Operator
天井が崩れた。
アウロはミオの腕を引き、横へ跳ぶ。
直後、さっきまで二人がいた場所に食卓が落ち、皿が砕け散った。
床に広がった味噌汁は、次の瞬間には消え、代わりに子ども部屋の床がせり上がってくる。
「ミオさん、こっち!」
「帰らなきゃ。朝ごはんを作って、ハルを起こして、学校の準備をしないと。もう時間がないんです」
「分かってる。でも、今は俺についてきて。ここにいたら、二人とも潰される」
ミオは頷かなかった。
焦点の合わない目で前を見つめ、口の中で同じ言葉を繰り返している。
アウロは彼女の手を握り直し、崩れかけた廊下へ飛び出した。
背後では、熊の胴体に兎の脚がめり込み、犬や猫の頭がいくつも突き出した巨大な塊が、壁を押し潰しながら迫っていた。
「いやあ、ずいぶん大きくなったね。さっきの大きさでも、十分困ってたんだけど」
返事はない。
ミオは自分の足で走っているのに、どこか別の場所へ向かおうとしているようだった。
『お母さん』
廊下の先から、ハルの声がした。
ミオが足を止める。
「ハル?」
「違う。あれは、さっきからここで聞こえてる声だよ」
『お母さん、どこにいるの?』
「ハル! お母さん、ここにいるよ!」
ミオがアウロの手を振りほどこうとした。
その瞬間、声のした壁が割れ、巨大なぬいぐるみの腕が突き出してくる。
「っ……!」
アウロはミオの身体を腕の軌道から押し出し、自分もその隣へ転がった。
腕が頭上を通り過ぎ、背後の壁を粉々に砕く。
すぐに立ち上がろうとしたが、右肩に力が入らなかった。
前の任務から残っていた痺れに、ここで受けた痛みが重なっている。
「……いい加減、休暇申請したいんだけどな」
片膝をついたまま周囲を見渡す。
後ろにはぬいぐるみの塊。
前には崩れ続ける廊下。
左右の扉は、開くたびに違う部屋へ繋がっている。
ここへ来てから、ずっと同じことを繰り返していた。
逃げて、戻されて、また逃げる。
そのうちミオを見つければ何とかなると思っていたが、見つけたところで状況は悪くなる一方だった。
「ミオさん、少しだけこっちを見てくれる?」
「私が、ちゃんとしないと」
「ミオさん、足元を見て。そこから離れよう」
「私がちゃんとしてたら、あの子は一人であんなところまで来なかった!」
ミオの叫びに合わせて、廊下が大きく傾いた。
アウロは咄嗟に彼女を抱えるように引き寄せ、壁に背中を打ちつけながら身体を支えた。
目の前で床板が剥がれ、その向こうに底の見えない暗闇が口を開ける。
「……まずいな」
どこへ逃げればいいのか分からない。
ミオに何を言えば届くのかも分からない。
拳銃型アンカーは、レヴァンの机に置いてきた。
コートの内側にある《コマンダー》も、今は使えない。
アウロは歯を食いしばり、ミオを支える腕に力を込めた。
「ごめんね、ミオさん。ちょっとだけ、俺に時間をくれないかな。ここを抜ける方法を考えるからさ」
ミオは俯いたまま、答えなかった。
その時、頭の奥で何かが弾けた。
ざらついたノイズが走り、アウロは思わず眉を寄せる。
「……なんだ?」
途切れたと思ったノイズが、再び聞こえた。
『――ウロ……聞こえ……』
誰かの声だった。
アウロは周囲を見回す。
近くにいるのはミオだけだ。
『アウロ! 聞こえてるなら返事くらいしなさい! 昔からそうだけど、なんであんたは人が一番急いでる時に黙るの!』
その声を聞いた瞬間、アウロは目を見開いた。
「……ランさん?」
『そうよ。あんたの元教官で、今まさに五世代前の骨董品相手に必死で接続を繋いでる、かわいそうな女よ』
「元気そうでよかった」
