No Signal
落ちた。
そう思った時には、もう身体の輪郭が曖昧になっていた。
上も下も分からない。
暗い水の底へ、ゆっくり沈められていくような感覚だけが続いている。
いつもなら、ここで声がする。
『深度確認します』
『座標、固定』
『アウロ、聞こえますか』
リンの声。
けれど、今日は何も聞こえない。
「……静かだな」
自分の声だけが、妙に近かった。
次の瞬間、背中に硬い感触がぶつかる。
「っ……」
目を開ける。
ぐちゃぐちゃの世界だった。
どこかの家のリビングに見える。
けれど、壁と天井の境目は途中から溶けたように歪み、窓の外には朝焼けとも夕焼けともつかない光が滲んでいる。
床板は部屋の中央までは真っ直ぐ敷かれているのに、その先では波打ちながら壁へと続いていた。
アウロは床に仰向けになっていた。
ゆっくり身体を起こす。
「着地まで雑なんだ、五世代前、恐るべしだね」
立ち上がり、首を鳴らす。
歪んではいるものの、そこは確かに小さなダイニングだった。
四人掛けにも満たない食卓に二脚の椅子。
冷蔵庫と流し台。
壁には少し黄ばんだカレンダーが掛けられ、窓の向こうから薄い朝の光が差し込んでいる。
食卓には朝食が並んでいた。
白いご飯、味噌汁、卵焼き、焼き鮭。
どれも誰かが今しがた用意したように温かい。
ただ、その穏やかな朝の景色の奥に、明らかにこの世のものではないものがあった。
廊下。
その左右に、無数の扉が並んでいる。
遠くへ行けば小さくなるはずなのに、どこまで見ても扉の大きさは変わらない。
十枚、二十枚と数えることに意味がないほど奥まで続き、その先だけが白く霞んでいた。
「……なんだここは」
アウロは食卓へ近づいた。
味噌汁からはまだ湯気が上がっている。
指を近づければ、ちゃんと温かい。
ついさっきまで誰かがここにいたようにしか見えなかった。
壁の時計は午前六時十二分。
秒針は止まっている。
「ミオさん?」
呼んでみる。
返ってきたのは冷蔵庫の低い駆動音だけだった。
「ハルくんのお迎えでーす」
少し待つ。
やっぱり何もない。
アウロは無意識に耳へ手を触れた。
「リンちゃん?」
沈黙。
「……まあ、いないよね」
分かっていた。
分かっていたはずなのに、口から出た。
深度も分からない。
座標も分からない。
ミオがどちらにいるのかも、自分が本当に第六階層へ届いているのかすら分からない。
「恋しいな、リンちゃん」
今さらそんなことを言ったら、リンはどんな顔をするだろう。
たぶん顔色一つ変えずに、『今さらですか』と言う。
そこまで想像して、アウロは少しだけ笑った。
リビングを抜け、廊下の入口へ立つ。
左右に並ぶ扉を見渡した。
「……へえ、これは少し骨が折れそうだな」
手近な扉へ近づく。
「こういう時は、普通一番近いところからだよね」
ノブへ手を掛ける。
「ミオさーん。いたら返事してください。いなかったら勝手に入りますよー」
扉を開いた。
子ども部屋だった。
青いカーテンに、小さな勉強机。
壁には動物の絵が貼られ、床には積み木や色鉛筆が散らばっている。
ベッドの上には、子どもなら抱きついて眠れそうな大きな熊のぬいぐるみが座っていた。
「ハルくんの部屋かな」
アウロが一歩入る。
熊の首が動いた。
ゆっくりと、こちらを向く。
「……今、動いた?動いたよね?」
次の瞬間、ベッドが大きく沈んだ。
熊が跳んだ。
「速っ」
アウロは反射的に身体を横へ流した。
太い腕が鼻先を掠め、熊は勢いのまま壁へぶつかる。
ぬいぐるみとは思えない鈍い音が響いた。
「かわいい見た目でそれは反則じゃない?」
熊はすぐに振り返った。
もう一度腕が来る。
アウロは受け止めずに懐へ入り、伸びきった腕を脇に抱える。
そのまま腰を落として重心を崩し、熊の身体を床へ転がした。
巨体が床を滑り、机の脚へぶつかった。
「いや体術はあんまり得意じゃないんだよね」
熊が起き上がる。
投げた衝撃で腹の縫い目が裂け、白い綿が床へ零れていた。
「……効いてはいる?」
熊が一歩踏み出した。
裂けた腹から綿を垂らしたまま、さっきとまったく変わらない速度で突っ込んでくる。
「効いてないね」
横へかわす。
壁際まで誘導し、脚を払う。
熊の身体が再び倒れるのを確認するより先に、アウロは廊下へ飛び出した。
「はい、お留守番」
扉を閉める。
直後、内側から激しい衝撃が走った。
「大人しくしててよ」
もう一度、扉が揺れる。
「無理そうだね」
隣の扉を見る。
ほんの少し迷ってから、ノブを回した。
今度は同じくらいの広さの子ども部屋だった。
ただし、床一面に小さな兎のぬいぐるみが並んでいる。
三十体はいる。
いや、それ以上かもしれない。
アウロは扉を半分開けたまま止まった。
「……これは」
兎たちの首が一斉にこちらを向いた。
「閉めてもいい?」
一番手前の兎が跳ねた。
「だよね」
扉を閉じる。
すぐに向こう側で何かがぶつかり始めた。
「二連敗か」
背後でも熊が扉を叩き続けている。
