Old Anchor
『お母さんを返してください』
画面の中で、子どもは泣かなかった。
泣き出しそうな顔のまま、必死に立っていた。
ランドセルの肩紐を握る小さな指だけが震えている。
男は受話器を握ったまま、しばらく黙っていた。
「帰れ。何度来ても、ここで返せるものは何もねえ」
『嘘です』
「嘘じゃねえよ。ここは預かり所じゃねえ。来た奴が勝手に眠って、勝手に沈む場所だ」
『でも、お母さんはここに入りました』
子どもの声は細かった。
けれど、折れてはいなかった。
『少しだけ休んだら帰るって言いました。明日の朝ごはんも作るって。学校のプリントも見るって言いました』
男は目を閉じた。
うんざりしているようにも見えた。
痛いところを押されたようにも見えた。
「そういう約束を守れる奴は、最初からここには来ねえ」
『そんな言い方しないでください』
画面の中で、子どもが一歩だけ前に出る。
『お母さん、悪い人じゃないです。ただ、ずっと疲れてただけなんです』
アウロは画面から目を離せなくなった。
夜の庭に、小さな身体とランドセルだけが浮いている。
「入れてあげなよ」
男が受話器を持ったまま振り返る。
「お前さんには関係ねえ」
「夜中に子どもを玄関に立たせておく方が面倒でしょ。普通の家に見せたいなら、なおさら」
男はしばらくアウロを睨んだ。
やがて、舌打ちする。
「入れ。騒ぐなよ」
『……はい』
少し遅れて、門が開く音がした。
廊下の向こうから、小さな足音が近づいてくる。
玄関で靴を脱ぐ音。
床板が軋む音。
やがて、居間の入口に子どもが立った。
画面で見るより、ずっと小さかった。
ランドセルが体より大きく見える。
知らない大人が二人いる部屋を前にして、足が止まっていた。
アウロはすぐに膝をついた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「名前、聞いてもいい?」
「ハル」
「ハルくんか。俺はアウロ」
ハルは小さく頭を下げた。
それから、すぐに男を見る。
「お母さんは」
男は答えなかった。
ハルの顔が不安に歪む。
アウロは立ち上がり、男を見る。
「どこにいんだよ」
「誰が」
「あの子の母親だよ」
「顧客情報だ。言えねえ」
「この状況でよくそんな言葉が出るね」
「ここはそういう場所だ。誰が来たかも、何を見たかも、外には出さねえ。それで成り立ってる」
「じゃあいい」
「何がいい」
「俺が今から潜って探してくる」
男の眉が動いた。
「誰の夢かも分からねえのに、どうやって探す」
「だから聞いてる。あの子の母親は、ここにいるんだろ」
男は答えなかった。
「お母さんに会わせてください」
ハルがもう一度言った。
男は受話器を戻した。
玄関の画面を消してから、アウロを見る。
「……連れて帰れるって言うなら、勝手にしろ。何度もここで騒がれるよりはましだ」
「どこにいる」
「……三日前に来た女だ。ミオ」
ハルが顔を上げる。
「最初は第二だった。浅い休みの薬しか使ってねえ。朝には戻るつもりだったんだろうよ」
「今は?」
「第六だ」
男の声が低くなる。
「第六だぞ。正規の連中だって簡単には行かねえ深さだ。ましてこれは五世代前の簡易型だ。オペレーターもいねえ。座標も揺れる。帰還信号も切れてる。お前さんが行ったところで、寝床が一つ増えるだけだ」
ハルは意味が分からないまま、アウロの顔を見た。
不安だけは伝わったのだろう。
「お母さん、帰れないんですか」
アウロはハルの方を向いた。
「まだそう決まったわけじゃないよ」
男が鼻で笑う。
「随分優しい言い方をするな」
「子ども相手に怖がらせてどうすんの」
アウロは男へ視線を戻した。