『どこを聞いたらそう思えるのよ! こっちはあの家の男から連絡が来て、機材を持って飛んできたの。あんたが第六まで潜って、しかも機械の反応がおかしくなってるって言うじゃない。私が教えたのは眠れる場所であって、死に場所じゃないのよ!』
「そこは俺も反省してる。あの家に行く前は、いきなり第六まで潜るつもりじゃなかったんだけどね」
『予定じゃなかったら第六に行っていいわけでもないでしょうが! それに、あんた武器アンカーを持ってないんですって? そこまで聞いた時は、さすがにあの男の聞き間違いだと思ったわよ』
「残念ながら、全部正解」
『胸を張って言うことじゃない!』
壁が軋み、頭上から破片が落ちた。
アウロはミオの肩を抱き、張り出した柱の陰へ移る。
それから、小さく笑った。
怒られている。
それなのに、聞き慣れた声が届くだけで、不思議と身体の力が抜けていく。
「……その声で指示されるの、久しぶりだね」
『そういう話は帰ってからにしなさい。今はあんたを助けるために繋いでるの。昔話をしたければ、まず生きて戻ってきなさいよ』
アウロはミオを支え直し、まだつながっている床へ足を移した。
「了解。で、ランさんは今、どこにいるの?」
『あの家の奥よ。男が非常用の端子を残してたから、持ってきた機材を繋いでる。ただし、古すぎてまともに動かない。あんたたちの反応を拾うだけでも一苦労なんだから、これ以上余計なことしないで』
「なるほど。昔の機械にも、いいところはあるんだね」
『あるわけないでしょう。帰ってきたら全部取り替えさせたいくらいよ』
そこで、ランの声が急に低くなった。
『アウロ、背後の反応が急に近づいてる。そっちで見える?』
アウロは振り返った。
壁の裂け目から、太い腕が伸びている。
「見えた。右なら、まだ床がある」
『そこへ逃げて。ミオさんを離さないで!』
アウロはミオを引き寄せ、右へ跳んだ。
直後、先ほどまで二人がいた場所を巨大な腕が貫いた。
壁が崩れ、破片が降り注ぐ。
「……助かった」
『お礼はあと。あんたの後ろから来てる反応、さっきより大きくなってるわ。まともに相手をしても止まらないから、今は逃げることだけ考えて』
「了解、教官」
懐かしい呼び方だった。
ランは一瞬だけ黙ったが、すぐに言葉を続けた。
『今から少しずつ進路を伝える。こっちで見えてるのは、あんたたちの接続反応と空間の大まかな変化だけよ。現在の装置みたいに座標を固定することはできないし、帰還信号を復旧できたわけでもない。それだけは勘違いしないで』
「分かった。少なくとも、さっきまでよりはずっとましだよ」
『なら、左。壁際を進んで。正面は反応が密集してる』
アウロはミオの手を引いたまま走る。
アウロが誰かに返事をするたび、ミオの視線が少しずつこちらへ戻ってきた。
握られた手を見下ろし、それから彼の顔を見る。
「誰と話してるんですか?」
「昔の教官。すごく怖い人なんだけど、こういう時は頼りになるんだ」
『アウロ、今なんて言った?』
「通信状態、かなりいいみたい」
『誤魔化さないで。怖い人って言ったでしょう』
「ね? 怖いでしょ」
ミオは困惑した表情でアウロを見た。
「……私には聞こえないです」
「それは幸運だと思う」
『聞こえてるからね』
「はいはい」
『はいは一回』
「はい」
アウロは口元を緩めた。
その時、ミオの足が止まった。
「……私が悪いんですよね」
「え?」
「これ、全部。私が帰りたくないなんて言ったから、こんなことになったんですよね」
ミオは崩れ続ける廊下を見た。
「私が少し休みたいなんて思わなければ、ハルだって一人であの家に来なかった。アウロさんだって、こんなところまで来なくてよかった」
