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mom

「……ほんと、一人でやる仕事じゃないな」


 その言葉を待っていたように、正面の熊が腕を振り上げた。

 アウロは一歩踏み込み、振り下ろされた腕を肩の外へ流す。

 懐に入り、そのまま肘を取ろうとしたところで、横から兎が飛びついてきた。


「っと」


 熊を押し離しながら身体を捻る。

 兎の身体が胸元を掠めた。

 その隙を狙うように、背後から犬が突っ込んでくる。

 避けきれない。

 鈍い衝撃が腰に入り、アウロの身体が壁へ叩きつけられた。


「っ……痛いな」


 息を吐く間もなく熊が迫る。

 床を蹴り、横へ転がった。

 さっきまで頭があった場所へ太い腕が叩きつけられ、床板が大きく沈む。


「数の暴力って、あんまり好きじゃないんだよね」


 立ち上がる。

 廊下の前にも後ろにも、ぬいぐるみ。

 今では原型すら分からないものまで混ざっている。

 縫い合わせられた長い腕を持つものや、三本の脚で這うもの。

 破れた身体から綿を引きずりながら、それでもゆっくり距離を詰めてくる。

 倒しても終わらない。

 逃げても同じ場所へ戻される。

 どの扉を選べばいいのかも分からない。


「さて、どうしたものか」


 アウロは呼吸を整えた。

 まだ動ける。

 でも、このまま同じことを続けていれば先に身体が止まる。

 正面の熊が走り出す。

 その後ろから、ぬいぐるみの群れが続いた。


「相談できる人もいないしなあ」


 半歩下がった時、胸元に硬いものが当たった。

 アウロの動きが一瞬止まる。


「……あ」


 コートの内側へ手を入れ、一枚のコインを取り出した。

 天城が残したJob Coin《コマンダー》。


「そういえば、君がいたね」


 一瞬だけ、光が見えた気がした。

 コマンダー。

 指揮する者。

 命令する者。

 名前だけなら、この状況にこれ以上ないくらい頼もしい。


「これなら――」


 そこまで言って、アウロは止まった。

 掌のコインを見る。

 それから、自分の腰を見る。

 何もない。


「……いや」


 もう一度コインを見る。


「駄目じゃん」


 Job Coinは、アンカーに装着して初めて使える。

 そのアンカーを、自分は持っていない。

 VIGILを辞めた時に置いてきた。


「せっかく切り札っぽいの持ってるのに」


 熊が迫る。

 アウロはコインを握り込み、身体を横へ流した。


「差し込む場所がないんじゃ、ただのコインだよね」


 熊の腕をかわし、懐へ入る。


「天城くん、ごめん。今日はまだ出番ないみたい」


 コインをしまい、振り下ろされた腕をかわす。

 そのまま熊の横を抜け、開いていた扉へ飛び込んだ。

 また、最初のダイニングだった。

 白いご飯。

 味噌汁。

 卵焼き。

 焼き鮭。

 時計は六時十二分のまま止まっている。


「またここか」


 背後の扉を閉める。

 すぐに向こう側で何かがぶつかった。

 アウロは息を整えながら、食卓に手をついた。

 ここまで見たものを思い返す。

 朝食。

 子ども部屋。

 ランドセル。

 洗面所。


『起きなきゃ』

『ご飯、作らなきゃ』

『学校行かせなきゃ』


 どの扉を開けても、あったのはハルと暮らすためのものばかりだった。


「……変だな」


 アウロは顔を上げる。


「ミオさんのものがない」


 服も、趣味も、好きなものもない。

 どの部屋にもあるのは母親としての生活だけ。

 ハルを起こす。

 朝食を作る。

 学校へ送り出す。

 家を片づける。

 ずっと誰かのための部屋だった。


「ここなら、少しは休めると思ったのかな」


 ハルが話していた、疲れ切った母親の姿を思う。

 アウロは部屋を見回した。


「なのに、ここでもずっとお母さんやってる」


 扉の向こうで熊が暴れている。

 蝶番が軋んだ。

 アウロはそれを見ながら、小さく首を傾げる。


「逃げたいのに、逃げられてないのか」


 だったら。

 ミオ本人がいる場所は、この無数の扉のどれかじゃない。

 朝食も、学校も、ハルの声も届かない場所。


