One Way
時計の針は、もう止まっていなかった。
六時十二分。
そこから、一秒ずつ、止まっていた朝が先へ進んでいる。
アウロは椅子へ腰を戻し、背もたれに身体を預けた。
向かいではミオが、自分の右手を見つめている。
現実側で触れられた感覚は、まだ消えていない。
「……で」
『なに』
「帰り道は?」
『せっかちね。今探してる』
「時計が動いただけで満足してたら、ここに住むことになるからさ」
『分かってる。少し黙ってて』
「はい」
ランの声の向こうで、機械を操作する音が続いた。
「まだ、分かります」
「手?」
「はい。背中も少し。布団に寝てる感じも」
『こっちも同期は維持できてる。ミオさんの身体側は、今なら見失わない』
「なら、あとちょっと?」
『その“あとちょっと”がないのよ』
「厳しいなあ」
『正規設備なら、潜る時に確保した帰還経路を維持できる。でも、一度失った経路を作り直せるわけじゃない。この旧式は、今残ってる身体側との接続を保つので精一杯』
アウロの笑みが薄くなる。
「つまり、身体の場所は分かってる。でも、そこまで戻る道がない」
『そう。帰還信号を失ったまま無理に引けば、途中で接続が切れる』
「それは避けたいね」
『当然よ』
ミオが不安そうにアウロを見る。
「……やっぱり、帰れないんですか」
「まだ帰り道が見つかってないだけ」
「でも」
「見つけるよ」
アウロは即答した。
「ここまで来たんだから、帰ろう」
ミオは小さく頷いた。
しばらくして、ランが低く息を吐く。
『……アウロ』
「なに?」
『次はあんたの身体側を確認する』
「俺の?」
『二人で帰るつもりなんでしょう。ミオさんだけ現実側の位置が分かってても、あんたは経路に乗せられない』
「なるほど。ちゃんと俺の分も必要なんだ」
『当たり前よ。手を繋いでれば一緒に帰れるほど、フォレストは親切じゃない』
「夢がないね」
『今さらでしょう』
ランの声が少し遠ざかった。
『こっちで、あんたの右手に触る。何か感じたら言って』
「了解」
アウロは目を閉じた。
数秒。
何もない。
『今、触ってる』
「……まだ分かんない」
『少し強く握る』
夢の中では、誰も右手に触れていない。
それなのに、指先だけに別の感覚が薄く重なった。
冷たい指。
掌を包む圧。
「……来た」
『本当?』
「右手。握ってる?」
『握ってる』
「一回離して」
感覚が消えた。
「消えた」
『もう一度』
再び右手に感触が戻る。
アウロは目を開いた。
「合ってる」
『よし。あんたの身体側も拾えた』
「ランさんに手握ってもらうの、久しぶりだね」
『次ふざけたら離すわよ』
「命綱で脅すのやめてくれる?」
ミオが小さく笑った。
『これで、夢側の二人と現実側の二人、両方の反応は追えてる』
「じゃあ」
『だからって、まだ帰れない』
「ですよね」
アウロは時計を見る。
秒針だけは進み続けている。
「位置が分かってるのに、道だけ作れないんだね」
『固定するものがないからよ』
「固定?」
『今見えてる二点を、帰還経路として保持するもの』
アウロは少し黙った。
「……フォレストコインがあれば?」
ランから返事がなくなる。
「ランさん?」
『あれば、話は変わる』
「やっぱり」
『フォレストコインには経路そのものを固定する情報が残る。今みたいに現実側とフォレスト側、両端が見えてるなら、帰還路を通せる可能性は高い』
「でも持ってない」
『そうね』
「レヴァンなら持ってるけど」
『今それを言っても仕方ないでしょう』
「だよねえ」
アウロは胸元へ手をやった。
指先に硬い感触が触れる。
「こっちはあるんだけどな」
『何が?』
「《コマンダー》」
ノイズの向こうで、ランの動きが止まった。
「ランさん?」
『ちょっと待って』
「待つの今日多いね」
『黙って』
「はい」
短い沈黙のあと、現実側で何かを探す物音が続いた。
『……あった』
「何が?」
『この旧式、保守用のコインポートが残ってる』
「コインポート?」
『昔の規格よ。コインに記録された座標情報を読み出したり、経路情報を書き戻したりするための端子』
「それで?」
『アウロ。《コマンダー》、まだ夢側にもある?』
「あるよ」
アウロはミオの手を左手で握り直し、空いた右手でコートの内側から《コマンダー》を取り出した。
