岩羽島へようこそ
小説家、永美至は或る人魚伝説の島への船に乗り込んでいた—
永美至は、今この瞬間殺されかけていた。
夜の海は黒い。黒いというより、光を拒んでいる。
古い小型船の腹を波が叩くたび、錆びた船体が低く軋んだ。甲板に落ちた雨は照明を吸い、黄色く滲んでいる。
美しい夜だ。
永美至はそう思った。
自分の喉元にナイフを押し当てられている状況としては、やや不謹慎な感想である。
「おい、聞いてんのか」
男が言った。
潮と煙草と安い酒の匂いがした。
右手にナイフ。左手で永美の襟元を掴んでいる。
「聞いているさ」
刃が喉に触れているせいで、声を出すたびに皮膚がわずかに引きつった。
「ただ、少し気になることがあって」
「あ?」
「ここで揉め事はよしてくれ。この美しい夜の海に失礼だ」
男は一瞬、理解できないものを見た顔をした。
次に、怒鳴った。
「ふざけてんのか」
「いや、かなり真面目だ。雨に濡れた甲板、頼りない照明、黒い海、遠くでまだ見えない島。舞台としては申し分ない。だからこそ、君の態度は海への敬意が足りない」
「黙れ」
「難しい注文だな。私は小説家なんだ。黙ると職能が死ぬ」
男の手に力が入った。
刃が沈む。
皮膚が切れ、熱いものが一筋、喉を伝った。
恐怖が遅れてやってくる。
だが、それより先に永美は血の感触を観察していた。
ぬるく、細く、夜気に触れてすぐ冷える。
悪くない。
作家としての経験としては、悪くない。
「荷物を渡せ」
男が言った。
「何を探しているというのかな」
「とぼけるな。岩羽島の資料だ。哀川から何を受け取った」
永美は少しだけ目を細めた。
哀川。
その名前が出たことで、この男がただの酔漢ではないことがわかった。
岩羽島。
その島には100年に1度、不死をもたらす人魚が揚がるという—
老いを恐れる者。病を隠す者。借金に追われる者。命じられて来た者。奇跡を欲する者。
この船に乗っているのは、祭りの見物客などではない。
永遠の命をもたらす人魚の肉を求める者たちだ。
永美至はその醜さを見に来た。その好奇心だけで——
「残念だが、あなたのような人にあげられるものは何もないよ」
「殺されてぇのか」
「死にたいわけではないよ。まだ見たいものが多すぎる」
「なら黙って渡せ」
「しかし、ひとつ忠告しておく」
「何を」
「もし私を殺したら、四十九日は気をつけることだ。必ずあなたを道連れにしよう。たとえ地獄に堕ちようともね」
男の顔が歪んだ。
冗談だと思ったのだろう。
だが、永美は本気だった。
宣言を破るのは嫌いだった。
美学に反するからだ。
男が舌打ちし、永美の腹を膝で打とうとした。
その瞬間だった。
「その手を離せ」
女の声がした。
静かな声だった。
怒鳴らない。力まない。
すでに状況を確定させた者の声だった。
男が振り向く。
その前に、船室の扉の影から黒いものが跳んだ。
女だった。
顎までの黒髪。
その後ろから伸びる長い三つ編み。
眼鏡の奥の切れ長の目は冷たく、雨に濡れた甲板の上でさえ一点も揺れていなかった。
男がナイフを引こうとする。
女の掌底が、その手首を叩いた。
刃が逸れる。
次の瞬間、女は濡れた甲板を蹴って跳んだ。
三つ編みが黒い鞭のようにしなり、細い脚が男の顎を横から撃ち抜く。
乾いた衝撃音。
男の身体が船室の壁に叩きつけられた。
女は着地と同時に踏み込み、足を払う。
男は仰向けに倒れた。
彼女はその喉元に踵を置いた。
「二度目は、折る」
男は何か言おうとしたが、声にならなかった。
永美は喉の血を指で拭いながら、その女を見た。
倒れた男の喉を踏む踵には、最後の一線を越えないための正確な制御があった。
永美は微笑んだ。
「助けてくれた礼を言う前に、ひとつだけ」
女は、面倒なものを見る目で永美を見た。
「何だ」
「その蹴りは、美しかった」
「黙れ」
「私は永美至。小説家だ」
「そうだと思った」
「なぜ?」
「聞いてもない言葉を並べるからだ」
永美は満足そうに微笑んだ。
「うーむ。なかなか手強い。君は?」
「鴉宮透子」
「からすみや、とうこ」
永美はその名を口の中で転がすように繰り返した。
「良い名前だ。黒い鳥と透き通るものが同居している。あなたによく似合う」
「誰にでもそういう歯の浮くような事を言うのか?」
「美しいものを見ると、どうしても言葉が増える」
「なら黙って。今増やすべきなのは言葉じゃなくて警戒だ」
透子は男の喉から踵をどけた。
ただし完全には解放しない。足先で手首を押さえ、もう片方の手でナイフを拾う。
刃を一瞥し、眉を寄せた。
「手入れが悪い」
「得物にも厳しいんだね」
「刃物を持つなら研げ。人を脅すなら覚悟しろ。どちらもできない男は嫌い」
「美学があるようだ」
「黙れ」
透子は男のポケットを探った。
