Not
「……まだ、帰りたくないです」
ミオは膝に顔を伏せたまま、もう一度そう言った。
アウロはすぐには答えなかった。
扉の向こうでは、さっきまであれだけ騒いでいたぬいぐるみたちの音がしない。
この部屋だけが、フォレストから切り取られたみたいに静かだった。
「そっか」
返ってきた言葉に、ミオがゆっくり顔を上げる。
「……それだけですか?」
「怒ってほしかった?」
「そうじゃないですけど」
「じゃあ、いいじゃん」
アウロは壁際まで下がり、その場に腰を下ろした。
ミオがまだ警戒しているのは分かっている。
だから、それ以上距離を詰めなかった。
「俺は迎えに来たけど、縄つけて引っ張って帰るつもりはないよ」
「でも、帰らないといけないんですよね」
「それを決めるのは俺じゃない」
「じゃあ、帰らなくてもいいんですか」
アウロは少しだけ困ったように笑った。
「難しいこと聞くね」
「迎えに来たんでしょう?」
「来たよ」
「だったら、帰れって言えばいいじゃないですか」
「言ったら帰る?」
ミオは答えなかった。
「ほら」
アウロは膝を立て、その上に腕を置いた。
「帰れって言うだけじゃ、帰れないんだよね」
ミオの視線が落ちる。
アウロは部屋を見回した。
何もない。
窓も時計もない。
朝食も、学校の支度も、ハルの声もない。
「いい部屋だね」
ミオが顔を上げた。
「……何もないのに?」
「だからじゃない?」
アウロは天井を見る。
「外はすごかったよ。朝ごはんはあるし、ランドセルはあるし、洗面所ではずっと『起きなきゃ、作らなきゃ』って聞こえるし。おまけにぬいぐるみは殴ってくる」
「ぬいぐるみ?」
「そこは知らないんだ」
「知りません」
「熊、結構強かったよ」
ミオの口元がほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
「でも、ここには何もない」
アウロが続ける。
「ハルくんのものもない。お母さんでいなきゃいけないものもない。ミオさんが何かをしなきゃいけないものが、一個もない」
ミオは自分の膝を見つめた。
「それがいいんです」
「うん」
「ここなら、誰にも呼ばれないから」
その言葉だけは、少しだけ軽く聞こえた。
「朝になっても起きなくていい。ご飯を作らなくていい。洗濯もしなくていいし、学校のプリントも見なくていい。誰かが何かを探してても、私に聞かれない」
ミオは膝を抱える腕に力を入れた。
「何もしなくても、誰にも迷惑をかけない」
アウロは黙って聞いていた。
「ハルはいい子なんです。本当に。私が疲れてると、自分でできることは自分でするし、朝起きられない時も怒らない。『大丈夫だよ』って言ってくれるんです」
ミオの声が少し震えた。
「小学生なのに」
「うん」
「私が大丈夫じゃないから、あの子が大丈夫って言うんです」
アウロから笑みが消えた。
「それが、一番嫌だった」
「ハルくんが?」
「違います」
ミオはすぐに首を振った。
「あの子じゃない。私です。あの子にそう言わせてる自分が嫌だった」
小さな部屋に声だけが残る。
「ちゃんとしようって思うんです。明日はちゃんと起きよう。朝ごはんを作ろう。洗濯物を溜めないようにしよう。学校から帰ってきたらちゃんと話を聞こうって。でも、朝になると身体が動かなくて」
ミオは自分の手を見た。
「それなのに、ハルは私を責めないんです」
「優しいね」
「優しすぎるんです」
今度は、はっきりと涙が落ちた。
「怒ってくれた方が楽だった。『ちゃんとしてよ』って言ってくれたら、ごめんって言えるのに。あの子、いつも『大丈夫』って言うから」
ミオは手の甲で涙を拭った。
「だから、少しだけいなくなりたかった」
アウロの中で、ハルの言葉が繋がった。
ずっと疲れてただけなんです。
「最初から、ここに残るつもりだった?」
「違います」
ミオは首を振った。
「少し寝たら帰るつもりでした。本当に、それだけだったんです」
「浅いところで休むって?」
「はい。あの人には、そう言いました」
「外の機械では、第六って出てた」
「……第六?」
ミオは初めて、自分のいる場所を知ったような顔をした。
「そんなに深いんですか」
「今いる場所を正確に測れる人は、こっちにはいない。でも、最初の場所から沈んでるのは確かみたい」
「どうして」
「俺にも分からない。ここに来る前のこと、覚えてる?」
ミオはしばらく黙った。
「気づいたら、ここにいました」
「この部屋に?」
「最初は違います。普通の家でした。朝になって、目覚ましが鳴って、ハルを起こして、ご飯を作って」
「夢の中でも?」
