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 六時十二分。

 止まった時計を見上げたまま、アウロはしばらく動かなかった。

 ミオの気持ちは変わった。

 本物のハルに会いたいと、自分の口で言った。

 それでも、時計の針は動かない。


「ランさん」

『なに?』

「帰り道、まだ?」

『今探してる。急かすなら代わってくれてもいいけど』

「それができたら最初から困ってないんだよね」

『だったら黙って待つ』

「はい」


 アウロは食卓の椅子を引き、腰を下ろした。

 身体を休めた途端、今まで無視していた痛みが一斉に戻ってくる。

 右肩は痺れたままで、脇腹も鈍く痛んでいた。

 ミオは向かいの椅子に座った。

 目の前には、最初から変わらない朝食が並んでいる。

 白いご飯。

 味噌汁。

 卵焼き。

 焼き鮭。

 湯気だけが、いつまでも同じ形で揺れていた。


「食べられるのかな、これ」

「食べたいんですか?」

「ちょっと気にならない?」

「今ですか?」

「今だから」


 ミオが少しだけ笑った。

 アウロは箸へ手を伸ばしかけ、やめた。


「まあ、何が起きるか分かんないからやめとこう」

「珍しく慎重ですね」

「今日一日で成長したんだよ」

『聞こえてるからね』

「ランさんには言ってないよ」

『余計なことしてないか確認してるの』


 アウロは背もたれへ身体を預けた。

 その時、ノイズの向こうでランが何かを操作する音がした。


『……この部屋、さっきの廊下より反応が安定してる』


 アウロは周囲を見る。


「ここ、俺が最初に落ちた部屋なんだ。食卓も時計も変わってない」

『最初に?』

「何度も戻されてる。時計は、ずっと六時十二分」

『早く言いなさいよ』

「聞かれなかったし」

『その部屋に来るまでのことは、こっちじゃ見てないの。気づいたことは教えて』

「了解。次からは報告します」

『今からして』

「はい」


 ミオが小さく笑う。

 ランの声が途切れた。

 代わりに、細かなノイズが何度も走る。


『ミオさんに聞いて』

「なにを?」

『六時十二分に心当たりがあるか』


 アウロはミオを見る。


「ミオさん。六時十二分って、何か覚えある?」

「六時十二分?」


 ミオも時計を見た。


「毎朝、そのくらいには起きてましたけど」

「ぴったり?」

「ぴったりでは……」


 ミオは眉を寄せる。


「目覚ましは六時十分です」

「惜しい」

「二分くらい普通じゃないですか」

「まあね」

『他には?』


 アウロがそのまま伝える。

 ミオはしばらく時計を見つめていた。


「……あ」

「何か思い出した?」

「ここに来た日」


 ミオの表情が変わる。


「あの日も、六時十分に目覚ましが鳴ったんです」

「うん」

「でも、起きられなくて」


 ミオは膝の上で手を握った。


「ハルが起こしに来ました。その時、時計を見たんです。六時十二分でした」


 アウロは何も言わなかった。


「お母さん、朝だよって」


 ミオの視線が食卓へ落ちる。


「その時、起きなきゃって思ったんです。でも身体が動かなくて。目だけ開けて、ハルに『もう起きる』って言って」


 声が少しだけ震える。


「結局、起きられませんでした」

『なるほど』


 ランが小さく呟いた。


「なんか分かった?」

『たぶん』

「その“たぶん”怖いな」

『今は我慢して』


 少し間が空いた。


『その朝の記憶が、強く残ってるのかもしれない』

「だから、時計が止まってる?」

『まだ仮説よ。その時刻に潜ったわけじゃないから、入口だとは言えない』


 アウロは時計を見上げた。


「ここから現実に戻れる、って話でもないんだね」

『ええ。ただ、今は反応が安定してる。ここにいる間に、身体側との接続を確かめたい』


 ミオが不安そうにアウロを見た。


「何か分かったんですか?」

「この朝のことが、強く残ってるのかもしれないって」

「じゃあ、ここから帰れるんですか?」

「まだ分からない。でも、落ち着いて調べられる場所には来られた」

『アウロ』

「なに?」

『今から、こっちでミオさんの右手に触れる。その感覚がそっちまで届くか、聞いて』

「それで、身体とのつながりが分かる?」

『感覚と反応が合えば、手がかりにはなる。ただ、つながりが戻っても、帰還経路を固定できるかは別よ』

「分かった。伝える」


 アウロはミオへ向き直った。


「今からランさんが、外にいる君の右手に触れるって。その感じが分かるか、確かめたいんだ」

「手を、握るんですか?」

「うん。何か感じたら教えて。分からなかったら、それでもいいから」

「……分かりました」


 ミオは両手を膝の上に置いた。

 アウロも黙る。


『触れるわよ』


 数秒。

 何も起きない。