出てきたのは、小型の通信機、濡れた煙草、折り畳まれた紙片。
通信機の電源を切り、海へ投げる。
紙片だけを開いた。
雨に濡れた紙には、乱暴な字で短い指示が書かれていた。
永美至を確認。
資料を奪取。
抵抗時、海中処理。
永美は横から覗き込み、感心したように息を吐いた。
「海中処理とはずいぶん簡潔だなぁ。殺人の言い換えとしては詩情が足りない」
透子は取り合わず、紙片を懐にしまった。
「あなたは狙われてる」
「見ればわかるとも」
「理由は?」
「哀川から資料を受け取った。岩羽島の写真と、海図と、百年送りについての話だ」
「哀川?」
透子の目が少しだけ変わった。
「知っているのかい?」
「名前だけだ。半年前に島へ入った生還者。そう聞いてる」
「生還者、か。良い響きだ。まるで島が生き物のようじゃないか」
「実際、そう扱え。そうしなきゃ生き残れないかもしれない」
透子は船室の方へ歩き出した。
三つ編みが背中で静かに揺れる。歩き方は優雅だったが、隙はない。
永美もついていく。
「どこへ?」
「ここにいると目立つ。お前は喉の手当てをしろ。私は情報を確認する」
「私の意見は?」
「今のところ不要」
「ずいぶんと手厳しいな」
「助けたからって、信用したわけじゃない」
「それは正しい。尚早な信用は美徳ではなく、怠慢だ」
透子はため息をついた。
「本当に一言多いな、偏屈小説家」
「よく言われる」
二人は船室へ戻った。
中には数人の乗客がいた。
皆、こちらを見ないふりをしている。
カップを持つ手の硬さ。途切れた会話。濡れた窓に映る目。
全員、甲板で起きたことを聞いていた。
その中に、若い男が一人いた。
背を丸め、スマートフォンを握っている。顔色が悪い。
怯えているというより、何かを必死に押し殺している顔だった。
追いつめられた人間の顔だ。
永美が見ていると、透子が小声で言った。
「目立つ。ジロジロ見るな」
「難しいことだ。職業病だよ」
「あなたは長生きできないタイプだな」
永美が静かに笑った。
「ふふ。だから不死を見に来た」
透子が初めて、少しだけ永美を見た。
「信じてるのか」
「人魚の肉を?」
「そうとも」
「信じてはいない。だが、不死を求める人間の醜さは信じている。醜いものは、往々にして本物さ」
「……嫌な言い方だな」
「あなたから受け取った、初めての褒め言葉として受け取るよ」
「褒めてない」
透子が言った、そのときだった。
船が大きく揺れた。
照明が明滅する。
誰かが短く悲鳴を上げた。
永美は壁に手をつき、体勢を保った。
透子は揺れの方向に逆らわず、膝で吸収している。慣れている動きだった。
窓の外で、海が黒く盛り上がっていた。
いや、海ではない。
闇の中に、白いものが見えた。
骨か。
魚腹か。
人の腕か。
永美は窓へ近づいた。
透子が腕を掴む。
「おい。不用意に近づくな」
「見えた」
「何が」
「まだわからない。だからこそ見たい」
「だから近づくなと言ってる」
窓の外で、また白いものが浮かんだ。
今度は、船室にいた全員が見た。
誰かが言った。
「岩羽島だ」
その声に、船室の空気が変わった。
夜の海の果てに、島影があった。
黒い岩山が、羽を裂いたように立っている。
白い浜辺が、闇の中でかすかに浮かんでいた。
月は出ていない。
だが島だけが、見えた。
見えてしまった。
永美の喉の傷が、じくりと痛んだ。
血と潮と油の匂いの奥に、甘い腐敗臭が混じる。
熟れすぎた無花果のような匂いだった。
永美は笑った。
「美しいな」
透子は窓の外を見たまま、低く言った。
「小説家がその言葉に頼るとは最悪の感想だ」
「いや、むしろ最高の感想だよ」
船は、岩羽島へ近づいていく。
その時、船室の古いスピーカーから、雑音混じりの声が流れた。
船長の声ではなかった。
若い女のようでもあり、老婆のようでもあり、子供のようでもある声。
『お客様方に、ご案内申し上げます』
乗客たちが凍りついた。
『まもなく、岩羽島、岩羽島に到着いたします。百年ぶりのご来島、まことにおめでとうございます』
透子が天井のスピーカーを見た。
「何だ、これ」
声は、楽しそうに笑った。
『なお、島内でお名前を呼ばれましても、すぐにお返事なさらぬようお願い申し上げます。取り返しがつかなくなる場合がございます』
永美は、哀川の言葉を思い出した。
島で誰かが名前を呼んでも、すぐには返事をするな。
スピーカーの向こうで、声は続けた。
『それでは皆様。どうぞ最後まで、よく噛んでお召し上がりください』
ぶつり、と音が切れた。
船室には、波音だけが戻った。
誰も喋らなかった。
沈黙の中で、永美至だけが手帳を取り出した。
喉の血が指先につき、紙の端を赤く汚す。
彼はその染みを一瞥し、満足そうに目を細めた。
そして、書いた。
島は、こちらを食卓と呼んだ。
次回、島上陸




