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Sleepers

 病室の機械音が、まだ耳に残っていた。

 アウロは歩きながら、ポケットの中のコインに触れる。

 VIGILの正規設備は、もう使えない。

 それでも、潜る方法を探すつもりだった。


「……まずは、あそこか。」


 アウロは駅前の明るい道を外れた。

 細い路地へ入る。

 古いビルの階段を上がる。

 二階の端に、小さな看板があった。

 Snack Ran

 紫色の灯りが、夜の壁にぼんやり滲んでいる。

 アウロは扉の前で一度だけ息を吐いた。

 ここに来るのは久しぶりだった。

 できれば来たくなかった。

 嫌いな場所ではない。

 むしろ、好きな場所だった。

 だからこそ、今の顔では来たくなかった。

 扉を開ける。

 鈴が鳴る。

 中は狭い。

 カウンターが六席。

 奥に小さなソファ。

 壁には古い映画のポスターと、止まったままの時計。

 カウンターの奥で、ランがグラスを拭いていた。

 元VIGILオペレーター。

 かつてレヴァンの潜行を支えた人。

 そして、アウロに最初を叩き込んだ元教官。


「あら」


 ランは目だけで笑った。


「死人みたいな顔してる」

「開口一番それ?」

「褒めてほしかった?」

「できれば」

「じゃあ、生きてて偉い」

「それ、本当に褒めてる?」

「今のあなたには十分でしょ」


 アウロはカウンターに座った。

 椅子の革が少し沈む。

 ランは何も聞かず、氷の入ったグラスを置いた。


「飲む?」

「弱いやつ」

「珍しい」

「強いの飲むと、余計なこと言いそうだから」

「もう顔に全部出てるけどね」


 ランは薄い酒を作る。

 氷が小さく鳴った。

 アウロはグラスに手をつけないまま、カウンターの木目を見ていた。


「ランさん」

「なに」

「早速ですまないんだけどさ、思い出話をしにきたわけじゃないんだよ。」

「VIGILの正規設備を使わずにフォレストに潜る方法、知らない?」


 氷の音が止まった。

 店の奥で、小さな冷蔵庫が低く唸っている。

 ランはしばらく黙っていた。


「帰りなさい」

「冗談で済む話じゃない」


 ランの声は低かった。

 さっきまでの軽さが消えている。


「誰に聞いたの」

「誰にも」

「じゃあ、どうしてそんなことを考えるの」

「必要だから」

「死に場所を探してる顔をしてる」

「違う」

「じゃあ、死にに行く顔をしないで」


 アウロは笑おうとして、やめた。

 ランはグラスを置いた。


「今のVIGILが使っているスリープ・アンカーは、ただの鍵じゃない」

「深度固定」

「帰還座標の維持」

「痛覚制御」

「精神負荷の補正」

「オペレーターとの接続」

「全部ひっくるめて、ようやく潜れる」

「知ってる」

「知ってるなら聞かない」

「それでも必要なんだよ」

「あなたは昔からそう」


 ランは呆れたように息を吐く。


「必要って言えば、命も雑に扱っていいと思ってる」

「そんなこと思ってない」

「思ってる顔よ」


 アウロは返せなかった。

 ランはカウンター越しに、アウロの額を軽く指で弾いた。


「いた」

「教官の言うことは聞きなさい」

「もうVIGILじゃないんだけど」

「じゃあ、元教官の言うことを聞きなさい」

「もっと逃げ場ないな」

「私に逃げ場を習った覚えはないでしょ」


 ランの声は柔らかかった。

 でも、目は逃がしてくれなかった。


「アウロ」

「はい」

「その返事が出る時点で、相当まずいことを考えてるわね」

「教育がよかったから」

「私の教育なら、まず相談が先」

「だから来た」

「相談じゃなくて、抜け道を聞きに来たんでしょ」


 アウロは小さく笑った。

 ランは笑わなかった。


「正規の支援もなしに潜るなんて、海に肺だけ置いて飛び込むようなものよ」

「でも、できるんでしょ。その反応は」


 ランの目がわずかに揺れた。

 アウロはそれを見逃さなかった。


「いるんだね」

「……あなた、嫌なところだけ鋭い」

「ランさんの教え」

「そんなこと教えた覚えはない」


 ランは店の扉へ目を向ける。

 誰も入ってこないことを確認してから、声を落とした。


「眠らせる場所がある」

「眠らせる?」

「表向きはただの民家」

「でも奥で、人をフォレストへ送ってる」


 アウロの指が、グラスの縁に触れた。


「民間人を?」

「そう」

「救助じゃなくて?」

「救助じゃない」


 ランは言った。


「行きたい人を、行かせる場所」


 アウロは黙った。

 アカネの声が、耳の奥で響く。

 ここが家だよ。


「死んだ人に会いたい人」

「現実で眠れない人」

「家に帰りたくない人」

「夢の方が息ができる人」

「そういう人たちが、自分でお金を払って潜る」

「悪趣味だな」

「現実の方が悪趣味なこともある」


 アウロは何も返せなかった。


「装置は」

「五世代前の簡易型スリープアンカー」

「そんなものが民間に流れてるのか」

「流れてる」

「誰が流してる」

「知らない」


 ランは煙草の箱に手を伸ばして、やめた。


「アウロ」

「なに」

「行くなら止める」

「止めても行く」

「そう言うと思った」

「じゃあ教えて」

「嫌な子」

「よく言われる」

「分かってるなら直しなさい」


 ランはカウンターの下からメモを取り出した。

 何かを書いて、アウロの前に置く。

 住所と、短い合言葉が書かれていた。

 店の名前はない。


「簡易型は潜るための道具じゃない」

「沈むための道具よ」


 アウロはメモを折って、ポケットに入れた。


「着いたら私の名前を出しなさい。何かあったら連絡するよう、あの男にも言って」

「心配してくれるんだ」

「連絡を待つ身にもなりなさい」

「ありがとう」

「感謝するなら行かないで」

「無茶なこと言わないでよ」


 ランは小さく笑った。

 笑ったのに、目は笑っていなかった。


「夢の中で、誰かに優しくされたら気をつけなさい」

「どうして」

「現実で優しさに飢えている人ほど、そこで帰れなくなる」


 ランはグラスを拭く。

 指先が少しだけ強くなる。


「昔、何度も見た」

「戻る座標を握っているこっちの声より、夢の中の誰かの声を選ぶ人を」


 アウロは黙った。


「ランさんは」

「なに」

「それで誰かを失くした?」


 ランは答えなかった。

 代わりに、静かに笑った。


「閉店よ」

「おしまい。今日は、あなたで疲れた」


 アウロは扉へ向かう。


「アウロ」


 呼び止められる。

 振り返ると、ランはカウンターの奥に立ったまま、こちらを見ていた。


「レヴァンに似てきたわね」

「どこが」

「止めても行くところ」

「それ、褒めてる?」

「最悪って意味」

「じゃあ似てないことにする」


 ランは小さく息を吐く。


「似てるから、止めてるの」


 アウロは返事をしなかった。

 扉を開ける。

 鈴の音が背中で鳴る。

 夜の空気は、少しだけ冷たくなっていた。

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