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3/10

八尾

島は上陸した永美と透子。そこで島を訪ねた人々を怪しい女がまとめ始める—

船が、低く軋んだ。


 甲板の下で何か大きなものが寝返りを打ったような音だった。古い船体は最後の抵抗のように波を掻き、黒い海へ突き出した桟橋の脇に、ゆっくりと腹を寄せた。


 岩羽島の桟橋は、暗かった。


 港と呼ぶにはあまりに小さく、船着場と呼ぶにはあまりに古い。濡れた木板はところどころ剥がれ、鉄の杭は赤黒く錆びている。灯りは少ない。錆びたポールの先で、電球がひとつだけ明滅していた。


 その乏しい光の中に、女が立っていた。

 長い黒髪が、夜風に流れている。


 身に纏っているのは、喪服にも、法衣にも、シスターの服にも似た黒い衣装だった。ただし敬虔さはない。胸元はわずかに開き、白い肌が夜気の中でぼんやり浮かんでいる。


 水棲の類の不気味なあの透明感。

 薄膜に守られた内臓のような静謐で不気味な美しさ——


 夜の浜辺に置き忘れられた聖女像。

 死者のために化粧を施された人形。

 あるいは、海から拾い上げられて、まだ乾ききっていない夢。


 そういうものに近かった。


 永美至は、喉に貼られた即席のガーゼを指で押さえたまま、その女を見ていた。


「あれは厄介だな」


 永美が言った。


 隣で、鴉宮透子が目を細める。


「さっきから何でも言っているが、見すぎるな」


「無理だね。僕はあの存在を目で拝受するのさ」


「あれはあなたに施さない。あれは、たぶん見返してくる」


 永美はわずかに笑った。


「そりゃ良いね……」


「いいえ。良くない」


 船員が無言で渡し板をかけた。

 板が桟橋に触れた瞬間、濡れた木が低く鳴る。


 誰も先に降りようとしなかった。


 先ほどスピーカーから流れた奇妙な案内のせいだろう。あの声がまだ全員の耳の奥に残っている。礼儀正しく、楽しげで、そして明らかに人を食った声。


 桟橋の女が、そこで初めて口を開いた。


「ようこそ、皆様」


 声は静かだったが、よく通った。

 船室のスピーカーから聞こえた声に似ていた。


 女は、深々と頭を下げた。


「岩羽島へ。今夜はずいぶんと、良い顔ぶれが揃いましたね」

「どうぞお降りくださいませ。足元にはくれぐれもお気をつけを。濡れておりますし、うっかり踏み外しますと、そのまま海へお帰りになる方もいらっしゃいますので」


 冗談めかした口調だった。

 だが、その声には一片の冗談もなかった。


 透子が先に動いた。


「先に降りる」


「君が?」


「黙ってついて来い」


「光栄だ」


「勘違いするな。邪魔なら置いていく」


「それもまた君らしい」


 透子は永美の返答を無視して、渡し板へ足をかけた。濡れた板の上でも、彼女の重心は一切ぶれない。


 続いて永美も桟橋へ降りる。

 

 足が木板に触れた瞬間、甘い匂いがした。

 熟れすぎた無花果。傷んだ花。濡れた髪。

 そして、ほんのわずかな血。

 永美は微笑んだ。


「何だろう。何か良い匂いだ」


 透子が横目で睨む。


「一度その鼻を疑ったら?」


「私は美意識が繊細なんだ。時に唾棄され、忌避されるような素材だって芳しい香水の材料になりうるものさ」


「香水の話は、一理ある。だがこの匂いはそういうものの()()とは別だ」


 そのやり取りを、桟橋の女は楽しそうに眺めていた。


 近くで見ると、ますます人間離れした美貌だった。瞳は黒にも、濡れた藍にも見える。整いすぎた顔立ちのどこか一箇所だけが、わずかに狂っている。その狂いが、女の顔に生きた不気味さを与えていた。