「はい」
ミオは自嘲するように笑った。
「おかしいですよね。逃げてきたはずなのに、夢の中でも同じことしてるんです」
「夢の中でも、休めなかったんだね」
「それで、嫌になって」
ミオは部屋の壁へ目を向けた。
「静かなところがほしいって思ったら、ここができました」
「自分で作ったんだ」
「分かりません。でも、ここにいると何も聞こえないから」
アウロは背中を壁へ預けた。
「それで三日?」
「三日も?」
ミオの顔が強張る。
「現実ではね」
「……そんなに」
「ハルくん、一人で待ってた」
「やめてください」
「ごめん」
アウロはすぐに引いた。
ミオは目を閉じる。
「分かってるんです」
「うん」
「帰らないといけないのも、あの子が待ってるのも、全部分かってる」
声が掠れる。
「でも、帰ったらまた朝が来る」
アウロは何も言わなかった。
「また起きて、お母さんにならないといけない」
「……そうだね」
「できる気がしないんです」
「うん」
「ここにいたら駄目ですか」
まっすぐ聞かれた。
アウロは答えようとして、言葉が止まった。
レヴァンから聞いた声が、頭の奥で蘇る。
ここが家だよ。
アカネが、そう言ったという。
夢の中にいることを選んだ人間。
幸せなら。
苦しくないなら。
それでも現実へ連れ戻すことが、本当に救うことなのか。
アウロは頭を掻いた。
「『子どものために帰れ』とか、『現実から逃げちゃ駄目だ』とか。言うだけなら簡単なんだけど」
ミオの目が伏せられる。
「俺、君がどれだけしんどかったのか知らないんだよね」
「……」
「だから、分かったふりはしない」
アウロはミオを見る。
「ただ、ハルくんが君を待ってるのは知ってる。君がいなくなってから、一人であの家まで来たのも見た」
「はい」
「それと、もう一個」
「なんですか」
「君、さっき『帰らない』じゃなくて、『まだ帰りたくない』って言ったよね」
ミオの目が僅かに動いた。
「それ、結構違うと思うんだけど」
「……同じです」
「そう?」
「今は帰りたくない。それだけです」
「じゃあ、いつかは?」
「分かりません」
「うん。それなら分からないでいいんじゃない?」
ミオが顔を上げた。
「でも、ここで一生分を決めなくてもいいでしょ」
「どういう意味ですか」
「今、疲れ切ってる時に『この先ずっと現実に帰りません』まで決めなくてもいいってこと」
アウロは部屋を見回した。
「休むのはいいよ。俺だって休みたい。でも、休憩するために入った部屋を、そのまま家にしちゃうかどうかは別の話じゃない?」
ミオは黙った。
「少なくとも、ハルくんの顔をもう一回見てから決めても遅くないと思うけどな」
「見たら、帰らないといけなくなる」
「なるかな」
「なります」
「なんで?」
「ハルが泣いたら、私は帰るって言うから」
アウロは少し考えた。
「それは、帰りたいってことじゃないの?」
「違う」
ミオは強く首を振った。
「あの子を泣かせたくないだけです」
「そっか」
「だから会いたくない」
矛盾している。
でも、アウロにはそれを指摘する気になれなかった。
会いたくないほど大切なのだ。
大切だからこそ、自分の気持ちを後回しにすることが分かっている。
「難しいね、親って」
「アウロさんは?」
「俺?」
「子ども、いるんですか」
「いないよ」
「じゃあ、分からないですよ」
「うん。分からない」
即答すると、ミオが少し驚いた。
「そこ認めるんですね」
「知らないことまで知ってる顔するほど器用じゃないんで」
「さっきから、結構器用そうですけど」
「褒められた?」
「別に」
「残念」
ミオの口元が僅かに緩んだ。
その時だった。
壁の向こうで、低い音がした。
アウロが顔を上げる。
「……今の何?」
ミオも周囲を見る。
「分かりません」
もう一度。
今度ははっきりと、部屋そのものが軋んだ。
天井から細かな埃が落ちる。
「嫌な感じだな」
「何が起きてるんですか」
「俺に聞かないでほしいなあ。こういうの教えてくれる人、今日いないから」
壁に細い亀裂が走った。
さっきまで何も聞こえなかった部屋の向こうから、遠くの生活音が滲み込んでくる。
目覚まし。
食器。
水道。
そして。
『お母さん』
ミオの身体が強張った。
『お母さん』
ハルの声。
「やめて」
ミオが耳を塞ぐ。
壁の亀裂がさらに広がる。
「ミオさん」
「聞きたくない」
『お母さん』
「やめて!」
部屋が大きく揺れた。
床が波打つ。
アウロは壁に手をついて身体を支えた。
「まずいな」
「何が」
「分かんない」
「分からないんですか?」
