Levan
『帰還成功』
その声の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。
アウロは、棺桶めいたスリープ・アンカーの中で目を開けた。
透明カバーの向こうに、白い照明が滲んでいる。
肺に空気が戻る。
喉の奥が焼けるように乾いていた。
ここは現実だった。
東国第五総合病院、地下隔離区画。
VIGIL管理病棟。
身体は傷ついていない。
けれど、神経だけがまだ夢の中に置き去りにされたみたいに痛んでいた。
「……帰ったか」
透明カバーが開いた。
冷たい空気が流れ込む。
アウロは上体を起こそうとして、肩を押さえた。
「無理に起きないでください」
リンの声が近くで聞こえた。
もう通信ではない。
現実の声だった。
「じゃあリンちゃん、お手を拝借」
「元気そうですね」
「見た目だけね」
リンは端末に目を落とした。
「神経代替負荷が上昇しています。軽度の感覚異常、頭痛、吐き気、残痛が出る可能性があります」
「あれま、問題なさそうだね」
「問題はあります」
アウロはスリープ・アンカーの縁に手をかけた。
指先が震えている。
リンはそれを見て、一歩近づいた。
「まだ立たない方がいいです」
「男の子だから、このくらいは平気だよ」
アウロはゆっくりと足を下ろした。
床に触れた瞬間、神経の奥を細い針で撫でられたような痛みが走る。
顔には出さなかった。
出さなかったつもりだった。
「アウロ」
「大丈夫」
リンは数秒黙った。
それから、端末を閉じる。
「天城誠司の意識反応は、第五層以下へ沈下しました」
「……追跡は」
「不能です」
医療室の機械音だけが、しばらく続いた。
アウロは笑わなかった。
軽口も出なかった。
ただ、足元の白い床を見ていた。
「救助失敗か」
「はい」
短い返事だった。
余計な慰めはない。
今は、それでよかった。
アウロは右手を開いた。
掌には、小さなコインが残っていた。
ジョブコイン。
コマンダー。
薄い光が、指の間で揺れている。
社長になれなかった男が残した、命令するための職能。
座れなかった椅子の代わりに、現実へ持ち帰られたもの。
「これだけは持って帰れたわけね」
「回収を確認しました」
「成功報酬にしては、後味悪すぎだろ」
アウロはコインを握り込んだ。
「リンちゃん」
「はい」
「レヴァンは?」
「上階にいます」
「呼んで」
「まだ動かないでください」
「呼ぶだけなら寝ててもできるでしょ」
リンの表情は変わらない。
ただ、端末を持つ指に少しだけ力が入った。
数分後、隔離区画の自動扉が開いた。
レヴァンが現れた。
黒いコート。
重い足音。
いつもと同じ、感情を押し殺した顔。
その顔を見た瞬間、アウロの中で、夢の最後に聞いた声が蘇った。
僕はずっと、フォレストで君を待っているよ。
アウロは笑わなかった。
「よう。そっちから来てくれるなら、手間が省けたよ」
「帰還直後に立つな」
「第一声それ? 聞きたいことがあんだわ、あんたに」
「ここでは話さない」
「へえ」
「リン、手を貸してやれ。アウロ、執務室にこい」
リンがレヴァンを見る。
「レヴァン、ここでは駄目なのですか」
レヴァンは答えなかった。
ただ、リンへ視線を向けた。
それだけで、これ以上の確認を許さない圧があった。
アウロは肩をすくめた。
「はいはい。歩きますよ」
アウロはスリープ・アンカーの縁に手をかけ、ゆっくり立ち上がった。
床に足が触れた瞬間、神経の奥を焼くような痛みが走る。
それでも、顔には出さない。
リンが横に立つ。
「肩を貸します」
「……やったね。いいこともあるもんだ」
「やっぱり嫌です」
「そんなこと言わないでよ」
アウロは軽く笑うように言って、リンの肩に手を置いた。
体重は、ほんの少しだけ預けた。
リンは何も言わなかった。
レヴァンの背中を追って、三人は隔離区画を出た。