 女は透子を見た。それから永美を見る。

 喉のガーゼに視線が止まった。


「まあ。船の上で騒いでいらした方々ですね」


 永美が眉を上げる。


「聞こえていたのかい」


「ええ。夜の海は、ずいぶんと音が運ばれるものですから」


「それは光栄だ。見苦しいところをお見せした」


「いいえ、とんでもない。大変結構でした。血の匂いというものは、歓迎の花束よりはるかに島らしい」


 透子の目が冷えた。


「何者だ」


 女は、ほんの少しだけ首を傾げた。


「ご挨拶が遅れました。八尾(やお)と申します」


「それだけか」


「それだけで足りませんか?」


「足りない」


「では、足りないままお付き合いくださいませ。満たされないまま進むのも、旅の醍醐味でございます」


 慇懃な声だった。だが、礼儀ではない。

 礼儀の形をした侮辱だった。

 永美は、その慇懃無礼さが気に入った。


「八尾さん。あなたにお尋ねしたいんだが、あなたは人なのかな」


 透子が露骨に嫌そうな顔をする。


「あなたはことごとく社会不適合者の小説家のイメージを覆さないな」


「しかし、重要な質問だろう」


「聞き方が最悪だし失礼だといっている」


 八尾は、ふっと笑った。


「それは、どちらの意味で?」


「ずいぶん意地の悪い返しだ」


「よく言われます」


「褒め言葉として受け取ってくれ」


「では、そのように」


 その時、乗客の一人が叫んだ。


「ふざけるな!」


 中年の男だった。

 船室では隅の席で黙っていた男だ。今は顔を赤くし、荷物を抱えたまま渡し板の方へ戻ろうとしている。


「俺はこんな不気味な島に降りるなんて聞いてない。途中、海で何かを見たぞ!こんな島、冗談じゃない。船を出せ。今すぐ戻せ!」


 船員は何も言わなかった。

 八尾も止めなかった。ただ、微笑んでいる。


「お帰りの船はございません」


「あるだろうが! 今乗ってきた船が!」


「お気の毒に。あれは、来るための船でございます。帰るための船ではございません。この島に来るには宿泊予定場所の登録が必要ですので、皆様もご承知のはずです」


「何言ってやがる!」


 男は渡し板へ足をかけた。その時だった。

 桟橋の下から、声がした。


 ——佐伯。


 男の動きが止まった。透子が即座に顔を上げる。


「返事するな」


 だが、遅かった。

 男は蒼白な顔で、桟橋の隙間を見下ろした。


「……誰だ」


 その瞬間、濡れた木板の隙間から、白い手が伸びた。

 人間の手に似ていた。

 だが、長い。指が細すぎる。水にふやけたように白く、爪だけが黒い。それが男の足首を掴んだ。


「うわああああ!」


 男の身体が前のめりに倒れる。荷物が桟橋に落ち、中身が散った。紙幣、薬瓶、何かの写真。男は必死に板へ爪を立てたが、足首を掴む白い手は、ぬるりと海の方へ引きずっていく。


 乗客たちが悲鳴を上げた。

 透子が動いた。


 彼女は桟橋を蹴り、男の襟を掴んだ。片膝を板に立て、もう片方の足で桟橋の杭を押さえる。三つ編みが濡れた空気を裂くように跳ねた。


「引くな! 暴れるな!」


 男は錯乱して叫んだ。


「足が、足が!」


 白い手はさらに強く引いた。男の身体が、桟橋の端へ半分落ちる。


 透子の腕に力が入る。


 永美は、その瞬間の透子の顔を見た。

 冷たい顔。高慢な顔。だが、そこには確かな怒りがあった。

 不必要に人が傷つくことへの怒り。


 透子は片手で男を掴んだまま、もう片方の手で落ちていたナイフを拾った。船上で奪った安物の刃だ。


「手を離せ」


 白い手は離さない。


「離せと言った」


 透子は躊躇なく刃を振り下ろした。

 白い手の指が二本、桟橋の上に落ちた。


 次の瞬間、桟橋の下で何かが甲高く笑った。子供の声のようでもあり、女の声のようでもあり、魚の鳴き声のようでもあった。


 白い手が海へ引っ込む。

 透子は男の襟を引き、桟橋の上へ転がした。

島は早くも牙を向く—

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