「今日はそればっかりなんだよね」
冗談めかして言ったが、笑えなかった。
壁の向こうから、ぬいぐるみが扉を叩く音まで戻ってくる。
この部屋が壊れ始めている。
アウロがここへ来たせいなのか。
ハルの話をしたせいなのか。
それとも、ミオ自身が迷い始めたからなのか。
判断できる材料がない。
「とりあえず、ここから出よう」
「嫌です」
「気持ちは分かるとは言わない。でも、この部屋はもう長く持たない」
「外に出たら、またあれがある」
「俺がいる」
「知らない人じゃないですか」
「まあ、それはそうだけど」
アウロは苦笑した。
「でも、熊よりは話通じるよ」
ミオは答えない。
天井の一部が崩れた。
アウロはミオの前へ移動する。
「帰るかどうかは、今決めなくていい」
ミオを見る。
「でも、ここで潰れるのは違うでしょ」
「……」
「まず、この部屋から出よう。その先でまた考えればいい」
アウロは手を差し出した。
「俺が無理やり現実まで連れていくことはしない」
「本当に?」
「うん」
「途中で気が変わっても?」
「その時は、その時に話そう」
「ずるいですね」
「よく言われる」
ミオは差し出された手を見つめた。
部屋がまた揺れる。
遠くからハルの声が聞こえる。
『お母さん』
ミオは目を閉じた。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
指先がアウロの手に触れる。
「……まだ、帰るって決めたわけじゃないですから」
「分かってる」
アウロはその手を握った。
「まずはここから出よう」
その瞬間だった。
ミオの身体が大きく震えた。
「……え?」
握っていた手に、異様な力が入る。
「ミオさん?」
返事はない。
俯いたまま、ミオの呼吸だけが急に浅くなる。
「ちょっと待って。どうしたの」
「帰らなきゃ」
小さな声だった。
「うん?」
「帰らなきゃ」
ミオが顔を上げる。
さっきまで涙で濡れていた目が、焦点を失っていた。
「ハルが待ってる。朝ごはん作らなきゃ。学校の準備しなきゃ。洗濯もしてない。プリントも見てない」
「ミオさん」
「帰らなきゃ。帰らなきゃいけない」
同じ言葉が重なっていく。
ミオ自身の声だけではない。
壁の向こう。
天井。
床。
この部屋のあらゆる場所から、同じ声が聞こえ始める。
『帰らなきゃ』
『起きなきゃ』
『作らなきゃ』
『ちゃんとしなきゃ』
アウロが握っていたミオの手を強く引いた。
「ミオさん、俺を見て」
「ちゃんとしなきゃ」
「大丈夫。今は何もしなくていい」
「駄目」
ミオが強く首を振る。
「私がやらないと」
「聞こえてる。俺にも聞こえる。でも、今はその声に従わなくていい。まずここを出よう」
「でも、私がやらないと!」
叫んだ瞬間、部屋の壁が弾けた。
「っ!」
アウロはミオを庇うように身体を倒した。
隠し部屋を囲んでいた壁が崩れ、その向こうから今まで見てきた景色が一気に流れ込んでくる。
ダイニング。
洗面所。
玄関。
子ども部屋。
無数の扉。
それらが形を保てないまま重なり、部屋そのものを飲み込んでいく。
止まっていた時計の針が、猛烈な勢いで回り始めた。
六時十二分。
六時十三分。
七時。
八時。
昼。
夜。
また朝。
時間が壊れていく。
「ミオさん!」
「間に合わない」
ミオは耳を塞いだ。
「全部、間に合わない」
『お母さん』
ハルの声が響いた。
ミオの身体が跳ねる。
「ごめんなさい」
『お母さん』
「ごめんなさい」
『お母さん』
「ごめんなさい!」
床が大きく隆起した。
アウロはミオの腕を掴んだまま、壁へ叩きつけられる。
「っ……!」
息が詰まる。
視界が揺れた。
立ち上がろうとする。
けれど、足元の床そのものが形を変え続けている。
廊下から、ぬいぐるみたちが雪崩れ込んできた。
今までとは違う。
熊も兎も犬も猫も、身体が歪み、互いに縫い合わされながら一つの巨大な塊になっていく。
「これは……」
アウロはミオを自分の後ろへ庇った。
アンカーはない。
コマンダーのコインも使えない。
どこへ逃げればいいのかも分からない。
何より。
「ミオさん、聞こえる?」
振り返る。
ミオはそこにいた。
けれど、もうアウロを見ていなかった。
「私がちゃんとしないと」
その声に合わせるように、フォレスト全体が軋んだ。
天井が落ちる。
壁が折れる。
無数の扉が一斉に開く。
その向こうから、同じミオの声が何百、何千と流れ込んでくる。
『ちゃんとしなきゃ』
アウロは初めて、何をすればいいのか分からなかった。
「……まずいな」
返事をしてくれる声は、どこにもなかった。