『アウロ。対象者の反応がまた乱れてる。何かあった?』
「自分のせいだって」
『本人が意図して空間を動かしてるとは限らない。反応を見る限り、感情の変化にフォレストが引っ張られてるように見えるわ』
アウロはミオを見る。
「ミオさんがわざとやってるとは限らないって。俺も、君がこんなことをしたいとは思ってないよ」
「でも、私が迷わなければ」
「迷うくらい普通でしょ」
ミオが顔を上げる。
「その話は、落ち着ける場所に出てから聞く。今は一緒に動こう」
「……」
「俺も、あとでたっぷり怒られそうだし」
『分かってるなら、ちゃんと帰ってきなさい』
「ほら、俺の方が怒られてる」
ミオの口元がほんの少しだけ緩んだ。
『左側は反応が薄い。通れそうなところはある?』
アウロは壁を見た。
「今は壁しかない……いや、待って」
少し先で壁紙が波打った。
縦に細い線が走り、扉の輪郭が浮かび上がる。
「扉が出てきた」
『中を確かめて。こっちでは、そこまでは見えない』
アウロは扉を細く開いた。
狭い廊下が続いている。
見える範囲に、ぬいぐるみはいなかった。
「通れそうだ」
『なら急いで。後ろが近づいてる!』
アウロは扉を押し開いた。
「ミオさん、行こう」
ミオは少し迷ったあと、アウロの手を握り返した。
「……行きます」
「うん」
二人で扉を抜ける。
『閉めて!』
アウロが扉を閉じた直後、向こう側へ巨大な何かが激突した。
扉全体がこちらへ膨らみ、蝶番が悲鳴を上げる。
「うわ、危なっ」
『だから急げって言ったでしょう』
アウロはミオの手を引き、細い廊下を進んだ。
ランが伝える反応と、目の前の通路を照らし合わせて進むうちに、壁の揺れは少しずつ収まっていく。
崩壊が止まったわけではない。
時折、背後の扉が消え、足元の床がずれる。
それでも、さっきのように道そのものを見失うことはなくなった。
「……やっぱり」
『何よ』
「一人でやる仕事じゃなかったね」
『今さら?』
「さっきから身に染みてる」
『だったら次は最初から呼びなさい』
「はい、教官」
その時、廊下の先に光が差した。
壁の中央に、ひときわ大きな扉が現れる。
扉の向こうから、食器の触れ合う音が聞こえた。
水道の音。
目覚まし時計。
そして、子どもの笑い声。
ミオの手に力が入る。
「……ハル?」
『アウロ、止まって。その先、対象者の反応が急に強くなってる。何が見える?』
「大きな扉。向こうから生活音が聞こえる。たぶん、またダイニング」
『入らないで。今までの部屋と同じものかどうか、こっちからは判別できない』
扉がゆっくり開き始めた。
眩しい朝の光が漏れる。
その向こうには温かな食卓があり、卵焼きと味噌汁が並んでいた。
椅子には、小さな子どもが座っている。
黄色いランドセル。
見覚えのある後ろ姿だった。
「ハル……?」
ミオが一歩進む。
アウロは手を握ったまま、彼女の前へ回った。
「ミオさん。たぶん、あれは――」
「分かってます」
ミオはアウロを見なかった。
「本物じゃないんですよね」
「……うん」
扉の向こうで、ハルが振り返った。
笑っている。
『お母さん、今日の卵焼き、おいしいね』
ミオの足が止まった。
何も心配していない顔だった。
何も我慢していない。
ミオがずっと見たかった顔だった。
「……こんな顔してたんです」
アウロは黙っていた。
「前は」
扉の中のハルが笑う。
『お母さん、早くおいでよ』
ミオが一歩進む。
「私がちゃんとしてた時は、こんな顔で笑ってたんです。朝ごはんを作って、ちゃんと起こして、学校に送り出して。あの子が、何も心配しなくてよかった時は」
