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2/10

岩羽島へようこそ

小説家、永美至(ながみいたる)は或る人魚伝説の島への船に乗り込んでいた—

 永美至(ながみいたる)は、今この瞬間殺されかけていた。


 夜の海は黒い。黒いというより、光を拒んでいる。

 古い小型船の腹を波が叩くたび、錆びた船体が低く軋んだ。甲板に落ちた雨は照明を吸い、黄色く滲んでいる。


 美しい夜だ。


 永美至はそう思った。


 自分の喉元にナイフを押し当てられている状況としては、やや不謹慎な感想である。


「おい、聞いてんのか」


 男が言った。


 潮と煙草と安い酒の匂いがした。

 右手にナイフ。左手で永美の襟元を掴んでいる。


「聞いているさ」


 刃が喉に触れているせいで、声を出すたびに皮膚がわずかに引きつった。


「ただ、少し気になることがあって」


「あ?」


「ここで揉め事はよしてくれ。この美しい夜の海に失礼だ」


 男は一瞬、理解できないものを見た顔をした。

 次に、怒鳴った。


「ふざけてんのか」


「いや、かなり真面目だ。雨に濡れた甲板、頼りない照明、黒い海、遠くでまだ見えない島。舞台としては申し分ない。だからこそ、君の態度は海への敬意が足りない」


「黙れ」


「難しい注文だな。私は小説家なんだ。黙ると職能が死ぬ」


 男の手に力が入った。


 刃が沈む。

 皮膚が切れ、熱いものが一筋、喉を伝った。


 恐怖が遅れてやってくる。


 だが、それより先に永美は血の感触を観察していた。

 ぬるく、細く、夜気に触れてすぐ冷える。


 悪くない。


 ()()()()()()()()()()()()、悪くない。


「荷物を渡せ」


 男が言った。


「何を探しているというのかな」


「とぼけるな。岩羽島の資料だ。哀川から何を受け取った」


 永美は少しだけ目を細めた。


 哀川。


 その名前が出たことで、この男がただの酔漢ではないことがわかった。


 岩羽島。

 その島には100年に1度、不死をもたらす人魚が揚がるという—


 老いを恐れる者。病を隠す者。借金に追われる者。命じられて来た者。奇跡を欲する者。


 この船に乗っているのは、祭りの見物客などではない。

 永遠の命をもたらす人魚の肉を求める者たちだ。


 永美至はその醜さを見に来た。その好奇心だけで——


「残念だが、あなたのような人にあげられるものは何もないよ」


「殺されてぇのか」


「死にたいわけではないよ。まだ見たいものが多すぎる」


「なら黙って渡せ」


「しかし、ひとつ忠告しておく」


「何を」


「もし私を殺したら、四十九日は気をつけることだ。必ずあなたを道連れにしよう。たとえ地獄に堕ちようともね」


 男の顔が歪んだ。


 冗談だと思ったのだろう。

 だが、永美は本気だった。


 宣言を破るのは嫌いだった。

 美学に反するからだ。


 男が舌打ちし、永美の腹を膝で打とうとした。


 その瞬間だった。


「その手を離せ」


 女の声がした。


 静かな声だった。

 怒鳴らない。力まない。

 すでに状況を確定させた者の声だった。


 男が振り向く。


 その前に、船室の扉の影から黒いものが跳んだ。


 女だった。


 顎までの黒髪。

 その後ろから伸びる長い三つ編み。

 眼鏡の奥の切れ長の目は冷たく、雨に濡れた甲板の上でさえ一点も揺れていなかった。


 男がナイフを引こうとする。


 女の掌底が、その手首を叩いた。

 刃が逸れる。


 次の瞬間、女は濡れた甲板を蹴って跳んだ。

 三つ編みが黒い鞭のようにしなり、細い脚が男の顎を横から撃ち抜く。


 乾いた衝撃音。


 男の身体が船室の壁に叩きつけられた。

 女は着地と同時に踏み込み、足を払う。


 男は仰向けに倒れた。


 彼女はその喉元に踵を置いた。


「二度目は、折る」


 男は何か言おうとしたが、声にならなかった。


 永美は喉の血を指で拭いながら、その女を見た。

 倒れた男の喉を踏む踵には、最後の一線を越えないための正確な制御があった。


 永美は微笑んだ。


「助けてくれた礼を言う前に、ひとつだけ」


 女は、面倒なものを見る目で永美を見た。


「何だ」


「その蹴りは、美しかった」


「黙れ」


「私は永美至。小説家だ」


「そうだと思った」


「なぜ?」


「聞いてもない言葉を並べるからだ」


 永美は満足そうに微笑んだ。


「うーむ。なかなか手強い。君は?」


「鴉宮透子」


「からすみや、とうこ」


 永美はその名を口の中で転がすように繰り返した。


「良い名前だ。黒い鳥と透き通るものが同居している。あなたによく似合う」


「誰にでもそういう歯の浮くような事を言うのか?」


「美しいものを見ると、どうしても言葉が増える」


「なら黙って。今増やすべきなのは言葉じゃなくて警戒だ」


 透子は男の喉から踵をどけた。

 ただし完全には解放しない。足先で手首を押さえ、もう片方の手でナイフを拾う。


 刃を一瞥し、眉を寄せた。


「手入れが悪い」


「得物にも厳しいんだね」


「刃物を持つなら研げ。人を脅すなら覚悟しろ。どちらもできない男は嫌い」


「美学があるようだ」


「黙れ」


 透子は男のポケットを探った。