交差する旗と指揮杖の紋様が、銀色の表面に残っている。
『……なら、ひとつだけ試せるかもしれない』
「嫌な言い方だな」
『ジョブコインとフォレストコインは、記録されてる情報が違うだけで、情報を保持してる器そのものは近い』
「ジョブコインには職能。フォレストコインには経路?」
『そう』
「じゃあ」
『《コマンダー》のジョブ情報を消して、そこへ今観測できてる帰還経路を書き込む』
アウロがコインを見る。
「……フォレストコインにするってこと?」
『一回だけ使えるものなら、理屈の上では』
「やったことある?」
『ない』
「またそれか」
『昔、情報を失ったコインを別用途へ転用できないかって研究はあったの』
「実際にやった人は?」
『研究記録まではある。でも、貴重なジョブコインを失ううえに、経路を固定できる保証もなかった。少なくとも私は、帰還に成功した例を知らない』
「今日は、その成功例になるかもしれない?」
『失敗例になる可能性もある』
「そっちは聞きたくなかったな」
ミオが二人のやり取りを見ていた。
「何か、方法があるんですか?」
「あるかもしれない」
「どんな?」
アウロは《コマンダー》を見せる。
「これを、一回だけ帰るためのフォレストコインに変える」
「それ、大事なものなんじゃ」
「大事だよ」
「だったら」
「だから、ちゃんと使うんでしょ」
ミオが言葉を止めた。
『まだ決めないで』
「え?」
『条件を最後まで聞きなさい』
ランの声から軽さが消える。
『使えるのは一度だけ。今ここから、今接続してる現実側まで。使い終われば、おそらくコインは壊れる。それに、二人を同時に通せば一人の時より経路への負荷が増える』
アウロの表情も変わった。
「二人で通すことで、ミオさんの危険も増える?」
『増える』
「どのくらい?」
『分からない。だから先に条件を確かめる』
「……分かった。説明して。二人で帰る方法を、最後まで聞く」
『ミオさんだけなら、危険は減らせる』
「俺が残った場合は?」
『次の経路を作れる保証はない』
アウロは黙った。
それから、ミオへ向き直る。
「二人で通ると、一人の時より道が不安定になるって。ミオさんだけなら、危険を減らせる」
「……アウロさんは?」
「俺は残ることになる。次の道を作れるかは、まだ分からない」
ミオの表情が強張った。
「だったら、私は一人で帰りません」
「ミオさん」
「私を迎えに来てくれたんですよね」
「そうだけど」
「その人を置いて帰るのは嫌です」
「でも、危険は増える」
「アウロさんも、私を助けるために危ないところへ来たんでしょう」
「それを言われると弱いな」
「一緒に帰りたいです」
ミオは目を逸らさなかった。
アウロはしばらくその顔を見ていた。
「ランさん」
『聞いてる』
「二人で帰る方法を教えて」
『一枚のコインに二人それぞれの帰還座標を書くんじゃない』
「うん」
『今いるフォレスト側の位置と、現実側の旧式装置。その二点を一本の経路として固定する』
「道を一本作る」
『そう。ただし、その道を通れるのは、今こっちで身体側の同期を確認できてる二人だけ』
「俺とミオさん」
『ええ。二人が離れず、同じタイミングで経路へ入る必要がある。手を繋ぐのはそのため。手を繋いだから帰れるわけじゃない』
「了解」
『途中でどちらかの同期が切れたら、経路を開く前に中止する』
「開いたあとは?」
『止まらず通る。途中で立ち止まる方が危険』
「分かった」
アウロはミオを見る。
「今の説明、要するに俺たち二人の身体とのつながりが保ててる間だけ、一本の帰り道を作れる。開く前にどっちかの反応が切れたら中止。入ったら止まらず一緒に進む」
「分かりました」
「それでも?」
「帰ります。二人で」
アウロは笑った。
「決まりだね」
『……ほんと、似た者同士』
「今日会ったばっかりだよ」
『そういう問題じゃない』
「それで、《コマンダー》は?」
『現実側にもある。あんたのコートの内側』
「今持ってるのに?」
『そっちはフォレスト側に持ち込まれた像よ。現物はあんたと一緒に布団で寝てる』
「なるほど」
『今から取り出して、コインポートへ入れる』
「勝手に人のポケット漁るんだ」
『嫌なら帰って自分でやる?』
「お願いします」
ミオが少し笑った。
