死者?」
「ええ……死者も。名も。肉も。願いも」
透子が眉を寄せる。
「曖昧に言うな」
「曖昧にしておいた方が、生き残りやすいこともございますわ」
「明日の夜に、何かが上がるということか」
八尾は答えなかったが、代わりに、白い砂を指さした。
「浜が開くまでは、降りてはなりません。白いものが落ちていても拾わないでくださいませ。拾ってはならぬものかどうか、拾うまでわかりませんので」
後ろの乗客が小さく呻いた。
「また、海から手を振られましても、振り返さないように。礼儀正しい方から順に、よく沈みます」
佐伯が震えた。
永美は白い浜を見た。
葬式。祭り。約束——そして肉。
言葉が並ぶたび、浜が少しずつ食卓に見えてくる。
「それで……百年送りとは、誰のための儀式なのかな」
永美が聞いた。
「送られる方のためでございます」
「送られる方の……?」
永美の怪訝な顔に八尾は笑った。
「では、どなたのためだと?」
「もちろん島側——つまり送る側だ。島に残された者たちは、何かを海へ返したという形が欲しい。そうでなければ、失ったものに耐えられない」
永美は浜の奥を見た。
「ふむ……この島では、二つの儀式が同居している」
透子が永美を見る。
「どういう意味だ」
「八尾氏の話では、葬式と晩餐のようなものが同時に行われる——それが百年送りだと考えている」
「悼むべき葬式で豪奢な晩餐とはまた不謹慎というか——不気味だな」
「ふふ……だからこそここに来た」
八尾が、袖の奥で手を組んだまま、くすくす笑った。
「よろしいですねえ。好奇心のある方は島に好かれます」
八尾の言葉に永美は笑った。
この島に好かれると何が起こる——?
道の片側は浜。
もう片側は黒い森。
森には古い鳥居のようなものがいくつも並んでいる。
ただし、神社へ続いているわけではない。鳥居はそれぞれ別の方向を向き、いくつかは半分砂に埋まっていた。
乗客たちは黙って歩いた。
やがて、後ろで小さな音がした。
船室で見た、青ざめた顔の若い男だった。
背を丸め、スマートフォンを握っている。電波を探しているのだろう。
八尾が立ち止まった。
「電波は入りませんよ」
若い男がびくりと肩を震わせた。
「……別に、電波なんて」
「そうですか。妹さんは、お待ちでしょうにね」
若い男の顔から血の気が引いた。
透子が即座に八尾を見る。
「なぜそいつの事情を知ってる」
「皆様、事情がおありでしょう? こちらへ来るような方々なのですから」
「趣味が悪いな」
「うふふ……お褒めの言葉と受け取ります」
若い男は唇を噛み、何も言わなかった。
透子が低く言う。
「名前は」
若い男は警戒した顔で透子を見た。
「……皆川」
「下は言わなくていい」
透子は言った。
「この島で、大事な名前を軽く出すな」
皆川は小さく頷いた。
永美は微笑む。
「鴉宮氏は、存外に世話焼きだ」
「黙れ」
「照れなくてもいいんだよ」
「本当に黙れ。次は拳を飛ばすぞ」
八尾がくすくす笑う。
「よろしいですねえ。燃えやすいものに風を送ると、めらめらとよく燃える」
「お前は黙って案内しろ」
「はい。喜んで」
道はやがて浜から離れ、島の内側へ入っていった。
民家らしき影が見えた。
だが、灯りは少ない。
窓の奥に人の気配はある。あるのに、誰も外へ出てこない。
ただ、見られている。
カーテンの隙間。雨戸の穴。軒下の暗がり。
島民たちは、こちらを見ていた。
歓迎ではない。敵意でもない。また来たのか。
そう言っているようだった。
永美はその視線を浴びながら歩いた。
「つきつきと全身に刺さるねぇ。良い視線だ」
透子が即座に言った。
「歓迎はされていないだろう。私が現地の人間でも同じ顔をする」
「得体の知れない余所者に生活圏を荒らされるのは気持ちの良いことではないからね」
「目的がある以上、仕方ない」
「仕方ない、か。便利な言葉ほど、人を醜くする」
「あなたは本当に面倒くさい」
「よく言われる」
森を抜けると、古い舗装道路に出た。
錆びたバス停があった。
時刻表は剥がれ、ベンチは傾き、屋根には海鳥の糞が白く固まっている。看板には、かすかに文字が残っていた。
百年浜前。
その下に、刃物で傷つけたような文字が刻まれている。
かえるな。
永美はそれを見て、眉を上げた。
「帰るな、返るな、孵るな……どれだろうね」
「考えたところで肉が手に入るのか?」
「案外、地道な考察が良い結果に導いてくれることもある」
「踏み込みすぎて戻れなくなることもある」
「それを恐れていたら小説家は務まらない」
道路の先に、ようやく建物が見えてきた。
宿というより、古いリゾートホテルの残骸だった。
白い外壁は潮風で汚れ、蔦が絡み、看板の文字は半分落ちている。
入口には貝殻を模した装飾が残り、割れた噴水には雨水が溜まっていた。
かつては明るい場所だったのだろう。
南国風の楽園を目指した、安っぽく、浮かれた、よくある観光の夢がそのまま腐って残っている。
八尾が振り返った。
「こちらが今夜のお宿でございます」
彼女は、朽ちたホテルへ向けて優雅に頭を下げた。
「ご安心くださいませ。少なくとも今夜のうちは、まだ皆様の番ではございません」
誰かが、震えた声で聞いた。
「今夜のうちは、って……」
八尾は微笑んだ。
「ええ」
雨がまた、細く降り始める。
「今夜のうちは」
八尾の導きにより、ついに宿泊所までついた。この島は何もかも、信じることができない。