「で、ミオさんの反応は残ってるんだろ」
「微弱にな」
「だったら追える」
「話を聞いてたか?」
「聞いてたよ」
「普通はここまで聞いたら、行きたくなくなる」
「いや、行くだろ」
あまりに迷いなく返され、男が黙る。
「……本気か?」
「最初から本気だよ」
アウロは肩をすくめた。
「俺はどうせ今日、潜るつもりだったんだ。たまたま助ける奴が一人増えただけだ」
「子どもの前で格好つけるなよ」
「格好つけてないって」
アウロはハルを見る。
ハルは、自分のせいで話が大きくなってしまったような顔をしていた。
アウロはもう一度、ハルの前に膝をつく。
「ハル」
「……はい」
「そんな顔しない」
「でも、僕が来たから」
「違うよ」
アウロは優しく笑った。
「俺は元々ここで寝るつもりだった。君が来ても来なくてもね」
「でも、危ないんですよね」
「……そうだね。危ない」
アウロは膝をついたまま、ハルを見た。
「でも、行くかどうかは俺が決める。君が頼んだから仕方なく、じゃない」
「だから、君が俺を危ないところに行かせるんじゃない。そこだけは間違えないで」
「……はい」
「それに」
アウロは少しだけ得意そうな顔をした。
「女は助けないとな」
ハルが瞬きをする。
「女の人だから?」
「そう。俺、女の人には弱いんだ」
男が呆れたように鼻で笑う。
「ただの女好きじゃねえか」
「否定はしない」
アウロはハルへ視線を戻した。
「だから、お母さんのことは任せて」
「お母さん、悪い人じゃないです」
「うん」
「ずっと疲れてただけなんです」
「分かってるよ」
アウロは迷わず答えた。
「怒ったりしない。会ったら、君が待ってるってちゃんと伝える」
「……お願いします」
「任せて」
ハルの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
男は長く息を吐き、茶箪笥から一枚の紙を取り出した。
「もうどうなっても知らねえぞ」
「最初から責任取ってもらうつもりないよ」
「だったら書け。仮名でいい。理由も適当でいい。ただ、戻れなかった時にどうするかだけは選べ」
アウロは紙とペンを受け取る。
「アウロ?雑な偽名だな」
「偽名じゃない俺にはこの名前しかないからな。」
潜行理由。
そこだけで、ペンが止まった。
アカネ。
その名前が一瞬だけ浮かぶ。
けれど、今から迎えに行くのは違う人だ。
アウロは書いた。
ミオ救助。
その下に、小さく書き足す。
帰還予定あり。
「予定ねえ」
「大事でしょ。予定は」
「帰ってから言え」
男は紙を受け取った。
「奥へ来い」
襖が開く。
さっき廊下から見えた畳の部屋だった。
布団が三つ敷かれている。
一つには、痩せた女が眠っていた。
頬は少しこけている。
長い髪が枕の上に広がり、その横で古い機械が低い音を立てていた。
「お母さん」
ハルの声が震える。
駆け寄ろうとする。
「待って」
アウロは肩にそっと手を置いた。
男も低い声で言う。
「今は触るな。接続が不安定だ」
ハルは足を止めた。
手を伸ばせば届きそうな場所に母親がいる。
なのに、触ることさえできない。
アウロはハルの肩を軽く撫でた。
「大丈夫。ちゃんと息してる」
「はい」
「俺が向こうで見つけてくるから、ここで待ってて」
ハルはミオを見たまま、小さく頷いた。
ミオの隣には、空いた布団が一つある。
その枕元に、もう一つのヘッドギアが置かれていた。
厚い金属の縁。
剥き出しの端子。
黒いケーブル。
今のスリープアンカーとは、まるで別物だった。
「これが五世代前?」
「ああ」
男はミオのヘッドギアから伸びるケーブルを持ち上げた。