「……どう?」

「まだ、何も」

『今度は、少し握る』


 再び沈黙。

 ミオが小さく眉を寄せた。


「……あ」

「何かあった?」

「右手、誰かに握られてるみたいです」


 ミオが膝の上の右手を見つめる。

 そこには、誰の手も重なっていない。

 アウロが立ち上がる。


「ランさん、今、握ってる?」

『ええ。こっちにも微弱な反応が出てる。一度、緩めるわね』


 ミオの指がわずかに動いた。


「……少し、離れました」

「合ってる?」

『合ってる。手を緩めたタイミングと同じよ』


 ランの声が変わった。


『ミオさんの身体側から、応答が返ってる』

「よし」

『まだ反応は小さい。でも、届いてるわ』


 ミオは自分の手を見る。


「これが、外にいる私の感覚なんですか」

「ランさんが触ったのと、同じタイミングだったって。他には、何か感じる?」


 ミオは目を閉じた。


「……背中が、少し重いです」


 ここには椅子の背もたれがある。

 けれど、それとは別に、横になっているような感触が薄く重なっていた。


「布団に寝てるみたいな。その下が、少し硬くて」


 アウロは現実の部屋を思い出した。

 薄い布団と、その下の畳。


「君は今、布団に寝てる。その感じに近い?」

「はい」


 ミオは右手の指を、ゆっくり曲げた。


「……変な感じ」

「ちゃんといるってことだよ」


 その言葉に、ミオの目が少しだけ揺れた。


「ハルも、そこにいるんですよね」

「いる」

「私の隣に」

「俺が潜った時はね」


 ミオは目を閉じた。

 手に残る感触を確かめるように、そっと指を曲げる。


「帰りたい」


 小さな声だった。

 アウロには聞こえた。


「うん」

「帰って、ハルにちゃんと話したい」

「うん」

「大丈夫じゃないって、言えるか分からないけど」


 ミオは少し笑った。


「でも、言ってみたいです」

『反応、上がってる』


 ランの声が入る。


『そのまま。ミオさんに、現実のことを考えてもらって』

「現実のこと?」

『今帰ったら何をするか。誰に会うか。何でもいい。夢の中じゃなくて、外にあるものを思い出させて』


 アウロはミオを見る。


「ハルくんに会ったら、最初に何する?」


 ミオが目を閉じる。


「まず、抱きしめます」

「うん」

「それから、一人であんなところまで来ないでって言います」

「そのあと、ハルくんの話も聞いてあげて」

「……はい」


 ミオは少しだけ笑った。

 その瞬間。

 時計の秒針が動いた。

 カチ。

 アウロが顔を上げる。

 六時十二分、一秒。


「……動いた」


 ミオも時計を見る。

 もう一度。

 カチ。


『反応、戻った』


 ランの声が強くなる。


『ミオさんの身体側との同期が戻ってきてる。さっきは触れた時に反応するだけだったのに、今は途切れずにつながってる』

「……これで、帰る道も拾えそう?」

『待って』


 ランの声が止まる。

 ノイズの向こうで、何かを操作する音が続いた。


『……駄目。身体との同期は戻った。でも、帰る道が固定できない』


 アウロの表情が変わる。


『身体の反応は拾えてる。でも、そこへ戻る経路は失われたまま。今のつながりだけで引き戻そうとしても、途中で切れるおそれがある』

「……そこは、まだ駄目か」

『ええ。届いた。でも、まだ渡れない』

「……まだ、帰れないんですか」


 ミオがアウロの顔を見た。


「身体とのつながりは戻ったって。でも、そこまで行く道が、まだつかめない」


 ミオは右手へ目を落とした。


「この感じは、あるのに」

「うん。でも、さっきまではそれもなかった」


 ミオが時計を見る。

 秒針は動いている。

 止まっていた世界は、確かに動き始めた。

 それでも、出口は開かない。

 アウロは小さく息を吐いた。


『フォレストコインなしで経路を固定できない問題は、まだ残ってる』


 胸元の《コマンダー》に、アウロの指が触れた。

 武器用のアンカーさえあれば。

 そう考えてから、指を離す。

 今必要なのは、戦う力ではなかった。


「じゃあ次は、その道を探すしかないね」

『そういうこと』

「ランさん」

『なに』

「頼りにしてるよ」

『最初からそうしなさい』


 アウロは笑った。

 ミオが、食卓越しに手を伸ばす。

 アウロはその手を取った。


「帰れますよね」

「帰るよ」


 即答した。


「まだ方法は分かんないけど」

「そこは言わなくてもいいです」

「ごめん」


 ミオが少しだけ笑う。

 時計の針は、もう止まっていなかった。

 六時十二分。

 そこから、一秒ずつ。

 現実へ向かって進み始めていた。


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