八尾
島は上陸した永美と透子。そこで島を訪ねた人々を怪しい女がまとめ始める—
船が、低く軋んだ。
甲板の下で何か大きなものが寝返りを打ったような音だった。古い船体は最後の抵抗のように波を掻き、黒い海へ突き出した桟橋の脇に、ゆっくりと腹を寄せた。
岩羽島の桟橋は、暗かった。
港と呼ぶにはあまりに小さく、船着場と呼ぶにはあまりに古い。濡れた木板はところどころ剥がれ、鉄の杭は赤黒く錆びている。灯りは少ない。錆びたポールの先で、電球がひとつだけ明滅していた。
その乏しい光の中に、女が立っていた。
長い黒髪が、夜風に流れている。
身に纏っているのは、喪服にも、法衣にも、シスターの服にも似た黒い衣装だった。ただし敬虔さはない。胸元はわずかに開き、白い肌が夜気の中でぼんやり浮かんでいる。
水棲の類の不気味なあの透明感。
薄膜に守られた内臓のような静謐で不気味な美しさ——
夜の浜辺に置き忘れられた聖女像。
死者のために化粧を施された人形。
あるいは、海から拾い上げられて、まだ乾ききっていない夢。
そういうものに近かった。
永美至は、喉に貼られた即席のガーゼを指で押さえたまま、その女を見ていた。
「あれは厄介だな」
永美が言った。
隣で、鴉宮透子が目を細める。
「さっきから何でも言っているが、見すぎるな」
「無理だね。僕はあの存在を目で拝受するのさ」
「あれはあなたに施さない。あれは、たぶん見返してくる」
永美はわずかに笑った。
「そりゃ良いね……」
「いいえ。良くない」
船員が無言で渡し板をかけた。
板が桟橋に触れた瞬間、濡れた木が低く鳴る。
誰も先に降りようとしなかった。
先ほどスピーカーから流れた奇妙な案内のせいだろう。あの声がまだ全員の耳の奥に残っている。礼儀正しく、楽しげで、そして明らかに人を食った声。
桟橋の女が、そこで初めて口を開いた。
「ようこそ、皆様」
声は静かだったが、よく通った。
船室のスピーカーから聞こえた声に似ていた。
女は、深々と頭を下げた。
「岩羽島へ。今夜はずいぶんと、良い顔ぶれが揃いましたね」
「どうぞお降りくださいませ。足元にはくれぐれもお気をつけを。濡れておりますし、うっかり踏み外しますと、そのまま海へお帰りになる方もいらっしゃいますので」
冗談めかした口調だった。
だが、その声には一片の冗談もなかった。
透子が先に動いた。
「先に降りる」
「君が?」
「黙ってついて来い」
「光栄だ」
「勘違いするな。邪魔なら置いていく」
「それもまた君らしい」
透子は永美の返答を無視して、渡し板へ足をかけた。濡れた板の上でも、彼女の重心は一切ぶれない。
続いて永美も桟橋へ降りる。
足が木板に触れた瞬間、甘い匂いがした。
熟れすぎた無花果。傷んだ花。濡れた髪。
そして、ほんのわずかな血。
永美は微笑んだ。
「何だろう。何か良い匂いだ」
透子が横目で睨む。
「一度その鼻を疑ったら?」
「私は美意識が繊細なんだ。時に唾棄され、忌避されるような素材だって芳しい香水の材料になりうるものさ」
「香水の話は、一理ある。だがこの匂いはそういうものの良さとは別だ」
そのやり取りを、桟橋の女は楽しそうに眺めていた。
近くで見ると、ますます人間離れした美貌だった。瞳は黒にも、濡れた藍にも見える。整いすぎた顔立ちのどこか一箇所だけが、わずかに狂っている。その狂いが、女の顔に生きた不気味さを与えていた。
女は透子を見た。それから永美を見る。
喉のガーゼに視線が止まった。
「まあ。船の上で騒いでいらした方々ですね」
永美が眉を上げる。
「聞こえていたのかい」