現実側で布の擦れる音がした。
『あった』
アウロの右手にある《コマンダー》が、微かに熱を持つ。
「……こっちも反応した」
『同じ情報を持ってるなら、変化も反映されるはず』
「“はず”ね」
『嫌ならやめる?』
「やる」
金属音が響いた。
『コインポートに入れた』
掌の《コマンダー》が淡く光る。
『ここから先は戻せない』
「分かった」
『本当にいいのね』
アウロはコインを見る。
天城誠司。
救えなかった男が残したもの。
「天城くんには悪いけどさ」
親指で、旗と指揮杖の紋様をなぞる。
「使わないまま持ってるより、誰かを帰すために使った方がいいでしょ」
『……始めるわよ』
「うん」
『まず、ジョブ情報を消す』
ランが操作する音がする。
コインが熱を増した。
表面の紋様が揺らぎ、旗の線が薄くなり、指揮杖の形が崩れていく。
アウロは黙って見ていた。
「……消えるんだな」
『アウロ、続けるわよ』
少しだけ間を置いて、アウロは頷いた。
「……うん」
最後の線が消えた。
掌には、何も刻まれていない銀色のコインだけが残る。
『ジョブ情報、消失』
「《コマンダー》じゃなくなった」
『次に、経路を書き込む』
アウロは左手に力を込めた。
「ミオさん。外の感覚、まだある?」
ミオは目を閉じる。
「右手。背中。布団も分かります」
「ランさん」
『確認できてる。次、アウロ』
アウロも目を閉じる。
現実側の右手に、ランの指が触れた。
冷たい。
「俺も大丈夫」
『二人とも同期維持。今から、フォレスト側のこの場所と、現実側の装置を一本の経路として記録する』
空白だったコインに、二つの小さな点が浮かんだ。
ひとつは、今いる場所。
もうひとつは、現実側。
その間に、細い線が伸びる。
けれど、途中で途切れた。
『まだ安定しない』
「何が足りない?」
『二人の身体側との同期が揺れてる。帰る先を意識して。今つながってる現実を、離さないで』
「ミオさん」
ミオが目を開ける。
「帰ったら何をするか、もう一度考えて。身体とのつながりを保ちたいんだ」
「……はい」
ミオは目を閉じた。
「ハルに会います」
細い線が、明滅しながら二つの点を結んだ。
「帰って、まず抱きしめます」
光が少し強くなる。
「それから……ちゃんと話します。私のことも、ハルのことも」
『ミオさん、同期安定。アウロ、あんたもそのまま続けて』
「俺の帰る先ね」
白い病室が浮かぶ。
眠ったままのアカネ。
その横の椅子。
リンの無表情な顔。
ナナミ。
レヴァン。
机の上に置いてきた手帳とアンカー。
「……まだ帰らないとね」
線の揺れが少しずつ収まっていく。
「君に聞きたいこと、山ほどあるし」
アカネの顔を思い出す。
二つの点を結ぶ光が、初めて途切れずに灯った。
『固定した』
ランの声が響いた。
アウロが目を開く。
掌にあるものは、もうジョブコインではなかった。
旗も、指揮杖もない。
二つの点を結ぶ一本の線だけが、銀色の表面に刻まれている。
「……フォレストコイン」
『一回きりのね』
「本当にできたんだ」
『驚いてるのはこっちよ』
「自信満々だったじゃん」
『そんなわけないでしょ。手、震えてるわよ』
「ランさんの?」
『うるさい』
アウロは少し笑った。
『聞いて。これは自然に残ったフォレストコインみたいに経路を保持し続けるものじゃない。今ここから、今接続してる現実まで。それだけ』
「片道?」
『片道。一回きりの通行手形』
「十分」
アウロはミオを見る。
「行けそうだって」
「帰れるんですね」
「帰ろう」
ミオが強く頷いた。
『アウロ。入る前にどちらかの同期が崩れたら中止する。経路へ入ってからは止まらず進む。ミオさんにも伝えて』
「ミオさん。今から道を開く。でも、入る前にどっちかの身体とのつながりが切れたら中止。入ったあとは止まらず、そのまま向こうまで行く」
「はい」
「手は?」
ミオが握る力を強めた。
「離しません」
「俺も」
『じゃあ、最終確認する』
時計は六時十三分を越えていた。
『こっちでもう一度ミオさんの手を握る。その感覚を追うように伝えて』
「ミオさん。外でランさんが手を握る。その感じ、追える?」
ミオが目を閉じる。
「……はい。分かります」
「そこへ戻ろう。俺も一緒に行く」
「はい」
『次、アウロ』