白い廊下。
等間隔に並ぶ照明。
足音だけが、冷たい壁に反射している。
アウロはコートの内側に触れた。
アカネの銃の重みが、そこにある。
レヴァンの執務室に入ると、空気が一段冷たくなった。
見慣れた部屋だった。
余計なもののない机。
黒いロックのかかった深層案件の棚。
人間味のない静けさ。
アウロは椅子に腰を下ろした。
リンはその横に立ち、端末を開く。
レヴァンは机の向こうに立ったまま、二人を見下ろしていた。
「現在の状況は」
リンが端末に目を落とす。
「天城誠司、第五層以下へ沈下。現在追跡不能。ジョブコイン一枚を回収。外部干渉あり」
「干渉者は」
「夢内部で接触。VIGIL登録信号はありません」
レヴァンの表情は動かなかった。
だが、空気がわずかに重くなった。
アウロはそれを見逃さない。
「知ってる顔なんだろ。ここは現実だぜ」
レヴァンはアウロへ視線を戻した。
「接触したか。そいつはお前に何を言った」
「いろいろ」
「具体的に言え」
アウロはコマンダーのジョブコインを指で弾いた。
硬い音が、執務室に落ちる。
「天城を沈めて、また会おうってさ。なんてことない招待状をもらったんだよ」
「そうか」
「そう」
アウロはコインを握った。
「それで、俺が聞きたいことは分かるよな」
レヴァンの眉がわずかに動く。
「外部干渉者に関しては調査中だ。俺も知らないことが多すぎる」
「腹の探り合いはやめようや。今更だろ」
レヴァンはリンを見る。
「リン、退出を」
「おいおい。むさ苦しい男と二人で話せってか? ありえないね」
アウロは耳に手を当てた。
「それに、リンちゃんも聞いてるだろうよ。こいつで」
リンは何も言わなかった。
レヴァンも、それ以上は言わなかった。
アウロの声が少し低くなる。
「俺が知りたいのは二つだけだ」
アウロはコートの内側へ手をかけた。
「フォレストコインのありかと、あんたが敵かどうか」
その場の空気が止まった。
リンの指が、端末の上で一瞬だけ止まる。
レヴァンは動かなかった。
「フォレストコインは存在しない」
「嘘だな」
「……」
「あんたは嘘をつく時、いつもその顔をする」
アウロは口元を歪めた。
「持ってるんだろ」
レヴァンは答えない。
「アカネを助けるための鍵を、あんたは持ってる」
「……」
「なのに、俺には渡さない」
アウロはゆっくり立ち上がった。
神経の奥が焼ける。
それでも、立った。
「まさか、娘を助ける王子様を、父親が邪魔する話だなんてな」
リンが息を止めた。
レヴァンの目が、ほんのわずかに細くなる。
「その言い方はやめろ」
「じゃあ、答えろよ」
アウロはコートの中へ手を入れた。
リンの視線が、すぐにそこへ向く。
「アウロ」
「大丈夫。撃ちたいわけじゃない」
アウロの手が、アカネの銃に触れる。
現実に残された、彼女の終わりの片割れ。
「でも、撃たない理由もだいぶ減ってきた。こいつを使えば、あいつは楽になるんだと思うと」
レヴァンは銃を見なかった。
ただ、アウロの目を見ていた。
「その銃を、脅しに使うな」
声は低かった。
怒りではない。
それよりも深いものだった。
アウロは笑わなかった。
「怒るところ、そこなんだな」
「手を離せ」
「答えろ」
「手を離せ」
「レヴァン」
アウロは銃を抜かなかった。
ただ、コートの内側で握ったまま、レヴァンを見ていた。
「フォレストコインを持ってるのか」
執務室の空調音だけが、やけに大きく聞こえた。
やがて、レヴァンが低く答えた。
「持っている」
リンが顔を上げた。
アウロは目を細める。
「やっぱりな」
「だが、お前には渡さない」
「アカネを助ける気がないのか」
その一言で、レヴァンの表情が初めて変わった。
「ある」
短い声だった。
低く、重く、押し殺した声だった。
「誰よりもある」
アウロは黙った。
レヴァンは続けた。
「だから渡さない」
「意味分かんねえよ」