アウロは少し考え、次の扉へ進んだ。
「ミオさんの部屋、もっと分かりやすくしておいてほしいな」
三枚目。
開いた先には玄関があった。
小さな靴が揃えて置かれ、黄色い傘とランドセルが壁際にある。
誰もいない。
「ハルくん?」
部屋の奥から、小さな声がした。
『お母さん』
『お母さん、起きて』
『今日、学校だよ』
『お母さん』
声だけが、家のどこかから聞こえてくる。
『ねえ、起きてよ』
アウロは黙って聞いていた。
それ以上は何も続かなかった。
扉を閉める。
次の扉には洗面所があった。
鏡の前に女が一人座っている。
長い髪。
細い肩。
顔は両手で覆われている。
「ミオさん?」
女は答えない。
代わりに、小さな声で呟いた。
『起きなきゃ』
『ご飯、作らなきゃ』
『起こさなきゃ。学校行かせなきゃ。』
『起きなきゃ』
『作らなきゃ』
鏡の中でだけ、女が顔を上げる。
けれど、そこに映っている顔には目も鼻も口もなかった。
アウロは静かに扉を閉めた。
「こりゃ間違えなさそうだ。」
ハルが言っていた言葉を思い出す。
ずっと疲れてただけなんです。
廊下を振り返る。
子ども部屋も、玄関も、朝食も、ハルの声もある。
ミオは何かを捨てたかったわけではない。
むしろ全部ここへ持ってきている。
「嫌いだから逃げたわけじゃないんだよね」
アウロは呟いた。
その瞬間、廊下の照明が一斉に消えた。
「……聞こえてた?」
遠くで、扉が開く音がした。
続いてもう一つ。
さらに、その隣も。
アウロが振り返る。
最初に開けた子ども部屋から、腹の裂けた熊がゆっくりと出てきた。
その向こうでは、兎のぬいぐるみが廊下へ溢れ始めている。
さらに別の扉からは片耳の取れた犬や、首の傾いた猫、古びたぬいぐるみが次々と姿を現した。
アウロは半身になる。
伸びてきた腕を外へ流し、そのまま肘を取って進行方向を変える。
熊の巨体が壁へぶつかった隙に前へ走る。
兎が足元へ飛びつく。
蹴り飛ばすのではなく、踏み込む位置をずらしてかわし、すれ違いざまに背中を押した。
小さな身体が後ろから来た犬へぶつかる。
「喧嘩するならそっちでやって」
横から猫の爪が伸びる。
アウロは上体を反らして避け、腕を掴む。
そのまま身体を回して猫を犬へ投げた。
「はい、仲良く」
走る。
いくら進んでも、廊下の景色は変わらなかった。
右にも左にも扉。
その奥にも扉。
そして、後ろからは床を叩く無数の足音が追ってくる。
「リンちゃん、こういう時って右だっけ、左だっけ」
当然、返事はない。
アウロは走りながら苦笑した。
「聞くだけ無駄か」
右の扉へ飛び込む。
そこには最初のダイニングがあった。
朝食。
午前六時十二分。
止まった時計。
「戻された?」
背後から熊が飛び込んでくる。
アウロはテーブルへ片手をつき、身体を浮かせて腕をかわした。
着地と同時に熊の背後へ回り、背中を押して食卓へ突っ込ませる。
食器が割れ、味噌汁が床へ散った。
それでも熊は起き上がる。
「倒すゲームじゃないな、これ」
別の扉から兎が入ってくる。
アウロはダイニングを横切り、反対側の扉を開けた。
廊下。
また同じ景色。
背後からぬいぐるみたちは途切れず追ってくる。
倒しても、別の扉から新しいものが出てくる。
壁へ投げても、床へ叩きつけても、少しすればまた起き上がってくる。
アンカーがない。
リンの声もない。
自分が正しい方向へ向かっている保証すらない。
身体は動く。
訓練も残っている。
けれど、それだけだった。
犬の突進を横へかわし、首の後ろを押さえて床へ流す。
その隙に猫が背後から飛びついてきた。
アウロは腕を掴み、身体を前へ折って勢いのまま投げる。
「……さすがに」
呼吸が少し荒くなった。
「数で来られると面倒だね」
廊下の先で、また扉が開く。
一枚ではない。
左右に並んだ扉が、次々と開いていく。
「それは聞いてないなあ」
熊や兎、犬や猫。
無数のぬいぐるみが暗い部屋の奥から這い出してくる。
後ろにも足音。
振り返る。
そちらも同じだった。
「挟まれたか」
アウロは足を止めた。
前後を塞がれている。
ここまで何度も扉を開けたが、ミオ本人には辿り着けていない。
どこまで進んだのかも分からなければ、戻る方法も分からない。
「……リンちゃんがいたら、今ごろ怒ってるだろうな」
返事のない空間へ話しかける。
「まあ、やるしかないか」
最初の熊が腕を振り上げる。
身体を沈めて潜り込み、懐へ入る。
片腕を取って崩し、そのまま横へ投げる。
「ハルくんには格好いいこと言っちゃったしな」
兎をかわしながら、アウロは小さく笑った。
「ここで『無理でした』は、ちょっと恥ずかしいよね」
熊の腕を受け流す。
その瞬間、背後から犬に身体をぶつけられた。
「っ……!」
床を転がる。
すぐに身体を起こしたが、もう目の前に兎がいる。
飛びついてきた身体を両腕で受け、勢いを殺しながら横へ投げた。
立ち上がる。
前にも後ろにも、まだいる。
「……ほんと、一人でやる仕事じゃないな」