扉の向こうのハルが手を振る。
ミオの頬を涙が伝った。
「私、ただこれがしたかっただけなのに」
アウロは何も言わなかった。
「普通に起きて、ご飯を作って、行ってらっしゃいって言って。帰ってきたら、お帰りって言って」
『お母さん』
「それだけでよかったのに」
背後の廊下が軋んだ。
アウロは振り返り、逃げられる床がまだ残っていることを確かめる。
ミオの手は離さなかった。
ミオがもう一歩進みかける。
けれど、アウロから聞いた話が頭をよぎった。
ハルは、一人であの家まで来たという。
母親は疲れていただけだと、知らない人にまで話していたという。
どんな顔で言ったのだろう。
ここで笑っている子どもを見ても、それは分からなかった。
「……あの子、待ってるんですよね」
アウロが頷いた。
「俺が潜る前は、君の隣にいた」
ミオは扉の向こうを見た。
ハルの姿をした子どもが、笑って手を振っている。
見たかった顔だった。
それでも、今、外で待っている息子の顔ではなかった。
「……会いたいです」
ミオはアウロの手を握り直した。
「本物のハルに、会いたいです」
その瞬間、扉の向こうの朝が止まった。
子どもの笑顔に亀裂が走る。
食卓が歪み、卵焼きも味噌汁も、黄色いランドセルも崩れていった。
『アウロ! そこから離れて!』
ランの声が飛ぶ。
扉の奥から、無数のぬいぐるみの腕が伸びた。
「ミオさん、走るよ!」
アウロは彼女の手を引き、廊下を駆け出した。
伸びてきた腕が背後の壁へ突き刺さり、床が大きく揺れる。
『そのまま真っ直ぐ! 振り返らないで!』
「了解! ミオさん、大丈夫?」
「はい……!」
「よかった。じゃあ、もう少しだけ頑張って」
廊下の先で壁が左右に割れた。
その向こうには、最初に見たダイニングがあった。
白いご飯。
味噌汁。
卵焼き。
焼き鮭。
時計は六時十二分を指している。
『そこで止まって』
二人は食卓の手前で足を止めた。
『今いる場所は、さっきまでより反応が安定してる。少なくとも、あんたたちを見失う心配は減ったわ』
「よかった。じゃあ、帰還の準備をお願いできる?」
返事がなかった。
「……ランさん?」
『ミオさんの意識反応は、さっきより落ち着いてる。あんたとの接続も今は追えてる』
「うん。それで?」
『でも、帰還信号は戻ってない。あんた自身の帰還座標も固定できてないの。私が繋いだのは、あくまで通信と反応の追跡だけ。今の設備で二人を引き上げられるとは、まだ言えない』
アウロは笑みを消した。
ランが来た。
声が届いた。
道も見えるようになった。
それでも、帰れるわけではなかった。
「……そっか」
『期待させたなら、ごめん。通信を維持するのが、今は精一杯なの』
「いや、最初に聞いてたよ。ちょっと都合よく考えてただけ」
ミオが不安そうにアウロを見る。
「……帰れないんですか?」
「まだ見つかってない。今、ランさんと探してる」
「でも」
「君は、本物のハルくんに会いたいって言った」
ミオは小さく頷いた。
「……はい」
「なら、次は俺たちの番だ」
「俺たち?」
「うん」
アウロは少しだけ笑った。
「今は、一人じゃないからね」
ノイズの向こうで、ランが小さく息を吐いた。
『……本当に、昔から調子のいいことばっかり言うんだから』
「嫌いじゃないでしょ?」
『そういうところが嫌いなのよ』
アウロは笑った。
『アウロ。現実側の接続は維持する。帰還経路はここから探すから、あんたはミオさんを守って』
「了解、教官」
アウロは食卓の時計へ目を向けた。
六時十二分。
針は、まだ動いていなかった。




