The House
「見るな」
男が言った。
「見せたくないものを廊下に置くなよ」
「あれは客だ」
「客に見えないけど」
「眠ってりゃ、だいたい同じだ」
男はトレジャーブラックの煙を吐いた。
紫がかった煙が、廊下の青白い光に溶けていく。
アウロは半開きの襖を見た。
布団に眠る人たちの顔は、穏やかではなかった。
苦しんでいるわけでもない。
ただ、どこか遠くに置き去りにされた顔をしていた。
「この家、田中さんの?」
アウロは表札を思い出して聞いた。
男は少しだけ振り返る。
「誰のかがそんなにお前に重要か?」
「いんや、全く関係ないね。世間話だよ。嫌いか?」
「無駄口はいい。お前さんをさっさと夢の中にいれて俺はこいつを楽しむ。」
男がマッカラン30年の小瓶に手をかける。
「そいつは失礼した。まあ気になっただけだよ」
アウロはアメスピの煙を細く吐く。
湿った畳と、消毒液と、煙草の匂い。
全部が混ざって、古い病院の待合室みたいだった。
「そういえば、ランさんに聞いて来たんだ。何かあったら連絡してって」
「……あいつか。面倒な客を寄越しやがって」
「俺、まだ何もしてないけど」
「それで、お前さんはどれくらい沈みたいんだ」
男は居間の奥へ入りながら言った。
低いテーブルの上には、古い薬箱と、黄ばんだ紙束が置かれている。
薬箱の横に、仏壇に似合わない小さな端末があった。
「どれくらいって、深度を選べるの?」
「選べると思うなら帰った方がいい」
男は薬箱を開けた。
中には、銀色のシートに包まれた錠剤と、ラベルの剥がれた小瓶がいくつか並んでいる。
「こっちでできるのは、眠りの強さを変えることだけだ。浅く寝れば浅いところで止まりやすい。深く寝れば、深いところまで落ちやすい。ただそれだけだ」
「ずいぶん曖昧だね」
「夢だぞ?曖昧であたりまえだろ」
男は小瓶の一本を指で弾いた。
乾いた音が、畳の上に落ちる。
「この薬は、入口を開けるためのものだ。どこまで行くかは、本人の中身が決める。会いたい奴がいるのか、逃げたい場所があるのか、戻りたくない理由があるのか。沈む深さは、だいたいそっちに引っ張られる」
アウロは煙を吐いた。
アメスピの苦さが、舌の奥に残る。
「薬だけでフォレストに入れるわけじゃないよね」
男の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、止まった。
「……お前さん、妙なことを知ってるな」
「そう?」
「普通の客は、薬を見たら怖がるか、早く飲ませろと言う。装置の話を先にする奴は少ない」
アウロは肩をすくめた。
「昔、そういう現場の端にいたことがある」
男の目が、ゆっくりとアウロを見た。
濁った目の奥に、さっきまでなかった警戒が灯る。
「対策室?」
「フォレスト関係の雑用だよ。もう五年も前の話」
嘘だった。
五年どころか、つい最近までアウロはあちら側にいた。
でも、ここで本当のことを言うほど馬鹿ではない。
「面倒ごとは避けたい」
「俺も避けたい」
「なら、余計なことを聞くな。ここは眠りたい奴が来る場所で、調べたい奴が来る場所じゃねえ」
「調べに来たわけじゃない」
「そういう顔には見えねえな」
「じゃあ、どんな顔?」
「戻る気のある顔だ」
男はトレジャーブラックを吸い、煙をゆっくり吐いた。
「ここに来る奴は、戻る気がない方が扱いやすい。眠らせて、沈ませて、あとは機械の音を聞く。戻れる奴は鳴る。戻れない奴は静かになる。それだけで済む」
「静かになる、ね」
男は薬箱を閉じ、今度は仏壇の横にある端末の電源を入れた。
古い画面に、ノイズ混じりの文字が浮かぶ。
OPERATOR NONE
RETURN SIGNAL STANDBY
DEPTH UNKNOWN
その文字だけで、アウロの背中に冷たいものが走った。
「オペレーターはいないんだね」
「いるわけがないだろ」
「帰還座標は?」
「機械が拾う。拾えたらな」
「深度固定は」
「甘い」
「痛覚制御は」
「期待するな」
男はそこでアウロを見た。
「やっぱり詳しいな」
「昔の癖だよ」
「五年前の雑用か、随分嘘が下手くそなやつだな。」
「優秀な雑用だったんだ」
「まあいい。面倒ごとでないならな。それにこいつもあることだし」
たぶん、マッカラン30年とトレジャーブラックの方が、警戒より少しだけ重かったのだ。
「いいか」
男は声を落とした。
「ここでできるのは、眠らせることだけだ。夢の中で迷っても、こっちは呼べねえ。深く落ちても、手は伸ばせねえ。戻りの信号は一回きりだ。そこで掴めなきゃ終わり。だから深いところへ行きたいなら、最初から別の場所を探せ」
「別の場所なんてあるの?」
「あるなら俺が知りてえよ」
男は低く笑った。
笑ったのに、目は少しも笑っていなかった。
アウロは端末を見つめる。
いつもなら、声があった。
リンの声。
深度。
心拍。
残弾。
帰還座標。
痛みの波。
全部、誰かが見てくれていた。
ここには誰もいない。
沈むのも、戻るのも、自分一人。
「それでもやるか」
男が聞いた。
アウロはすぐには答えなかった。
答えれば、そのまま底へ落ちる気がした。
その沈黙を破ったのは、玄関のインターホンだった。
男の顔が、はっきりと曇る。
「……またか」
「客?」
「違う。客ならまだましだ」
部屋の隅に置かれた小さな画面が点いた。
青白いノイズの中に、玄関前の映像が浮かぶ。
小学生くらいの子どもだった。
ランドセルを背負ったまま、門の前に立っている。
髪は乱れている。
頬は赤い。
片方の靴紐がほどけていた。
目だけが、泣き腫らしたみたいに濡れている。
男は壁の受話器を取った。
「帰れ。何度来ても同じだ」
低い声だった。
子どもは画面の中で首を振る。
『お願いします』
声が震えていた。
『お母さんを返してください』