「ええ。夜の海は、ずいぶんと音が運ばれるものですから」
「それは光栄だ。見苦しいところをお見せした」
「いいえ、とんでもない。大変結構でした。血の匂いというものは、歓迎の花束よりはるかに島らしい」
透子の目が冷えた。
「何者だ」
女は、ほんの少しだけ首を傾げた。
「ご挨拶が遅れました。八尾と申します」
「それだけか」
「それだけで足りませんか?」
「足りない」
「では、足りないままお付き合いくださいませ。満たされないまま進むのも、旅の醍醐味でございます」
慇懃な声だった。だが、礼儀ではない。
礼儀の形をした侮辱だった。
永美は、その慇懃無礼さが気に入った。
「八尾さん。あなたにお尋ねしたいんだが、あなたは人なのかな」
透子が露骨に嫌そうな顔をする。
「あなたはことごとく社会不適合者の小説家のイメージを覆さないな」
「しかし、重要な質問だろう」
「聞き方が最悪だし失礼だといっている」
八尾は、ふっと笑った。
「それは、どちらの意味で?」
「ずいぶん意地の悪い返しだ」
「よく言われます」
「褒め言葉として受け取ってくれ」
「では、そのように」
その時、乗客の一人が叫んだ。
「ふざけるな!」
中年の男だった。
船室では隅の席で黙っていた男だ。今は顔を赤くし、荷物を抱えたまま渡し板の方へ戻ろうとしている。
「俺はこんな不気味な島に降りるなんて聞いてない。途中、海で何かを見たぞ!こんな島、冗談じゃない。船を出せ。今すぐ戻せ!」
船員は何も言わなかった。
八尾も止めなかった。ただ、微笑んでいる。
「お帰りの船はございません」
「あるだろうが! 今乗ってきた船が!」
「お気の毒に。あれは、来るための船でございます。帰るための船ではございません。この島に来るには宿泊予定場所の登録が必要ですので、皆様もご承知のはずです」
「何言ってやがる!」
男は渡し板へ足をかけた。その時だった。
桟橋の下から、声がした。
——佐伯。
男の動きが止まった。透子が即座に顔を上げる。
「返事するな」
だが、遅かった。
男は蒼白な顔で、桟橋の隙間を見下ろした。
「……誰だ」
その瞬間、濡れた木板の隙間から、白い手が伸びた。
人間の手に似ていた。
だが、長い。指が細すぎる。水にふやけたように白く、爪だけが黒い。それが男の足首を掴んだ。
「うわああああ!」
男の身体が前のめりに倒れる。荷物が桟橋に落ち、中身が散った。紙幣、薬瓶、何かの写真。男は必死に板へ爪を立てたが、足首を掴む白い手は、ぬるりと海の方へ引きずっていく。
乗客たちが悲鳴を上げた。
透子が動いた。
彼女は桟橋を蹴り、男の襟を掴んだ。片膝を板に立て、もう片方の足で桟橋の杭を押さえる。三つ編みが濡れた空気を裂くように跳ねた。
「引くな! 暴れるな!」
男は錯乱して叫んだ。
「足が、足が!」
白い手はさらに強く引いた。男の身体が、桟橋の端へ半分落ちる。
透子の腕に力が入る。
永美は、その瞬間の透子の顔を見た。
冷たい顔。高慢な顔。だが、そこには確かな怒りがあった。
不必要に人が傷つくことへの怒り。
透子は片手で男を掴んだまま、もう片方の手で落ちていたナイフを拾った。船上で奪った安物の刃だ。
「手を離せ」
白い手は離さない。
「離せと言った」
透子は躊躇なく刃を振り下ろした。
白い手の指が二本、桟橋の上に落ちた。
次の瞬間、桟橋の下で何かが甲高く笑った。子供の声のようでもあり、女の声のようでもあり、魚の鳴き声のようでもあった。
白い手が海へ引っ込む。
透子は男の襟を引き、桟橋の上へ転がした。
島は早くも牙を向く—