「お前が持てば、必ず深層へ行く」
「あたりまえだろうが」
「戻れない」
レヴァンの声が強くなった。
「深層は、覚悟でどうにかなる場所ではない」
アウロはコートの内側から手を離さない。
「じゃあ、あんたが行けよ」
レヴァンは答えなかった。
「あんたが持ってるんだろ。あんたが深層に行けばいい。アカネはあんたの娘だろ」
沈黙。
リンが、わずかに目を伏せた。
アウロはそれを見た。
「……行けないよな。歴代最強のVIGILも」
レヴァンは静かに言った。
「ああ。俺の精神損傷レベルは、帰還限界を超えている」
淡々とした声だった。
けれど、その底には、長い時間をかけて押し殺したものがあった。
「次に俺がフォレストへ入れば、戻れない」
「……」
「それだけじゃない」
レヴァンはアウロを見る。
「俺は深層に触れすぎた。もう一度沈めば、浅い層では止まらない。まっすぐ深く落ちる」
レヴァンの声が、さらに低くなる。
「俺が落ちれば、アカネを助ける前に、もっと多くの人間が眠る」
アウロは言葉を失った。
「すまない」
「わかったよ」
アウロは、ゆっくり息を吐いた。
「俺がやるべきだってことも、それ以上はいい。ただ、フォレストコインを渡してくれ。頼む」
レヴァンは答えなかった。
「答えはなしか」
アウロは口元を歪めた。
でも、笑ってはいなかった。
「なら、もうここにいる意味はねえな。あいつを助けられないなら、ここにいる意味はない」
「アウロ」
「あんたには感謝してる」
アウロはレヴァンを見た。
「俺を拾ってくれたことも、あいつに会わせてくれたことも。あいつの父親として、俺を止めたいことも」
「ああ」
レヴァンは短く答えた。
「だから、お前を失いたくない」
アウロの動きが止まった。
リンも、何も言わなかった。
レヴァンは目を逸らさない。
「アカネを失った。お前まで失うつもりはない」
「俺は、あんたの息子じゃない」
「分かっている」
「なら勝手に守んな」
「勝手にでも守る」
アウロは視線を落とした。
掌の中で、コマンダーのジョブコインが淡く光っている。
「俺の人生は、あいつがいないなら意味なんてない」
「勝手な行動は許さん」
「分かってる。勝手には行動しない」
アウロはコインを握り込んだ。
「でもよ。ここじゃなくたって、夢には潜れるんだよ」
レヴァンの目が鋭くなる。
「スリープ・アンカー以外でのダイブは危険だ。それに深層へどうやって行く。どうやって座標まで辿り着くつもりだ」
「もう話は終わりだ」
アウロは、コートの内側から手帳を取り出した。
VIGILの身分証が挟まれた、使い古した手帳だった。
「ここで救いたい人を救うには、障壁が多すぎたみたいだな」
手帳が、机の上に置かれる。
「これは置いていく。もういらねえからな」
「待て、アウロ」
アウロは振り返らなかった。
「じゃあな、レヴァン」
扉が開く。
アウロは、痛む身体を引きずるようにして執務室を出ていった。
足音が遠ざかる。
執務室には、レヴァンとリンだけが残された。
「最悪な結末だ」
レヴァンが低く呟いた。
「どうしますか。警備に確保させますか」
「無理だ」
レヴァンは、机の上に置かれた手帳を見た。
「あいつを力で止めれば、もう二度と戻らん」
「では」
「仕方ない」
レヴァンは目を閉じた。
「あいつらの思う壺だということは分かっている」
リンの表情が、わずかに強張る。
「レヴァン」
「潜る」
「危険すぎます」
「分かっている」
「あなたは、戻れません」
「分かっている」
レヴァンは目を開けた。
「それでも、これ以上失うくらいなら、俺が行く」
「でも……」
「業務命令だ」
レヴァンの声が、静かに部屋へ落ちた。
「速やかにアカネの座標特定に努めろ。あの馬鹿が、変な気を起こす前に」
「レヴァン」
「すまんな、リン。今日も残業になる」
レヴァンは、机の上の手帳を手に取った。