右手に冷たい感触が重なる。
「俺も分かる」
『二人とも同期安定。経路を開く』
掌のフォレストコインが白く光った。
時計の文字盤の前に、細い亀裂が走る。
違う。
割れているのは時計ではない。
空間そのものだった。
「……開いた」
亀裂の向こうから白い光が漏れる。
少しずつ広がった裂け目の向こうに、薄暗い和室が見えた。
畳。
二枚の布団。
絡み合った古いケーブル。
現実だ。
『同期維持。二人とも行って!』
アウロはミオの手を握り直した。
「行こう」
アウロは椅子から立ち上がった。
ミオも立ち、繋いだ手を握り直す。
ミオが一度だけ背後を見る。
朝食の並んだ食卓。
もう止まっていない時計。
それから前を向いた。
「はい」
二人で走る。
白い裂け目へ近づくほど、フォレストコインの表面に細い亀裂が増えていく。
『まだ持ってる。そのまま進んで!』
「これ、結構割れてるけど!」
『通り切るまでは持たせる!』
「頼もしいね!」
二人は手を繋いだまま、白い裂け目へ飛び込んだ。
身体が引き伸ばされる。
上下が消える。
ミオの手だけが、確かにそこにあった。
「離さないで!」
「離しません!」
『二人ともそのまま! 身体側の反応、拾えてる!』
白い光の向こうに、畳が近づく。
布団。
天井。
人影。
『ミオさん、帰還反応確認!』
隣のミオの輪郭が白に溶ける。
それでも握った手の感触は、最後まで消えなかった。
『アウロ、次あんた!』
「了解!」
背中に、薄い布団の感触が重なる。
その下に畳の硬さ。
肺へ冷たい空気が流れ込む。
『アウロ、帰還確認!』
その瞬間。
現実側の旧式端末で、小さな音が鳴った。
ぱきん。
コインポートの中で、一回きりのフォレストコインが砕けた。
アウロは大きく息を吸う。
「っ……!」
喉が痛い。
身体が重い。
それでも、ここには重力がある。
瞼を開く。
暗い和室。
古い天井。
横にはミオの布団。
「お母さん!」
ハルの声が聞こえた。
アウロは首を動かす。
ミオが目を開けていた。
その身体へ、ハルがしがみついている。
「お母さん……!」
「ハル」
ミオの声が震えた。
腕を上げる。
まだ力の入りきらない手で、息子の背中を抱きしめる。
「ごめんね」
ハルが首を振った。
「帰ってきた」
「うん」
「お母さん、帰ってきた」
「うん。帰ってきたよ」
ミオは泣きながら、もう一度ハルを強く抱きしめた。
しばらくして、ハルの髪を撫でる。
「……一人で来たの?」
ハルが小さく頷いた。
ミオは何かを言いかけた。
けれど、その言葉を飲み込み、もう一度息子を抱き寄せる。
「……あとで、聞かせて。ここに来るまでのこと」
「怒る?」
ミオは少しだけ困ったように笑った。
「まず、ちゃんと聞く」
「うん」
「お母さんの話も、聞いてくれる?」
ハルは母親の胸元で頷いた。
「聞く」
「ありがとう」
アウロは二人を見ながら、身体の力を抜いた。
「……よかった」
「何がよかった、よ」
頭上から声が落ちてくる。
アウロが顔を向ける。
ランが立っていた。
「おかえり」
怒っている。
たぶん、かなり。
アウロは笑った。
「ただいま、教官」
「あとで説教」
「明日にしない?」
「今」
「帰ってきたばっかりなんだけど」
「だからよ」
ランはそう言いながら、アウロのヘッドギアを外した。
乱暴な手つきに見えて、触れ方だけは妙に慎重だった。
「ランさん」
「なに」
「《コマンダー》は?」
ランは旧式端末へ視線を向けた。
コインポートを開く。
中から、小さく砕けた銀色の欠片を取り出した。
「これ」
アウロの掌へ落とす。
軽い。
あれだけ確かな重さがあったコインは、もう形を残していなかった。
「……ほんとに消えたな」
「一回きりって言ったでしょ」
アウロは欠片を指先で転がした。
「結局、一回もジョブとしては使わなかった」
「ジョブとしてはね」
「……うん」
ランはミオとハルを見る。
「でも、あんたたち二人を帰した。それじゃ足りない?」
アウロはしばらく掌の欠片を見ていた。
それから、ゆっくり指を閉じる。
「いや」
小さく笑った。
「十分だよ」
天城を救うことはできなかった。
それでも、彼が残したものは、二人を現実へ帰した。
アウロは目を閉じる。
「天城くん」
掌の欠片を握った。
「ちゃんと使ったよ」