 出てきたのは、小型の通信機、濡れた煙草、折り畳まれた紙片。


 通信機の電源を切り、海へ投げる。

 紙片だけを開いた。


 雨に濡れた紙には、乱暴な字で短い指示が書かれていた。


 永美至を確認。

 資料を奪取。

 抵抗時、海中処理。


 永美は横から覗き込み、感心したように息を吐いた。


「海中処理とはずいぶん簡潔だなぁ。殺人の言い換えとしては詩情が足りない」


 透子は取り合わず、紙片を懐にしまった。


「あなたは狙われてる」


「見ればわかるとも」


「理由は?」


「哀川から資料を受け取った。岩羽島の写真と、海図と、百年送りについての話だ」


「哀川?」


 透子の目が少しだけ変わった。


「知っているのかい?」


「名前だけだ。半年前に島へ入った生還者。そう聞いてる」


「生還者、か。良い響きだ。まるで島が生き物のようじゃないか」


「実際、そう扱え。そうしなきゃ生き残れないかもしれない」


 透子は船室の方へ歩き出した。

 三つ編みが背中で静かに揺れる。歩き方は優雅だったが、隙はない。


 永美もついていく。


「どこへ?」


「ここにいると目立つ。お前は喉の手当てをしろ。私は情報を確認する」


「私の意見は?」


「今のところ不要」


「ずいぶんと手厳しいな」


「助けたからって、信用したわけじゃない」


「それは正しい。尚早な信用は美徳ではなく、怠慢だ」


 透子はため息をついた。


「本当に一言多いな、偏屈小説家」


「よく言われる」


 二人は船室へ戻った。


 中には数人の乗客がいた。


 皆、こちらを見ない()()をしている。

 カップを持つ手の硬さ。途切れた会話。濡れた窓に映る目。


 全員、甲板で起きたことを聞いていた。


 その中に、若い男が一人いた。

 背を丸め、スマートフォンを握っている。顔色が悪い。

 怯えているというより、何かを必死に押し殺している顔だった。


 追いつめられた人間の顔だ。


 永美が見ていると、透子が小声で言った。


「目立つ。ジロジロ見るな」


「難しいことだ。職業病だよ」


「あなたは長生きできないタイプだな」


 永美が静かに笑った。


「ふふ。だから不死を見に来た」


 透子が初めて、少しだけ永美を見た。


「信じてるのか」


「人魚の肉を?」


「そうとも」


「信じてはいない。だが、不死を求める人間の醜さは信じている。醜いものは、往々にして本物さ」


「……嫌な言い方だな」


「あなたから受け取った、初めての褒め言葉として受け取るよ」


「褒めてない」


 透子が言った、そのときだった。


 船が大きく揺れた。


 照明が明滅する。

 誰かが短く悲鳴を上げた。


 永美は壁に手をつき、体勢を保った。

 透子は揺れの方向に逆らわず、膝で吸収している。慣れている動きだった。


 窓の外で、海が黒く盛り上がっていた。


 いや、海ではない。


 闇の中に、白いものが見えた。


 骨か。

 魚腹か。

 人の腕か。


 永美は窓へ近づいた。

 透子が腕を掴む。


「おい。不用意に近づくな」


「見えた」


「何が」


「まだわからない。だからこそ見たい」


「だから近づくなと言ってる」


 窓の外で、また白いものが浮かんだ。


 今度は、船室にいた全員が見た。


 誰かが言った。


「岩羽島だ」


 その声に、船室の空気が変わった。


 夜の海の果てに、島影があった。


 黒い岩山が、羽を裂いたように立っている。

 白い浜辺が、闇の中でかすかに浮かんでいた。


 月は出ていない。


 だが島だけが、見えた。

 見えてしまった。


 永美の喉の傷が、じくりと痛んだ。


 血と潮と油の匂いの奥に、甘い腐敗臭が混じる。


 熟れすぎた無花果のような匂いだった。


 永美は笑った。


「美しいな」


 透子は窓の外を見たまま、低く言った。


「小説家がその言葉に頼るとは最悪の感想だ」


「いや、むしろ()()()()()だよ」


 船は、岩羽島へ近づいていく。


 その時、船室の古いスピーカーから、雑音混じりの声が流れた。


 船長の声ではなかった。


 若い女のようでもあり、老婆のようでもあり、子供のようでもある声。


『お客様方に、ご案内申し上げます』


 乗客たちが凍りついた。


『まもなく、岩羽島、岩羽島に到着いたします。百年ぶりのご来島、まことにおめでとうございます』


 透子が天井のスピーカーを見た。


「何だ、これ」


 声は、楽しそうに笑った。


『なお、島内でお名前を呼ばれましても、すぐにお返事なさらぬようお願い申し上げます。取り返しがつかなくなる場合がございます』


 永美は、哀川の言葉を思い出した。


 島で誰かが名前を呼んでも、すぐには返事をするな。


 スピーカーの向こうで、声は続けた。


『それでは皆様。どうぞ最後まで、よく噛んでお召し上がりください』


 ぶつり、と音が切れた。


 船室には、波音だけが戻った。


 誰も喋らなかった。


 沈黙の中で、永美至だけが手帳を取り出した。

 喉の血が指先につき、紙の端を赤く汚す。


 彼はその染みを一瞥し、満足そうに目を細めた。


 そして、書いた。


 島は、こちらを食卓と呼んだ。

次回、島上陸

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