「……隠れてる?」


 アウロはダイニングを見渡した。

 冷蔵庫。

 流し台。

 食卓。

 食器棚。

 どれも何度も見た。

 ただ、一ヶ所だけ妙なところがあった。

 食器棚の横。

 壁紙の模様が、ほんの少しだけずれている。


「これ、最初からあったっけ」


 近づく。

 指で壁をなぞる。

 縦に一本、細い隙間があった。

 その先から、ほんのわずかに冷たい空気が漏れている。


「扉じゃん」


 ノブはない。

 壁と同じ模様で塗り潰され、見つけてほしくないと言わんばかりに隠されている。

 背後で大きな音がした。

 熊の腕が扉を突き破る。


「時間ないな」


 アウロは隠し扉の中へ身体を滑り込ませた。

 扉を閉める。

 途端に、すべての音が消えた。

 静かだった。

 あまりにも静かだった。

 そこは、小さな部屋だった。

 窓はない。

 時計もない。

 テレビも、スマートフォンもない。

 ランドセルも、子どもの服も、朝食もない。

 何かをしなければならないものが、ここには一つもなかった。

 その真ん中に、一枚だけ布団が敷かれている。

 女が横になっていた。

 長い髪。

 痩せた身体。

 現実で見た顔と同じだった。


「……ミオさん?」


 女の瞼がゆっくり開いた。

 ぼんやりと天井を見たあと、アウロへ視線が向く。

 その瞬間、女の身体が跳ねた。


「……誰?」


 布団を掴み、身体を起こす。


「誰ですか」


 アウロが一歩近づくと、ミオは反射的に後ろへ下がった。


「待って。来ないで」

「あ、ごめん」


 アウロはすぐに足を止めた。

 両手を軽く上げる。


「怪しいよね。うん、分かる」

「なんでここにいるんですか」

「それを説明するとちょっと長いんだけど」

「ここ、誰も入れないはずなのに」


 ミオは周囲を見回した。

 自分の隠していたものを、知らない人間に覗かれたような顔だった。


「どうやって入ったんですか」

「扉があったから」

「扉なんて……」


 ミオの視線が、アウロの背後へ向く。

 そこにあるはずのない隠し扉を見て、表情が強張った。


「……なんで」

「だいぶ探したよ」


 アウロは苦笑した。


「熊には殴られるし、兎には追いかけられるし。正直、もう少し歓迎されると思ってた」

「何を言ってるんですか」

「ですよね」


 ミオはまだ警戒を解かなかった。


「あなた、誰なんですか」


 今度は、アウロもふざけなかった。


「アウロ」

「知らない」

「うん。初対面だからね」

「じゃあ、どうして私の名前を知ってるんですか」


 アウロは少しだけ間を置いた。


「あの家の人に聞いた。そこで、ハルくんにも会った」


 ミオの表情が止まった。


「……え?」

「息子さん」

「なんで」


 ミオが立ち上がる。


「なんでハルがあなたと話してるんですか」

「迎えに来たんだよ」

「どこに」

「君を」


 ミオの唇が僅かに開いた。

 何かを言おうとして、言葉にならない。


「ハルくん、あの家まで一人で来た」

「……嘘」

「ほんと」

「そんなはずない」


 ミオの顔から血の気が引いた。


「ずっと待ってたみたい」

「……」

「お母さんは少し休んだら帰ってくるって」


 ミオが目を伏せる。


「朝ごはんも作るって言ってたって」

「やめて」


 小さな声だった。

 アウロは口を閉じた。

 ミオは胸元を押さえ、しばらく俯いていた。


「そう」

「頑張ってたよ」


 ミオの口元が僅かに歪んだ。


「そういう子なんです」

「うん」

「私がしっかりしないと、あの子がしっかりするんです」


 アウロは何も言わなかった。

 ミオは布団へ座り直した。

 膝を抱える。


「だから、帰らないといけないんですよね」

「俺は迎えに来た」

「分かってます」


 声が震えていた。


「分かってるんです」


 長い沈黙が落ちる。

 ミオは膝に顔を伏せた。


「でも」


 アウロは続きを待った。


「……まだ、帰りたくないです」

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