「今の正規品なら電波で反応を飛ばせる。対象の近くに寝る必要もねえし、オペレーターが外から座標を固定できる」
「これはできない」
「だから繋ぐ」
男は黒いケーブルを、アウロ側の装置へ差し込んだ。
かちり、と音がする。
その隣には、蓋のついた細い差し込み口があった。
擦れた文字で、コイン読込・書込とある。
「こっちは?」
「保守用だ。普段は使わねえ」
男はそれ以上説明せず、端末へ向き直った。
「この女の反応を直接拾って、お前さんを近くまで落とす」
「同じ場所じゃなくて?」
「近くだ。そこから先は自分で探せ」
「随分ざっくりしてるね」
「五世代前に文句言え」
端末の画面に文字が浮かぶ。
MIO / DEPTH TRACE 6
MIO / RETURN SIGNAL LOST
AURO / CONNECTION STANDBY
OPERATOR NONE
アウロは画面を見つめた。
最新型なら、ここには別の名前があった。
リン。
潜るたび、耳元にいた声。
今はない。
「武器は持ってんのか」
「支給品は返した。使えるアンカーはないよ」
男はアウロを見たまま、しばらく黙っていた。
「本当に、面倒な客を寄越しやがった」
「薬は?」
「深度を合わせる」
男は薬箱から小瓶を取り出した。
「こいつを飲めば、お前さんも深く落ちやすくなる。ただし第六にぴったり落ちる保証はねえ。あとは、この女との接続を頼りにするしかない」
「帰りは?」
「ミオの帰還信号は切れてる。お前さんの分も、この深さじゃ固定できねえ」
男は二つの装置を結ぶ線へ目を落とした。
「これは向こうの反応を追うための線だ。帰り道まで用意するもんじゃない」
「フォレストコインの代わりにはならないってことね」
「そこまで知ってんなら、やめとけ」
「そこは何度聞いても最悪だね」
「だからやめろって言ってんだ」
「でも行く」
「知ってるよ」
男はもう止めなかった。
濁った液体を紙コップに入れ、アウロへ差し出す。
アウロは匂いを嗅ぐ。
「まずそう」
「味わって飲むな」
「じゃあ一気にいくか」
飲み干す。
苦味が舌に残った。
喉を通った瞬間、胃の奥がひやりと冷える。
アウロはミオの隣の布団に横になった。
ほんの一メートルも離れていない。
けれど、ミオは第六階層のどこかにいる。
目の前にいる人間が、途方もなく遠かった。
男がヘッドギアをアウロの頭に固定する。
金属の冷たさが、こめかみに触れた。
ケーブルがもう一度確認される。
ミオ。
端末。
アウロ。
三つが一本の線で繋がった。
「ハル」
アウロが呼ぶ。
「はい」
「お母さんが起きた時、一番最初に顔を見せてあげて」
「……はい」
「それまでは、ちゃんとここにいて」
「アウロさんは?」
「俺?」
アウロは少しだけ笑った。
「一緒に帰ってくるよ」
ハルは今度こそ、しっかり頷いた。
「待ってます」
「うん。それが一番助かる」
薬が効き始める。
天井の染みが滲む。
輪郭が溶けて、部屋の奥行きがおかしくなる。
いつもなら、ここでリンの声がする。
深度確認。
座標確認。
帰還経路の確認。
何もない。
聞こえるのは、古い機械の唸りと、隣で眠るミオの呼吸だけだった。
ランの声が、耳の奥で蘇る。
簡易型は潜るための道具じゃない。
沈むための道具よ。
分かっている。
それでも。
「お願いします」
ハルの声が聞こえた。
アウロは目を閉じる。
「任せて」
男が端末に指を置く。
ケーブルの先で、ミオのヘッドギアが低く鳴った。
続いて、アウロの装置が震える。
画面の文字が切り替わる。
AURO / CONNECTION START
次の瞬間。
アウロの身体は、ミオの眠りへ引きずり込まれた。




